3. 出会い2
震える足を叱咤して、何とか広間に戻ったオリヴィアは、必死で先ほどの出来事を頭から追いやろうとしていた。だがそうすればするほど、与えられた感触が鮮明に蘇ってくる。
図らずも、あれがオリヴィアの初めての口付けだったのだ。だからこそ余計に衝撃は大きかった。それまで誰にも許したことのなかったこと。それを突然合意なく奪われた。あの瞬間、最初に感じたことは怒りでも恐怖でもなく、何が起こっているの?という混乱と疑問だけだった。人は本当に理解不能な状態になると心も身体も固まってしまうらしい。理解することを拒否したのかもしれない。正しく状況を把握できたのは、一連の事が終わってからだった。
今になって、恐怖が怒りを上回る。誰とも知らない男性に、初対面でいきなり唇を奪われたのだ。しかもあのような場所で。オリヴィアにとって幸いだったのは、どうやら広間にいる人々にはテラスにいた二人のことは気づかれずに済んだことだ。好き勝手にされた唇が、じんと熱を持っているようで、それさえもが怖くて、本当なら今すぐ唇を擦りたかった。あれを無かった事にしたかった。
もうこの場から立ち去りたい。領地に、屋敷に戻りたい。社交界がこのような場だというなら、もう二度と来たくない。だけど、オリヴィアは今それが許されない事を知っている。早く、父の言う挨拶とやらを終えたい。そして退出の許しを貰おう。今日はもう無理だ、これ以上笑顔を作れない。
何度も深い呼吸をして、身体の震えをどうにか押さえつける。オリヴィアは早く用を済ませてしまおうと父の姿を目で探した。そのうち、こちらへ近付いてくる父の姿を捉える。一瞬だけ肩の力が抜けそうになって、だがすぐにぎくりと全身に緊張が走った。
父と共に近付いてきた、おそらくあれが挨拶すべき相手なのだろうその人は、つい先ほど二度と会いたくないと願った、あの青年だった。
*
「オリヴィア、そこにいたのか。探したぞ」
オリヴィアは警戒心も露わに硬直したまま、それでいて少し色が濃くなったようにさえ思えた空色の瞳に再び射竦められて、そこから視線を逸らせることも出来ないでいた。その間も二人はずんずんとオリヴィアとの距離を詰めてくる。
オリヴィアの内心などお構いなしに、父は彼女の目の前まで来ると立ち止まり、常にはない上機嫌の顔でその青年を引き合わせた。
「アルバーン卿の次男のフレッドだ。オリヴィア、挨拶しなさい。お前の結婚相手だ」
「えっ?」
青年を引き合わせるや否や衝撃的な一言をさらりと告げた父に、思わず淑女らしくもなく驚きの声を漏らしてしまう。今、何て。オリヴィアの理解の範疇を超えた言葉は、頭の中に留まらずに耳からするりと滑り落ちていった。
父は何と言ったのか。
いつかその日は来ると判っていたつもりでも、あまりに突然の事に頭の中が真っ白に塗り潰されていく。
青褪めるオリヴィアに、その青年……フレッドが余裕綽々といった表情で優美に挨拶の礼を取った。
「初めまして、フレッド・アルバーンと申します。このようにお美しいご令嬢を妻に迎えられるとは光栄です」
妻。
それは一体何なのだ。
今だ衝撃は収まらず、どころか心臓を打ち鳴らす音は怖いほどに音を増していった。
妻。結婚相手。
咄嗟に返す言葉もないオリヴィアとは違い、フレッドはいっそ和やかと言って良い笑みで彼女を見ていた。そのくせ瞳はしらじらとしている。堂々と「初めまして」と言ってのけるのが腹立たしい。彼はオリヴィアが自分の妻になると知っていて、あのような無体を働いたのだ。それでやっと先ほどまで噛み合わないと思っていた会話が少しばかり理解できた。同時につい先程の仕打ちが脳裏に蘇って、いつもなら笑顔と共にすんなりと出てくる挨拶の言葉が全思いつかない。
それどころか、身体の震えさえ蘇りそうになり、オリヴィアはどうにか無様な格好を晒さないようにと意志を総動員して悲鳴を上げそうな心を押さえつけた。
「初め、まして……オリヴィアと、申します」
何とか声を振り絞って挨拶だけはこなしたが、それきりオリヴィアは上手く相手のお世辞をかわす事もできずに目を伏せてしまった。
この男が、夫。
女性をあのように扱う人と結婚しなければならないのか。己の結婚相手が事前に決まっていたこと、それをこの場で唐突に告げられたこと、その相手が先ほどの青年だったこと、そしてもはや逃れる術がないこと。ショックのあまりそれ以上口を開くことが出来ずにいたオリヴィアを、父は何故か恥じらいととったらしく、更に相好を崩して言った。
「娘も君が相手で満更でもないようだ。細かい日取りは追って決めるということにして、せっかくの夜会の場だ。まずはお互いを知るところから始めたら良い」
「ええ、そうですね。後日改めて父とご挨拶にお伺いさせて頂きます」
父とフレッドは何も言えずにいるオリヴィアを置いて話を進めていく。この結婚が両家では既に既知の事実であることを否応なく突きつけられる。オリヴィアだけがこの展開についていけずにいた。父が、じゃあ後は娘を頼むよ、と言い置いてさっさとその場を立ち去った。
「また会いましたね。では早速……、一曲お相手いただけますか?」
未だ受け止めきれずに呆然としているオリヴィアに、フレッドが憎らしいほどの笑みを向けた。少し前と同じ台詞を同じようにしれっと掛けられる。二人にしないで欲しいという内心の願いは空しく心の中でだけ弾けて消えた。身体がふらりと傾く。気をしっかり持たなければ、と咄嗟にたたらを踏みどうにかその場にとどまるも、頭の中がハンマーで叩かれているかのように痛みを訴えた。
「い、嫌です」
思わず淑女らしくない、明らかな断りの言葉を放ってしまいオリヴィアは臍を噛んだ。これでは動揺しているのが筒抜けではないか。そんなオリヴィアを見てフレッドがくすりと笑った。それがまた癪に障って、恐怖に圧されて成りを潜めていた怒りが再度もたげた。オリヴィアは出来る限りの拒絶を込めて、フレッドを静かに睨みつけた。
「今夜は失礼させてください。夫になる人があのような非礼を働く方だとは受け入れられそうにありません」
「なるほど。でもこの結婚はもう決められたことですよ。僕たちは夫婦になる」
「あなたがこれから私を妻と思うなら、尚更節度ある振る舞いをお願いします。生憎気分が優れませんので、これで」
オリヴィアは見た目だけはこれ以上ないというほど優雅に、内心では湧き上がる怒りを抑えながらお辞儀をすると、フレッドの脇をすり抜け早足で広間の出入り口へ向かった。背後でフレッドが軽く笑う声が聞こえた。
「またすぐにお会いしましょう」
もう二度と会いたくない、とオリヴィアは心の中でだけフレッドに冷たく言い返した。この青年が夫となることは到底承服できることではなかった。振り返る気もなかった。
だが、オリヴィアが何を言ったところでもはやこの決定が覆らないこともまた、諦めと共に受け入れなければならない事実でもあった。