4. 再会2
宰相補佐官の執務室に続く廊下を補佐官付きの侍従に案内されて歩くオリヴィアの心の内は、此の期に及んでもまだ躊躇いに揺れていた。
執務室に来てくれと言われたものの、本当にのこのことこのような場所まで来て良かったのだろうかという心配と。
今フレッドと二人で逢ってしまったら、自分がどうなってしまうか……自分でも予想がつかないという不安で。
グレアム夫妻は、オリヴィアが回復するのを根気よく見守ってくれた。社交シーズン真っ只中でも屋敷から出ようとしないオリヴィアにも暖かい目を向けてくれた。
一連の騒動で、オリヴィアは酷く疲れていたのだと思う。
傷付けられたとか裏切られたというような感情は不思議に父親にもフレッドにも抱かなかった。あんなに嫌悪していた父のことでさえも、やはり家族である以上喪失感はあったし、父が何か大切なものを守る為に罪を犯したというのなら、それを声高に責め立てることも出来なかった。それにあの時、大切なもの、と言った父の目は自分に向けられていたのだ。勘違いかもしれないが、オリヴィアには自分が無関係であるとは思えなかった。
フレッドに関しても、連絡がなかったことを恨むとか責めるとかいった感情は沸かなかった。彼と歩むはずだった未来が儚くなったことをただ哀しむだけで、傷付けられたとは思わなかった。
だからなのかもしれない。
誰かを責めることが出来ていれば、詰ることが出来ていれば、あるいはもっと早くに立ち上がれたのかもしれなかった。それぞれの事情や立場を考えれば、誰も責めることが出来ない。必然的に、自分でも説明のつかない感情は行き場を失くして、ただ宙を彷徨った。
感情の抜けた心には虚が開き、日々は静かに過ぎていった。
そんな中時折オリヴィアを訪ねて来てくれたのは、サイラスの婚約者だった。
リリアナはいつも午後のお茶の時間に訪ねて来て、小一時間ほどたわいもない話をしていった。オリヴィアやフレッド自身のことには触れず、社交界での噂についても話さない。ただ自分の失敗談やメイド達の話、あるいは最近王都で流行りの装飾品のデザインについてといった話をする。時にはマルヴェラも交えたお茶会は、彼女達の鈴を鳴らす様なお喋りのお陰で、オリヴィアの心の虚を徐々に塞いでくれたのだった。
そんな風に毎日を過ごして……、漸くマルヴェラの勧めに従い公爵家主催の夜会に参加するまでになったのだった。
周りのざわめきや囁く声が自分を起点に波打つように広間に広がっていく様を目の当たりにしながら、だがその時オリヴィアは何処かそれが人ごとのように思えていた。世間から揶揄され、嘲られても、何でもないように振る舞ってさえいれば本当に何でもないことのように思えた。
だけどフレッドが自分に近づいて来た瞬間、どうしようもなく心が揺さぶられた。今まで厚い膜を隔てて彷徨っていた感情が、突如姿を現し行き場を見つけ涙となって溢れ出ようとする。口を開けば嗚咽が漏れそうになる。
それをなんとか堪えられたのは奇跡に等しかった。
ただ目の前にいる、向き合っている彼だけが、全てだった。
確かに、名前を告げると話が通っていたらしく、心得た様子で宰相補佐官の執務室まで案内された。
緊張する。もしかしたら、久し振りに夜会に出た時よりも緊張しているかもしれない。深呼吸を一つして速くなる鼓動を宥めてから、案内してくれた侍従を見遣り軽く頷いた。コンコンとノック音がやけに大きく響く。ドアの向こうから、どうぞ、と聞き慣れた声がした。
「失礼します。オリヴィア・グレアムと申します。仰せに従いまして登城いたしました」
ドレスの裾を持ち上げ、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げる。そうして挨拶をすると、フレッドが軽く目を眇めた。無言で顎をしゃくると侍従を退出させる。それを見届けてから、フレッドがオリヴィアに向き直った。
「そんな堅苦しい挨拶は要らないよ。来てくれたんだね。正直なところきみは来てくれないかもしれないと思っていた」
「いえ、公務でお呼び出しになられたのでしょう?」
「まあ、そうだね。サイラスには職権乱用だと言われてしまったけど」
サイラスとも結局はコーンウェル公爵家で晩餐を共にしたきりだ。それでもフレッドとサイラスの気のおけない関係は良く覚えている。サイラスの気さくな性格から考えて、きっと笑いながらの指摘だったのだろう。想像してくすりと笑いが漏れた。
フレッドの言い方も変わらないな、と思う。懐かしい、少し低い声と柔らかな物言い。耳に響くその音がオリヴィアを切なく揺らした。
座って、と促されるまま執務机の前にある応接セットの長椅子に腰を掛ける。向かいの一人掛けのソファにフレッドが腰を下ろした。それを待ってからもう一度立ち上がる。やはりまず、これを伝えずには先には進めない。
怪訝な顔で自分を見上げたフレッドに、先ほどよりも深いお辞儀をした。
「この度は誠に申し訳ございませんでした……」
夜会の時と同じ謝罪を繰り返す。お辞儀をしたまま顔を上げずにいるオリヴィアの視界の先で、フレッドも立ち上がった。
「顔を上げて」
柔らかな声が降ってくる。つられるように顔を上げれば、すぐ前にフレッドの顔があった。
オリヴィアはふわりと包み込まれるように、彼の腕に抱き締められた。
自分を包み込む、力強く優しい腕に導かれるようにオリヴィアはフレッドの胸に顔を寄せた。
「僕の方こそごめん。きみの家族を追い詰めた。きみが大変な時に傍にいてあげられなかった」
オリヴィアは彼の胸の中でふるふると首を振った。何かを言わなきゃと思うのに、代わりに堪えることの出来なかった涙が溢れてきて、もう駄目だ、と思った。
手放した筈の思いが涙となって溢れる。ぼろぼろと止めどなく流れ落ちるものは、やがて嗚咽まで呼んだ。
フレッドがオリヴィアを抱き締める腕に力を込める。オリヴィアはしばらくその腕の中で声をあげて泣き続けた。
どれ程泣いただろう。彼に抱き締められたことで想いが堰を切って彼に向かって流れ込んで行く、そんな風に感じさえした。
ひとしきり泣いて……恐らく瞼は腫れ、目は充血していることだろう。また恥ずかしい姿を晒してしまった、とようやく少し落ち着いた頭で意識すると、今度は耳まで真っ赤に染まってしまい顔が上げられなかった。どうしよう、恥ずかしい、と狼狽え俯いたままでいると彼の指先がそっとオリヴィアの髪を撫で、耳朶を掠め、頰から顎のラインを辿った。そのまま顎先を捉えられ、上を向かされる。
フレッドの瞳が迫ってきて、反射的に目を瞑った。ふわりと切ない、求めていた感触が唇を覆った。
柔く唇を塞ぐその感触は、オリヴィアが酸素を求めて口を開けた隙を見て、熱い存在を挿し入れてきた。
頭がじんと熱く痺れていく。舌はオリヴィアの舌を捕らえ、絡みつき、吸い付いてくる。かと思うと口腔内を縦横無尽になぞって蠢いた。より深く、より深く、気が付けば大きく口が開かされ、何度も角度を変えて唇を合わせられた。オリヴィアはされるがままだった。
意識せず口から漏れた吐息のような声の甘さに自分で狼狽えた。こんな声は知らなかった。
必死で拒否する母を力尽くで押さえ付けていた父の姿を知っているオリヴィアにとって、フレッドとの出会いは、最初は嫌悪と恐怖しかなかった。無理矢理キスされて、結婚相手だと言われて、拒否反応しかなかった。だけど、彼は白い結婚を飲んでくれた。条件付きだったにせよ。
オリヴィアにとってフレッドはだからこそ他の男性とは違う、安心できる存在だった。それが失って初めて、自分で思っていたよりも大きな存在だったのだと思い知ったのだった。ただ好きだというよりももっと深いところで、心が彼を求めている。
今、そのことを認めてから初めてのキスは、これまでよりも格段に心地良く感じられた。頭がぼうっと霞みがかったみたいになり、何も考えられない。ただ与えられる感覚に陶然と酔った。身体の力が抜けていく。立っていられなくなりそうなオリヴィアを、彼が腰に手を回し搔き抱くようにして支えた。
彼の舌はなおもオリヴィアの口腔を激しく貪った。小さな水音が響き、オリヴィアの脳内が麻痺していく。飲み込み切れない唾液がつと口の端を辿った。
手はフレッドの胸にしがみつくようにしていたものの、いよいよ身体に力が入らなくなる。フレッドも腕だけで彼女を支えるのは難しいらしく、崩れるように身体を弛緩させたオリヴィアを長椅子に誘導した。
長椅子に腰を下ろした二人の唇が離れて、今度はオリヴィアの口の端から伝った唾液を舐めとるようにフレッドの唇が這う。そのまま彼の唇が頰から耳へ辿って、耳朶に吐息を感じた。
そのまま唇で耳朶を喰まれ、熱くてぬるりとしたものが耳殻に這わされると、反射的に大きく身体が跳ねた。
それが伝わったのだろう、異性に恐怖心を持つオリヴィアが自分の行為を怖がったと思ったのか、フレッドがはっと顔を上げた。
「ごめん、怖かった?」
オリヴィアを覗き込むようにして尋ねる、その瞳が確かな情欲を宿している。でもそれだけではない、切ないような苦しいような感情も映していて、オリヴィアはその真っ直ぐな視線に耐えられず一度合わせた視線を俯けてしまった。
下を向いたまま、ふるふると首を振る。
怖くなかった。彼のキスはこれまでより激しくてオリヴィアはされるがままだったが、恐怖も嫌悪感もなかった。むしろもっと……そんな思いさえ抱いてしまい、オリヴィアははしたなさに身を縮ませた。
「怖くない……です」
思い切って頬を赤らめたまま顔を上げる。目が合って、フレッドが満足そうに頬を緩めた。きゅうと胸が締め付けられる。ああ、今言わなきゃもう押さえられない、とオリヴィアは追い詰められるようにして心の中で弾けそうになっているその想いを伝えた。
「貴方を……お慕いしております」
みるみる内に、フレッドの表情が崩れた。
もしかして泣き出すのではと思うほど、澄んだ青空のような瞳が揺らめき、そしてそれを堪えるように口は引き結ばれた。それからあの柔らかな笑みを顔いっぱいに広げて、彼は笑った。瞳が甘く溶けて、その熱が感染ったみたいにオリヴィアの頬を染め上げた。
「うん、今のキスでわかったよ」
膝の上に乗せていたオリヴィアの手を、フレッドが片手で包み込む。その温もりにオリヴィアも促されるように微笑むと、フレッドの目が眩しいものを見るかのように瞬いた。愛しい人から自分に向けられる、この上なく柔らかな眼差しにオリヴィアも顔をくしゃりと歪めた。もう一度、フレッドの顔が近付いてくる。オリヴィアはそっと瞳を閉じた。
執務室のドアがけたたましく何度もノックされたのは丁度その時だった。