23. その心の向かう先2
「話がある。二人共食事が終わったら書斎に来なさい」
先に朝食を終えていた父親がオリヴィアと弟のアランに声を掛けたのは、オリヴィアがダイニングに下りてすぐのことだった。相変わらず雰囲気は良く研がれたナイフのように鋭い。もう三月も半ばという時期、あちこちで春めいた予感がしているというのに、父親だけはまだ冬の最中にいるようであった。
あれ以来、そう、父親が王宮に呼び出されて以来、父親はいつも険しい顔を崩さない。かと思えば、夜中、まだ光の漏れている書斎を息を詰めるようにして通り過ぎようとして、深い溜息が聞こえたこともある。
何か良くないことが起こっているのだ。
父だけではない。父の私兵達も最近になって再編成されたし、屋敷の使用人達も何か思い詰めた表情をしていることがある。そのくせ、オリヴィアが問い詰めても誰も何も答えようとしない。不穏な雰囲気だけが屋敷を覆うように漂っていて、オリヴィアはざわざわと落ち着かない気持ちを持て余していた。
極め付けは、弟の帰省である。寄宿学校の休暇にはまだ早いのに、例年よりも一足早く屋敷に戻って来たアランは、父に呼び戻されたのだ、と言った。何か話があるらしいよ、と。
だからこの日、アランの帰省の疲れが抜けるのを待っての父の言葉に、オリヴィアはとうとう来た、という思いでいた。
食べた気のしない朝食を終えた後、アランと共に父の書斎に入る。父は相変わらず険しい表情ではあったが、何処か疲れを覗かせる姿で、自分の肘掛け椅子に座っていた。掛けなさい、という父の言葉に、オリヴィアとアランはそれぞれ一人掛けのソファに腰を下ろした。
二人が腰を下ろすのを待って、 父が徐に口を開いた。
「私は、今日限りで辺境伯の爵位を返上することになった」
「……え?」
全く思いもよらなかった発言に、一瞬思考が付いて行かず二人共声が裏返った。
「どういう意味ですか?」
たっぷり一拍おいてからアランが静かに問うた。寄宿学校に入ってすっかり大人びた様子の弟だが、声も少し低くなったように思う。オリヴィアはそんな、話の内容とは何の関係もないことをに思いを巡らせた。
「そのままの意味だ。もうすぐ此処にも王都から官吏が来ると思うが、私は罪を償わなければならない。この領地は暫く王都から派遣されるしかるべき人物の管理下に置かれるだろう。私は爵位を返上するが、家が取り潰されるわけではない。アラン、お前が寄宿学校を卒業し、しかるべき後にお前がこの屋敷を取り戻せ」
あまりにも唐突な話だった。唐突過ぎて話の内容が頭に入っていかない。辛うじて判ったのは、父親が捕まるということだけだ。それがこのところの険しい表情の理由だったのか。
「どんな罪を……」
震える声でオリヴィアが尋ねるも、その後が続かなかった。父はアランの方を見たままで続けた。
「それはもう今更言う事でもない。爵位は一定期間取り上げられるだけだ。お前が社交界に出る頃にはおそらく辺境伯位はお前の元に戻るだろう。それまで学校で良く励みなさい。お前が学校を出るまでは、グレアム公が後見人になってくださる。学費の心配はしなくて良い。
辺境伯領は誰にでも治められるものではない。だからこそ、取り潰しではなく一定期間の爵位返上で済んだのだろう。
お前が此処を継げば、隣国との情勢を見ながら問題事に対処しなければならない。良く力をつけろ。後ろ指を指されるな。お前が此処を守っていけ」
「では姉さんはどうなるのです」
アランが震えのあまりまともな声も発せずにいるオリヴィアの代わりに強い口調で問い質した。父が徐にオリヴィアに視線を向けた。
「オリヴィア、お前はこの家を出るように。グレアム公爵の養女にして頂くことで話がついている。いいな。準備が出来次第ここを出ろ。あそこにはマルヴェラがいるからお前を悪いようにはしないだろう」
「で、では……婚約は」
「婚約は取り消しだ。いいな」
「何てこと……」
「お前にとっても、爵位のない相手など取り消しにして丁度良かったんだ。マルヴェラならお前にとって最善の嫁ぎ先を見つけてくれるだろう。何なら婿を貰っても良い」
「お父様がその相手と婚約をお決めになったんじゃないですか!」
「今となってはメリットが無くなった。いいか、これは決定事項だ。一切の意見は許さない」
父親の意図は察せられた。恐らく、罪人となる父親の娘のままでは今後のオリヴィアの結婚において非常に不利になる。だからこそ公爵家の娘にするという手を取ってくれたのだろう。
アランは当主になる身であるから外に出すことは出来ないが、オリヴィアだけでも、という思いは痛いほど伝わった。オリヴィアは黙るしかなかった。
「父上はどうなるのです」
「さあ、どうなるのだろうな。詳細は知らない。一生監獄の中かもしれないな」
父親の諦めたような物言いに、これが現実なのだと嫌でも突きつけられたような気がした。頭のどこかではこれを受け入れなければならないと悟っているのに、もう一方でこれを受け入れたら終わりだと必死で拒否したがっている自分もいた。
予想だにしなかった家族との別れ。そして突然の婚約解消。目の前に横たわっていた未来にひびが入り、裂けていく。
オリヴィアの視界が真っ黒に塗り潰されていく。
「お前達には迷惑を掛けるが、私は悪くない結果だと思っている。期間限定での爵位返上と、それに伴う特権の一時的な剥奪で済んだのだ。これで大切なものが守れるなら……、私は何度でもこの手を汚すことを厭わない」
「お父様は何を守られたのです」
オリヴィアの声は殆ど悲鳴のようだった。父親はそんなオリヴィアの方を向くと、一瞬眩しそうにすっとその目を細めた。
その眼差しにオリヴィアは訳もなくどきりとした。
だがそれは瞬く間にまた険しい顔に戻って、オリヴィアは今見たその表情の意味がわからず幻ではないかと思うほどだった。
父親はその質問には答えずに続けた。
「この家の使用人の内幾人かは公爵家で引き受けてくださる。お前の身の回りの世話に不自由することはないだろう。アラン、お前がこの屋敷に戻った時に彼らをどうするかは任せる。今後のことは全てお前が判断しろ。こんな形でお前に全てを委ねることを許してくれ」
自身の身の上のこともそうだが、今オリヴィアの頭はは唐突に自分達に降りかかった出来事に翻弄されるしかなかった。
父親がいなくなる。弟も自分も、この家には暫く帰れない。フリークスの娘であることすら許されず、婚約は破談になった。あまりに沢山のことが一度に起こり、オリヴィアは何も考えられなかった。
父は、弟はどうなるのだろう。どうするのだろう。屋敷の使用人たちは。この家は。
皆どうなるのだろう。
そして、自分は。
心が、考える事を拒否していた。
フレッドとこの先を共に歩みたいと思い始めたところだった。親が決めたからではなく、自らの意思で傍にいたいと願い、その願いをフレッドにも告げるつもりだった。
この心を伝える機会は失われてしまった。グレアム公爵家に入るといっても、やはりオリヴィアがフリークス辺境伯だった父親の娘であることには変わりない。宰相補佐官に就任した彼の結婚相手として相応しくないことは敢えて言われずとも理解できた。
あるいは、と思う。
伝えないままで良かったのかもしれない。いつもオリヴィアを助けてくれたあの人に、今更好きだと告げたところで彼を困らせるだけだろう。どうにもならないのならば、伝えないままで良かったのだ。
あの日、父が王都から来た官吏に連れて行かれるのをアランや使用人達と共に呆然と見送った。
父の姿が見えなくなくなるまでその背中を目に焼き付けてから……、歯を食いしばって涙を堪える弟の代わりとでもいうようにそっと嗚咽を漏らした。父に何の罪が着せられたのかは結局のところわからなかった。父は最後まで口を割らなかった。
婚約解消についてフレッドが何を考えているのかもわからなかった。罪人の娘が宰相補佐官に連絡を寄越すなど、人に知れたら彼の足元を掬いそうで到底出来なかった。フレッドからも何も連絡はなかった。
そりゃあそうだろう、と思う。きっともうオリヴィアには関わりたくないに違いない。
父が出て行ったあの日から、いや、弟と二人で父と話をしたあの日から、オリヴィアの時は止まったままだ。涙を流したのも、屋敷に弟と残されたあの日だけ。それ以来、オリヴィアの心はぶよぶよと厚い膜に覆われれ、その外の物事に対しての反応が鈍くなった。
社交シーズンが始まったのかどうかも知らない。今のオリヴィアにはどうでも良いことだったし、それどころではないという事情もあった。
父親がいなくなってから、その後を埋めるように王都から屋敷を預かる役人がやってきた。その役人に、国防に関する資料を引き渡した。中身についてはオリヴィアは説明出来なかったから、父から預かったそれをただ渡すだけだったが、それ以外のことについては全てオリヴィアが役人に引き継ぎを行った。
それとは別に、それまでフリークス家に仕えてくれていた使用人達の今後についても検討する必要があった。共にグレアム公爵家へ来てくれる者は良いとして、それ以外の者たちの再就職先についてはオリヴィア自らがあちこちを当たり引き受けてくれるよう頼み込んだ。そうやって全ての使用人達の行く先を決め、一人一人と屋敷を出ていく彼らを見送った。
アランは寄宿学校に戻らなければならなかったから、それらのことは全てオリヴィアが執り行った。忙しくはあったが、目先のことだけを見、自分の事について何も考えずに済むことはある意味でオリヴィアの心の負担を軽くしていた。
だから新しい社交シーズンが本格的に始まっていたことにも気付かなかった。 いや、気付いていないわけではなかったが、それは遠い物事のようにオリヴィアの心を上滑りしていくだけだった。
出たところでこれ見よがしに罪人の娘だと陰口を叩かれるか、声も掛けられないあの人を遠目に眺めて胸を押さえるかの、どちらかだっただろうが。
そうやって一通り、後のことを全て終えてから漸くオリヴィア自身も公爵家へ移った。
恐らく、公爵家の養女としての挨拶も兼ねて本当なら出ねばならない催しもあるのだろう。だが、マルヴェラは今のところオリヴィアの気持ちを推し量ってそっとしておいてくれている。
これまで、目の前のやるべきことに忙殺されていた反動か、それともいよいよ自分の事に目を向けなければならなくなったことを深層意識が拒んだのか、公爵家に移ってからできた時間はそのまま心にもぽっかりと穴を穿ち、全ての物事が彼女の心から遠ざかりその輪郭を曖昧にしていった。
いつか、時間が解決してくれるのだろうか。
そうであれば、今はただ何も考えずに、その時間の流れに身体を委ねたかった。
*
四月からいよいよ今年の社交シーズンが本格的に始まっていたが、その中にフリークス家の者が顔を見せることはなかった。
フリークス卿が捕らえられ、娘のオリヴィアがグレアム公の養女となったことも、アルバーン伯爵家との縁談が白紙になったことも、様々な尾ひれをつけてあっという間に社交界を席巻した。
人々は憐れみながら、そのくせその裏には蔑みと嘲笑を含んだ声であれこれと噂し合った。
そしてフレッドはこの一件で宰相補佐官としての地位を確立していた。更には元々の端正な顔立ちと整った容姿も手伝って、多くの令嬢の間で有力な花婿候補に浮上したのであった。
いずれもオリヴィアには知る由もないことだった。