5. 思い上がっていた
ノックの音に二人は反射的に身体を離す。フレッドが立ち上がって執務机へ足を向けながら、どうぞと返事をした。
フレッドが執務机に戻るよりも早く勢い良くドアが開き、ダークブロンドの髪にペールグリーンのドレスを着た女性が疾風のように部屋に足を踏み込んだ。
その覚えのある姿にはっとしてオリヴィアは反射的に立ち上がる。
「フレディ兄様!フレディ……あら、失礼。お客様でしたの」
悪びれる様子もなくこちらを見たアルディスの名を持つその人に、オリヴィアはすぐさま最敬礼をとった。社交界で会ったことはなかったものの、この国の人間で彼女を知らない人はいない。
王妃と同じダークブロンドの髪と紫水晶の色をした瞳。意志の強そうな眼差しに豊かな胸。デイドレスはデコルテを覆うものだが、その豊満な胸はドレスの上からでも良くわかった。そのデイドレスも随分と意匠が凝らされている。衿ぐりと袖の部分には幾重にもシフォンが重ねられふわふわと揺れている。胸元から裾にかけてはレースがあしらわれており陽の光に複雑な模様が浮かび上がった。舞踏会などで着るドレスではないため華やかさは控え目だが、まだ少女である王女を飾るには充分だった。耳元にはサファイアだろうか、紫水晶よりも一段強い紫の宝石が飾られている。正しくこの国の王女その人であった。
「お初にお目にかかります、ヴィオラ王女殿下。オリヴィア・フリークス・グレアムと申します」
深く頭を下げて礼をするオリヴィアに、王女は一瞬首を傾げてから得心したように頷いた。
「グレアム?確か公には御息女はいらっしゃらないのでは……ああ、貴女がフリークス家の」
昨シーズンに王都を揺るがした王家に対する裏切り行為を思い出したのだろう、王女が眉を顰めた。オリヴィアはもう一度、一際深いお辞儀をして謝罪を行なった。
「その節は大変申し訳ございませんでした。フリークスの家の者として深くお詫び致します」
「顔を上げて頂戴。終わったことだわ。それにわたくしは貴女に会いに来たわけではないの」
オリヴィアは失礼いたしました、と小さく口にすると顔を上げた。その顔を王女がじろじろと睨め付けるように見てきて、最初オリヴィアは泣き腫らした顔を見咎められているのではないかと感じた。だがすぐにそうではないと気付いた。
王女の紫の瞳は剣呑な光を放っていて、値踏みされているような、何かを確かめようとしているような、何とも居心地の悪い視線であった。
「貴女……」
その時執務机からつかつかとフレッドが戻ってきて二人の間に立った。
「どうされましたか?殿下。自分に御用がおありになるのでは」
「そう、フレディ兄……フレディに見てもらいたいものがあるのよ。今宝石商が来ているのだけどどれがわたくしに似合うか分からなくて」
オリヴィアは目の前で王女が何度も彼を愛称で呼ぶのに、谷底に突き落とされたような衝撃を受けていた。しかも、オリヴィアを見ていた時と打って変わって、彼を見つめる目は甘く熱い。懇願する内容も公務とは関係のないプライベートなものだ。フレッドの表情は、後ろに立つオリヴィアからは窺うことは出来ないが、二人の仲が親密なのは明らかだった。
「殿下、その呼び方はおやめ下さい。それと申し訳ございませんが後でもよろしいでしょうか?まだ彼女との話が終わってませんので」
「ダメよフレディ、今すぐでないと!宝石商が帰ってしまうわ」
「ですが」
オリヴィアはそれ以上聞いていられなかった。二人の言い合いは慣れたもののようだ。王女が頰を膨らませてフレッドに怒る仕草は可愛らしいとも言えるもので、それだけで二人がただの主従関係でないことは自ずと知れた。
あの噂は本当だったのか。フレッドだけを見ていた間、噂のことは忘れていられた。自分に向けられる彼の態度だけを信じていられるつもりでいたのだ。
だがそれは所詮自分の信じたいように都合良く捉えていただけのことだったとオリヴィアは悟った。
知りたくなかった。
胸が軋み、ギリギリと締め上げられていく。痛みに息が出来ず、蹲りたくなる。
「いえ、私はもう失礼しますので。……宰相補佐官殿、今日はお邪魔してすみませんでした。……さようなら」
どうにか無理矢理笑顔を貼り付けてそれだけを言うと、オリヴィアは王女に軽く頭を下げて二人の脇を早足ですり抜ける。背後でフレッドがオリヴィアを呼ぶ声が聞こえたが、構わずそのまま開いていたドアの隙間から廊下へ滑り出た。
まっしぐらに元来た道を駆け出す。
ただ今は一瞬足りとも、この場に留まってはいられなかった。
辛うじて、ここは王宮だという認識だけがオリヴィアの心が砕けようとするのを繋ぎとめていた。
誰にも行き会うことの無いよう祈りながら必死に走り、待たせていた馬車の中に飛び込むようにして乗る。
オリヴィアは向かい合う馬車の座面の間に崩れるようへたり込み、そうしてやっと堪えていた嗚咽を漏らした。
想いが通じ合ったと思ったのは、間違いだった。
さっきのキスは何だったのだろうか。謝罪のキス?別れのキス?
どういうつもりで自分にキスしたのだろう。
王女が共の者も付けずに彼の執務室に入った。
王女が愛称で彼を呼んだ。
王女が頰を膨らませて彼に我が儘を言った。
自分がいる手前、フレッドは硬い口調をせざるを得なかったのだろう。だがオリヴィアを遠ざけるように二人の間に割って入り、王女の視線を受け止めた姿は思いの外オリヴィアの心を抉った。
きっと二人きりのときはもっと柔らかな笑顔を見せているのだろう、自分に見せてくれたように。ああそうか、やっぱり彼は女性の扱いなんてお手の物で、さっき自分にしたように他の女性にもキスしているに違いない。自分とも初対面でだってキスしてきたくらいだ、きっと自分が思ったほどには彼にとってキスは意味なんてなくて……。
「……っ」
嗚咽は止まるどころか、今やオリヴィアはしゃくりあげて泣いていた。
こんな事なら、好きだなんて言わなければ良かった。自分に向けられた笑みも眼差しも、只の勘違いだったのに。あの人には大したことではなかったのだ。なんて愚かだったのだろう。婚約はとっくに終わっていたのに、再会に一人で舞い上がったりなんかして。
いつから殿下と彼は恋人同士だったのだろう。私との婚約が白紙に戻ってから?それとも、視察の時にはもう?だから視察の最後の夜にごめんって言ったの?
だったらどうしてキスなんて───。
わからない、わからない。そう唱えながら同時に今更わかりたくない、と拒否する。
自分達は終わっていたのだ。もう、とうの昔に。
再会して自分だけがまだ続いているような気になって……思い上がりもいいところだった。
噂だけならまだ耐えられた。
噂が必ずしも真実でないことは往々にしてあることだったし、自分で確かめるまでは信じないと思う事もできた。
アイリーンとの事のように、尋ねればフレッドは答えてくれるだろうと。
意識していなかったが……そこにはきっと否定してくれるんじゃないかという浅ましい期待があったのだ。
だけど。
あれを見てしまっては。
何を聞くよりも雄弁に、その光景は何度でもオリヴィアに噂が真実なのだと突き付けた。
目の前で交わされた恋人同士の会話。
それはオリヴィアの視界を黒く塗り潰していった。
あの様子だと王女がフレッドに好意を持っている事は明らかだから、諸侯の反発はあるかもしれないが結婚にさほど支障はないだろう。伯爵家であれば家柄も王女の相手として問題ないだろう。もしかしたらもう内々には決まっているのかもしれなかった。
相手が王女では、どうあっても一介の貴族令嬢であるオリヴィアが敵うわけがなかった。それがどんなに高位の貴族であっても、王族とは違うのだ。
オリヴィアがどんなに彼を好きでも、諦めるしかない。
それに王女の伴侶ともなれば、フレッドにも爵位が与えられるだろう。想い合う相手と結ばれて、更に地位と権力が手に入るのだ。フレッドにとってもそれは一番良い結末だった。
オリヴィアは元婚約者として、彼の幸せを祝うべき立場だったのだ。
これまで何度も助けてくれた彼に、オリヴィアがしてあげられる唯一のこと。
彼の幸せを───。
…………出来ない、出来そうにない。彼の愛を得られた王女に妬みさえ覚える。彼の笑顔を、眼差しを、独占出来るのは王女なのだ。
自分の中の汚い感情が痛みと共にどす黒く胸を覆っていく。
アイリーンの時は此処までではなかった。心の中にわだかまりはあったものの、こんなに醜い感情に押し潰されることはなかった。それが、今は。
それだけ、強い想いで彼の事を求めてしまった。誰にも渡したくないと思う程に。
だというのに、その想いは自覚したと同時に封印しなければならない。
一度蓋を開けてしまった箱の、蓋を再び閉めなければならない。
そして今は無理でも、いつかは彼におめでとうと言えるようにならなければ。
だけど今だけは。
屋敷に戻るまでには泣き止もう。でないとまたおば達に心配を掛けてしまうから。
だけど、今だけは。今なら、この声は馬車の音にかき消されるだろうから。
そうオリヴィアは心の中で弁解しながら、声を上げて泣き続けた。