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3. 再会1

 いよいよ社交シーズンも終盤を迎えたある日は、夏ももう終わろうかという時期の筈であるのにもわりと熱気のこもった空気が王都を包んでいた。


 オリヴィアはこの日、マルヴェラの勧めで王都のグレアム公爵家で催される夜会に出席した。五月の終わりに辺境伯領から移ってからの日々を公爵領で過ごして来たオリヴィアにとって、暫く振りの王都であり社交界だった。

 グレアム公の娘となった御披露目がまだ出来ていなかったこともあるし、今シーズン最後の、まして自家で催されるもの位はと思われたのもあるだろう。

 それに彼女自身はまだ自分の今後の事については何一つ思いを巡らせるどころではなかったが、もう十九歳となる彼女の婚期を心配してというのもあったのだと思う。

 色々と自分を気遣ってくれているマルヴェラの提案に、オリヴィアも否とは言えなかった。




 エスコートは、グレアム公が買って出てくれた。

 グレアム公の差し出す腕に一瞬だけ脳裏に別の人が閃いて、オリヴィアはすぐに小さく頭を振りそっと腕を添えた。

 人々の視線がオリヴィアに突き刺さる。グレアム公の手前、声高に言うような者はいないが、それでもひそひそと交わされる意味ありげな言葉と視線に、オリヴィアの身体が無意識の内に強張った。それをおじが励ますように目で微笑んで頷く。

 オリヴィアも一つ頷き返して、ぐっと姿勢を正すと人々のさざめきの中へグレアム公と共に足を踏み入れた。


 「お父上が罪を犯したというのに、堂々と公爵家の養女におなりになって、恥という物を知らないのかしら」

 「案外、してやったりと思ってらっしゃるのかもしれませんわよ。なんせ辺境伯から公爵家へ『格上げ』ですもの」

 「きっともう婚期を逃しそうになったから慌てて出ていらっしゃったのではない?」

 「ああ、そう言えば縁談が白紙に戻りましたものね」


 好奇心と嘲笑が混じった目が幾つも自分の背中を追い掛けてくる。さざめきは明確な意志を持ってオリヴィアに纏わりつく。それらを努めて何でもないもののように振舞いながら、オリヴィアは公爵家の令嬢としてグレアム公と共に客人達の間を挨拶して回った。一通り、招待客へのお披露目を終えて一息ついた頃、それまでと毛色の違う内容の「内緒話」がオリヴィアの耳に飛び込んできた。


 「オリヴィア様の元婚約者のフレッド様は今やヴィオラ殿下の殊の外厚い寵愛を受けておられるとか」

 「そうらしいですわね。先日の夜会では殿下とフレッド様が仲睦まじげに話をしてらっしゃるところを何度もお見掛けしているらしいですわ」

 「フレッド様もお相手が王女殿下なら言うことなしですものね。婚約発表まで秒読みかもしれませんわ」


 ぴく、と思わず全身に緊張が走った。あからさまにこちらを見遣りながら密やかに交わされるその会話は、明らかに面白がっているのが窺えるものだった。

 それと同時にああ、そうかと不思議に諦めにも似た境地でさもありなんと腑に落ちた。それで、彼からは何も連絡がなかったのか。

 てっきり自分が咎人を出した家の娘だから連絡を断たれたのかと思っていたが、そうではなくて。

 もう、彼にはお相手がいるのか、と。

 瞬間、突き上げるように胸に走った強い痛みを、頭を振って追いやる。人々の声が遠のいて、目の前にはグレアム公の心配そうな表情があった。


 「疲れたかな?休憩するかい?」

 「……いえ、大丈夫ですこれくらい。今日はおじ様と踊って頂くために来たんですもの。それを果たして頂かなくてはいけませんわ」


 何でも無い風で笑顔を浮かべる。グレアム夫妻を心配させることだけはしたくなかった。それに、いずれにせよもう終わった相手のことだ。今更その理由がわかったところでどうということもない。何と言っても御令嬢方の噂話ほど無責任なものはないのだし、自分がそれにいちいち動揺していては心臓が持たない。

 噂話のことは、自分のことも、あの人に関することも──、気にすることはない。


 「よし。では早速、一曲踊っていただけるかな?」

 「勿論ですわ、おじ様。おじ様が踊ってくださらないと、私はずっと案山子のように立っていなくちゃならないわ」


 グレアム公が軽くウィンクしてオリヴィアを促す。オリヴィアは泣き笑いのような顔のまま、父親となった人に軽く首肯した。





 ただ、グレアム公の皺の刻まれた柔和な顔に視線を合わせたまま、オリヴィアは踊り続けた。

 誰の声も聞こえないように。誰の表情も見えないように。

 そうすれば、踊っていられた。この場に立っていられた。にこやかな顔をしていられた。


 だが、ダンスの曲も永遠に続く訳ではない。いよいよ曲も終わってしまい、グレアム公と礼をとる。今日はここまでにして失礼しようか、と考えながらもう一度顔を上げた時。




 出会った日と同じ、こちらを射抜く何かを請うような強い視線。

 それを隠しもせず、まして逸らすこともせずに、そのままカツカツと踵を鳴らして真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる人の姿が、視界を揺らした。




 ───それはかつて婚約者であった、そして、初めて心から求めた、その人だった。









 「久しぶりだね、オリヴィア」


 その人の、澄んだ空色の瞳も栗色の髪も、柔らかな声も、何もかもがオリヴィアを逃さないとばかりにその場に縫い止めた。足早に近づいて来た重い靴音さえ、オリヴィアにはそう告げているように聞こえた。


 視察の日以来の再会だった。


 視界がみるみる内に滲んでいく。父が出て行ったあの日に泣いてからは、泣くことはなかったのに。それからはずっと、何もかもが遠い出来事のように、何処か他所の物事のように、鈍く過ぎて行ったのに。

 それなのに今はいとも容易くそれが零れ落ちそうになっている。瞬きをしたかったが、それをすればきっと、今は未だ辛うじて目の縁に留まっているそれが頬を滑り落ちてしまうに違いない。オリヴィアは必死で堪えた。

 此処は人前だ。こんな所でみっともなく泣いたら人に勘繰られる。この人を困らせてしまう。

 オリヴィアは溢れそうになるそれを飲み込むかのように息を呑んでから、漸くのことで口を開いた。努めて穏やかな声を出そうとしたが、成功したかはわからない。そろそろと差し出した手はいつものように優美にとはいかなかった。彼の唇が手袋越しに手の甲に寄せられる。触れてはいない筈なのに、その熱さに一瞬胸が詰まって、まるで時間が止まったかのように感じた。


 「……ご無沙汰しております、フレッド様。お元気でいらっしゃいますか?」

 「……どうかな。大事なものを失くしてしまってね」

 「大事なものですか。それはお気の毒に……。戻って来ると良いですね」


 フレッドは前よりも痩せたのではないだろうか。きっと補佐官の仕事は多忙なのだろう。あの日と同じように、オリヴィアが出来ることは何もなかった。それが歯痒くて、目の前で顔を歪めたフレッドの元にせめて失せ物が戻って来るようにと祈った。


 「……そうだね。ありがとう。僕もそう願っている。……一曲お相手頂けますか?」

 「私で宜しければ……」


 フレッドがオリヴィアの瞳をじっと見つめた。その瞳の中に何かを求めるように、何かを、乞うように。


 招待客達の注目を浴びている今、その誘いを断ることは出来ない。下手に断って、余計な詮索をされたくはなかった。隣で気遣わしげな眼差しを向けてくれていたグレアム公に軽く頷く。

 それに、本当のところはそんな周りの目を気にする余裕も無いくらいに、彼との再会に心が騒めいていた。


 半年以上も会えなかった。目の前のことに忙殺されていた間も、反動で(うろ)が開いたような毎日にも、心の奥には彼が居た。意識の表層に上げれば辛くなると、知らない内にブレーキをいつもかけていただけだったのだ。

 オリヴィアは今、そのことに気付いた。


 その、自分でも長い間触れずにいた心の柔らかな場所にいた人が今、目の前にいて、ダンスの誘いを掛けてくれている。

 彼女自身が、彼と踊りたいと、まだ離れたく無いと、望んでいた。





 皆まで言い終える前に、フレッドがオリヴィアの手を取った。そのままホールドを取られる。

 その手の暖かさも、感触にも、ただ涙がこみ上げてくる。オリヴィアはぐっと奥歯を噛み締めた。


 「……痩せたね」


 踊りながら静かに声を掛けられれば、オリヴィアも周りに聞かれぬよう幾分声のトーンを落として答えた。懐かしい声に自然と目元が緩む。


 「以前のドレスがぶかぶかになってしまいました。おば様もおじ様ももっと食べなさいと仰って沢山お料理を用意してくださるのですけど、その量を見るだけで却ってお腹いっぱいになってしまうの」


 フレッドがふっと笑った。その笑顔にはほんの少しだけ寂しさが含まれているような気がした。


 「うん、きみはもっと食べなくちゃ。夫妻の仰る通りだよ」

 「そうですね……こんなに良くして頂いて私には勿体無い位です」


 ふと、これまでのことを思い出す。父親やフレッドが離れて行ってから、塞ぐオリヴィアのそばにいてくれたのはグレアム夫妻だった。そうだった。何を置いても言うべきことがあった。


 「あの……この度は、父が御迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした」

 「そんなこと言わないで欲しい。僕の方こそきみ達家族を家から追い出してしまった」


 だけど、とフレッドがもう一度笑顔を作った。何処か無理に作ったように見えなくもなかった。それを受けてオリヴィアの胸がつきりと痛みを訴えた。


 「今はダンスを楽しもう。僕達が深刻な顔をしていると、まだこの問題を引きずっていると周りが騒ぎ立てるだろう。こんな話は早く世間から忘れられた方がいいんだ。その話はまたにしないか」

 「ですが……」

 「周りの目が気になると言うなら、王宮に来ればいい。僕の執務室なら心配ない。あそこなら口の軽い令嬢達もいないし、僕付きの使用人達は皆口が堅いからね」

 「……よろしいのですか」

 「勿論だよ。きみのことはいつでも歓迎する。話は通しておくから」

 「……はい」

 「必ず来てくれ。僕もきみに訊きたいことがあるんだ」


 それはきっとこの場では訊けないことなのだろう。フレッドの表情が何処と無く切羽詰まって見えた。オリヴィアはたっぷり逡巡してから……、結局また逢いたいという心の声に抗えず、ぎこちなく頷き返した。それ以外のことは何も考えられなかった。

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