6. 苦しい選択
何も食べる気がしない。
何をする気も起こらない。
それでも身体はその動作を覚えている機械のように動いた。
グレアム夫妻に迷惑を掛けてはいけない、その思いだけでオリヴィアは動いていた。
あの日以降、何度も彼の家から使いの者が来たり手紙が届けられていたが、封すら開けていなかった。
彼の家の紋章の入った手紙を見る度、王女の甘い視線を受け止めていたフレッドの後姿が何度でも蘇る。王女が呼んだ彼の愛称が繰り返し再生される。
自分のいない時には彼も王女殿下のことを名前で呼んでいるのかもしれない。
そう思う度に何度でも心臓が刺されたように痛み、どす黒いものが内を覆った。
幾度か、彼自身が屋敷まで来たようだが、それも全て引き取って貰うように執事にお願いしていたからオリヴィア自身は直接会っていない。 会えば、この自分でさえ持て余しているドロドロとした感情が迸ってしまいそうで、まともな状態で居られないだろうことを恐れた。
何が悪かったのか、と何度も自問した。もっと早くに自分の気持ちを伝えていれば、こうはならなかったのだろうか。もっと早く自分の気持ちに気付けていれば。
そもそもの最初は政略結婚だったのだから、好きにならなければこんなに辛い思いをする事もなかった、なんて事まで考えてしまう。
だけどもう遅い。
ふと父の事を考える。父の事がなければ、今頃は彼と夫婦になっていた筈だった。
父の罪が明らかになると共に財産はあらかた屋敷共々没収された。その内屋敷と国防に関する分は、いずれ弟が戻って来る日まで王都から派遣された者が代理で管理している。そして、その残りの内一部がオリヴィアの手元に戻って来ていた。
一着の純白のドレス。
父がオリヴィアの婚約期間の間に用意していたであろう、それを目にした時、オリヴィアは父の思いに少しだけ触れた気がした。そのドレスは流行りのデザインではなく、施された刺繍もレースも王都の令嬢達が好んでしているものではなかったが、それでも流行り廃りを超えた品のある装いになっていた。
父が母にしたことはおぞましいと思うし、今でも許せるわけではない。だけどそれとは別に子供達のことは父なりに愛情を注ぎ幸せを願ってくれているのだと、繊細な刺繍が全面に施された溜息が出るほどに美しいそのドレスが物語っていた。そのドレスを見てしまえば、父のことが原因で破談にはなったものの父が望んで白紙にしたわけではないだろうことが察せられて、父を憎むこともできなかった。
これを着るのはいつになるのだろう。その時自分は誰の隣でこれを着ているのだろう。もしかすると一生着ることはないかもしれない。とはいえ、一生独り身では引き取ってくれたグレアム夫妻に迷惑になるだろう。
ふ、と諦めを含んだ溜息が漏れた。
あの人でないなら、もう誰でも構わなかった。グレアム夫妻のためになる結婚を見繕ってもらえばいい。
そもそも、あの人のことでさえもただの政略結婚だったのだから。 そうしよう。そうすれば少しは楽になれるだろう。出来れば王都から離れた領地の人がいい。王都にはなるべく近づかず、社交界のお付き合いも必要最低限にして、静かに穏やかに暮らせるのなら誰でも良かった。早くあの人のことは忘れよう。とうに忘れなければならない人であったのを、此処まで引きずってしまった自分が良くなかったのだ。
それに、あの時は動揺のあまり考えが廻らなかったが、良く良く考えれば、自分は王女が寵愛している相手と二人きりで居たのである。あの時自分が取るべき行動は、走って逃げることじゃなかった。その場で跪き謝罪するべきだったのだ。
それをいくら動揺したからといって、彼を庇うこともせずに逃げてきてしまった。彼の立場を悪くしてしまった。
やはりエマを連れて行けば良かった。いや、そもそも噂を耳にしていたくせに図々しくも王宮まで出向いたのが間違いだった。
いつ罰せられてもおかしくない。そのことに気付いてオリヴィアは血の気が引いた。自分の事はいい。だが、引き取ってくれたグレアム夫妻にまで累が及ぶことは絶対に避けなければならない。
王宮から戻ってから、以前よりもますますその感情を見せないで過ごしていたオリヴィアからの突然の申し出は、グレアム夫妻を驚かせた。
縁談を整えて欲しい。
そう伝えたオリヴィアに、マルヴェラもグレアム公も何度もそれでいいのかと確かめ、その度にオリヴィアは頷いた。マルヴェラは特にここ最近のオリヴィアの様子に思うところがあったようだが、結局は今何を訊いても答えは得られないと察したのか、それ以上何も問い質さずに最終的にはグレアム公と共にその申し出に同意してくれたのだった。
オリヴィア自身、それで上手く収まるのだ、と思っていた。少なくとも、この時は。
*
顔合わせは比較的早くに整えられた。
おそらく元々その人にグレアム公爵家を継がせるつもりがあったのかもしれない、公爵家の遠縁にあたるという人との縁談を、オリヴィアは特段何の感慨もなく受け入れた。
これで公爵家も正式に跡継ぎを迎えられるのだ。きっと公爵家夫人になれば静かな暮らしは出来そうにないが、それは仕方ない。これでグレアム夫妻の後継問題も解決するのだ。オリヴィアはこれで良かったのだと思った。
あとは一刻も早くこの婚約が公示されればいい。それできっと彼の身の証を立てられる。これが殿下への謝罪代わりになれば、いい。
今年の社交シーズンは終わっているため、結婚は貴族たちが社交シーズンに向けて王都に集まってくる、来シーズンが始まる少し前の三月に行われることになった。
印象の薄い人だった。公爵家の血筋ではあるのだろうが、遠縁と言うだけあってグレアム公とはあまり容姿に血の繋がりは感じられない。いずれ公爵位を継ぐことになる人だが、何と無く気弱そうに見えた。 オリヴィアとは九歳の差があるからか、その人が夫になるという実感は全くなかった。
もっとも、それは誰が相手であっても同じことかもしれなかった。
「これからよろしく」
一通り顔合わせをした後、夫となる人がオリヴィアの手を取り、唇を寄せてくる。その感覚に一瞬だけぞわりとしたが、表には出さなかったから相手には悟られていない筈だった。
きっと慣れれば何でもないことの筈だ。こんな触れ合い位、大したものではない。社交界ではダンスの度に味わってきたことだ。
それに公爵家を継ぐ以上、いつか自分はこの人の子供を産まなければならないのだから。
……本当に、出来るのだろうか。想いを寄せた相手にさえ、身体を差し出す事は躊躇われたのに、そうでない人を相手にそれが出来るのだろうか。
とはいえ、あの人の時がただの我儘だったのだ。あの人が次男だったから我が儘を通せる気がしただけで、普通は政略結婚ならそこに思いが有ろうと無かろうと、嫡子を設けなければならないのだ。
それが、どれだけ忌避する事であっても。
*
その数日後、オリヴィアは公爵家の屋敷のサロンにて侍女が淹れてくれた紅茶と、焼き立てのスコーンを前に、素っ頓狂な声を上げるリリアナを目にして苦笑していた。
「そんな……結婚って!」
自身の結婚式の招待状を自ら渡しに来てくれたリリアナに、自分も同じ時期に結婚することになったと告げるとリリアナは淑女らしくもなく驚きの声を露わにした。
「えっ、どうしてそんな急に……お相手は?」
「ハウエル家のご長男です。ルバート様というの」
「どうして」
「どうしてって、私も貴族の娘ですもの。結婚は親が決めるもの、でしょう?」
自分よりもよっぽど悲痛な顔をしているリリアナは素直だとオリヴィアは思う。これまで何度も訪ねて来てくれたリリアナは今やオリヴィア自身にとっても大事な友人である。二人は名前で呼び合うほどになっていた。
「オリヴィアはそれでいいの?」
「……もちろん。これでおじ様とおば様に恩返しができるわ」
「そうじゃなくて!」
リリアナが泣きそうな顔をするから、オリヴィアは却って微笑むことができる。紅茶を口に含むとすっきりとした芳香が広がった。甘いスコーンにはこれくらいきりりとした味の紅茶の方が良く合う気がする。
「貴女自身の気持ちはどうなの?フレッド様のことは?」
「……あの方とはもう終わったの。いえ、とうに終わっていたのよ」
「……もしかしてあの噂のこと?そうなんでしょう」
「噂だけじゃないわ。この目で見たの。……相手がヴィオラ殿下では、私の出る幕はないわ」
「ねえ、聞いて。オリヴィアが何を見たか知らないけれど、それはきっとフレッド様の本心じゃないわ。お願いだから結婚は思い留まって」
オリヴィアはリリアナに諭すように告げた。あの人と出会って、良かったと思えることがあった。その一つがリリアナと友人になれたことだ。
「貴女がそこまで言ってくれるのは本当にありがたいと思うわ。でもね、例えあれがあの方の本心でなかったとしても、殿下は間違いなくあの方に好意をお持ちだわ。だから結果はいずれ同じ事になると思わない?
私はあの方といる殿下に嫉妬したわ。羨んだし、憎いとさえ思った。……今もそう思ってる。でも今ならまだ心の内で思うだけで済むわ。だけどこれ以上は無理。
二人が同じ王宮にいるというだけで心に重石が乗ったようになるのだもの、きっと私はそのうち醜い感情を殿下に向けてしまう。
私の方が、殿下からいつお咎めを受けても仕方ない立場なのに、恐れ多くも殿下にそんな感情を向けてしまったら取り返しがつかなくなってしまう。
……だから今の内にこうした方がいいの。これでいいのよ」
リリアナに弱く微笑む。わかって欲しい、そう思いを込めて。オリヴィアの笑顔にリリアナはますます顔を歪めた。
「貴女は何も悪くないのに、貴女が幸せになれないなんて間違ってる」
「やだ、リリアナ。幸せになれないなんて酷いわ。私がこれでいいと言っているのよ。だからどうぞ私の結婚を祝って頂戴」
ね?とリリアナに促すと、リリアナが弱々しく微笑み返した。大丈夫だから、という風に笑みを深めるとわかったわ、と彼女は顔を歪めながら涙を拭った。すっかり冷めてしまったスコーンを一口齧る。
「ねえ、私のお相手がフレッド様でなくなったからといって友人をやめないでくださる?私、あまり友人がいないものだから……」
友人がいないなんてあまり大っぴらに言えることではない。だが勇気を出して言うと、リリアナが今度は心から笑って言った。
「勿論よ!自慢じゃないけど、ここだけの話、私もあまり友人は多くないんだから」
それを聞いてオリヴィアは思わずくすりと笑ってしまった。リリアナも笑ってくれる。お互いに少しだけ目尻に涙が浮かんでいることには気が付かない振りで。