22. その心の向かう先1
軍の査察と領内の視察は、怒涛の行程を終えて漸く終了した。
屋敷の前に使用人達と並んで王都に戻る一行の背を見送りながら、オリヴィアはふうと深い安堵の溜息をついた。
漸く静かになれる。準備から始まって連日の客人の対応はずっしりと重い疲れをオリヴィアの肩にのし掛けていた。毎夜の如く催される晩餐会は肩が凝ったし、男性ばかりの一行はそうでなくともオリヴィアにとっては緊張を強いた。
万に一つでも粗相があってはならないし、国王が体調を崩しでもしたら即座にフリークス家がその咎を負う。些細なこと一つ疎かにできず常に気が張っていたように思う。昼間彼等が査察なり視察に出ている間もゆっくり出来るわけではなく、夜の為の準備などでお茶を飲む時間もなかった。
自室のドアを開けると、ベッドにぼすん、と身を投げ出す。まだ見送りの時のドレスのままだったが、少しだけ勘弁して欲しい。
一行が滞在していた間唯一力を抜ける時間は、夜の寝る前にフレッドの部屋で過ごしたひと時だった、と思う。フレッドは執務中で大した会話も出来なかったが、机に向かう彼の横顔を眺めながらお酒やお茶を用意するのは、思いの外穏やかな時間だった。
それに、と思う。
自分を見つめる表情や、掛けられた言葉。触れられた指先や、抱き寄せられた腕、そして押し当てられた唇が、甘やかな感情を呼び起こす。
怖くなかった、嫌ではなかった、むしろ……、心地良いとさえ思った。胸が高鳴った。
ベッドにうつ伏せになった状態でついに自覚する。オリヴィアはいよいよその感情を認めざるを得なかった。
彼が、好きなのだと。
フレッドは帰ったばかりなのに、もう逢いたいと思っている。あの柔らかな笑みを思い出してばかりいる。彼に触れられたいとさえ思ってしまう。
昨日、最後の夜だけはいつもと調子が違った。柔らかな笑みは鳴りを潜め、険しい表情をしていた。瞳が苦しげに揺らめいていた。声が切なく聞こえた。
オリヴィアには何故彼がそんな風だったのかはわからなかったが、あの時自分に出来ることがあるなら何でもしたい、と思った。いつも助けてくれる彼のために、今度は自分が何かしたい、と。
自分からキスするのは大分勇気が要った。これまでは異性に触れられるのさえ怖かったのだ。フレッドに触れられることにはいつの間にか慣れたけれど、それでも前触れなく触れられると緊張する。ただ……、それは怯えによるものだけではなかったけど。
キスして欲しいと言われて、嫌じゃなかった。狼狽えたし恥じらいもあったけど、決して嫌なわけじゃなかった。
彼の険しい視線の先には書類があった。だからきっと仕事で何かあったのだ。彼の仕事の内容は詳しくはわからない。着任以降、毎日遅くまで執務をしていたであろうことは察せられたが、何をしていたかまではオリヴィアも聞かなかったし、フレッドも話したことはなかった。だから仕事のことで何かあったのなら、それはオリヴィアに何か出来るようなことではない。
そうは思うのだが、何も出来ないことがオリヴィアには歯痒かった。いつも自分はしてもらうばかりで、何も彼に返せずにいる。
あんな、掠めるような下手なキスで良いのなら、それで彼の気が少しでも晴れるのなら。オリヴィアに否やは無かった。
*
視察団の一行が帰った三日後、マルヴェラも戻ることになった。オリヴィアはマルヴェラが戻る前の日、彼女を屋敷のコンサバトリーに誘った。おばに聞いてもらいたいこともあった。コンサバトリーはオリヴィアの好きな場所の一つだ。温室の中には所狭しと植物が並んでいて、外ではこの季節には見られない鮮やかな光景が広がっている。
「オリヴィア、お疲れ様だったわね。大きな問題もなくてほっとしたわ」
「全ておば様のお陰よ。本当に助かりました。おば様が連れてきてくださったメイド達も皆優秀で、何度も助けられたわ」
「いいえ、どれも貴女がやったことよ。私は隣に立っていただけ。もう疲れは取れた?」
「ええ、何とか。年末から休み返上で働いてくれた屋敷の者たちにもそろそろ暇をあげようと思うの」
「そうね、彼らも疲れていることでしょう。本当に貴女は良く気がつくわね」
マルヴェラが紅茶に口を付ける。今日はマルヴェラのお気に入りの香りのする紅茶だ。ほう、と彼女が息を吐いた。
「それで、貴女はフレッド様とは話せた?」
「……少しだけ。……あの、ね、おば様」
「なあに?」
「私……」
自分の背中を押してくれたおばに、彼と向き合った事を伝えようとして少しだけ逡巡していると、マルヴェラが先回りして言った。
「好きだって気付いた?」
「えっ」
言い当てられたことに狼狽えるオリヴィアを見て、マルヴェラがころころと笑った。図星ね、としたり顔で頷く。
「どうして……」
「貴女ったら、自分で自分の心に気付くのが遅いのよ。私はとうに気付いていましたよ」
「もしかして視察の間、そんなにわかりやすい態度をしていましたか?」
「いやだ、そんな最近じゃないわよ。貴女が私のお茶会に来てくれた時には気付いていたわ」
「え!?」
お茶会といえば、二月ほど前のことである。あの時から自分はフレッドに想いを寄せていたのだろうか。自分では全く思いもよらなかった。
「本当なら貴女の年頃のご令嬢ならとっくに恋の一つや二つ経験しているはずなのに。全く貴女ときたら、鈍いにも程があるわよ。男性は怖いって言ってたけど、フレッド様は別だった?それとも男性全体への見方が変わったのかしら」
オリヴィアはフレッドやサイラスを頭に浮かべる。フレッドもそうだが、サイラスに対してもオリヴィアは普通に接することができた、と思う。それは単純にフレッドの親友であり婚約者がいる相手だったからかもしれないが、彼自身の気さくな性格にもよるのだろう。それに、つい先日まで屋敷に滞在していた王都からの客人についても、最初こそ性的な関心を窺わせる視線に怯んだものの、いざ視察が始まって見れば皆仕事熱心であり、少なくともオリヴィア自身が性的な関心の対象になることはなかったように思う。
まあ、それも同じ空間にフレッドがいる、という安心感があったからかもしれないが。
結局、最初に怖い思いをしたせいで、相手を全て一括りに同じようなものだと思い込み、その人自身と相対することすら避けていたということなのかもしれない。明らかに身体を求められると感じられない限りは恐怖が沸き上がることもなかった。
「まだ全ての殿方が怖くなくなったわけではないですけど……でも怖い方だけではないということもわかりました」
「それは大きな進歩ね。これも恋をしたからかしらね」
「それは……」
何だか恥じ入って視線を俯ける。マルヴェラがまた笑った。それがオリヴィアのことを気に掛けてくれて見守ってくれているが故の笑いだと思えば、気恥ずかしくはあれど、不快ではなかった。
「それで、その気持ちはフレッド様にはぶつけたの?」
「いえ……でも、いずれ結婚することになるのですし言わなくても」
「やだ、この子ったら。そういうことは関係ないの。想いは伝えなきゃ、伝わらないのよ。きちんと彼に伝えておあげなさい」
「……はい」
マルヴェラがまたふんわりと微笑んだ。まるで母親みたいに、オリヴィアを包み込んでくれる笑みだ。その笑みを浮かべたまま、眩しいものでも見るように目を細めてマルヴェラが言った。
「恋をした人が結婚相手で、良かったわね。幸せにお成りなさい」
マルヴェラが心底喜ぶようにふふと笑った。
*
年明けに大きな仕事をこなしたフリークス家ではあったが、二月ともなれば特段これといった用事もなく、春を待ちながら日々を過ごすのみである。オリヴィアはこの時期のしん、とした寒さが嫌いではなかった。勿論、春に草木が一斉に芽吹くのも、温んだ風が吹くのも恋しく思うが、肌を刺すような風の鋭さも、キンと手に走る痛みのような水の冷たさも、心がしゃんとするようで好きだった。
この季節は特に来客もないし、社交シーズンでもないため比較的オリヴィアは時間に余裕ができる。だから朝食後に庭を散歩するのがこの時期のオリヴィアの日課だった。それは今朝も同じである。冬も盛りであるので、庭園を彩る花々も今はなく寂しい印象すら与えるのだが、それも含めてオリヴィアはこの庭を気に入っていた。
視察が終わった後しばらくして、父は王都に呼ばれて領地を出て行った。この時期に父が領地を離れるなど珍しく、何か視察の時の対応に問題があったのでは、とオリヴィアも同行を願ったのだが、それはあえなく却下された。正直に言えば、フレッドに逢えれば良いという思いもあってのことだったが、この時期の王都までの道は決して楽なものではない。馬で行くからと暗に足手纏いを仄めかされ引き下がるしかなかった。
存外に長かった王都滞在から父が戻ったのはつい昨日のことだ。それ以来、威厳のある雰囲気で人を圧する父が、ますます険しい顔を崩さずにいて、王都で何があったのかとオリヴィアはいぶかしんだ。
庭をただぼんやりと眺めて歩きながら考えるのはフレッドのことだ。最後に直接言葉を交わした時、フレッドも険しい顔をしていた。と思ったら次は父もである。
何があったのだろう。父に問い質したい気持ちはあるが、普段二人で話すことをなるべく避けているオリヴィアとしては、ただそのために父に話を向けるのも嫌で、何も聞けずにいた。
そしてあれ以来、フレッドからも連絡はない。以前は折々に花が届けられたものだが、そういったものが送られてくることもなかった。まあ、あの時はその花に心が込められていない、と思ったものだったが。
視察の間も連日遅くまで机に向かっていた姿を知っているオリヴィアとしては、きっと今も毎日激務なんだろうと思う他ない。邪魔なるかもしれないとこちらから連絡することも憚られた。何も出来ないことがもどかしいし、淋しい、と思う。フレッドの顔を思い出す度にいっそサイラスの婚約者であるリリアナが言ってくれたように、彼女に訴えてみようか、などと考えて小さく苦笑した。
あの時は、本当にそう思う日が来るとは思っていなかったのに。
だけどこうして彼のことを想うだけの日々もあともう少しで終わる。
あと一月もすれば、二人の賭けの期限が来る。今のところオリヴィアが自ら彼に触れたことはないから、このままいけば賭けはオリヴィアの勝ちだ。この前のことはオリヴィアから触れたことになるのだろうが……あの時はフレッドから懇願されたのだし、「いいよ」と言われた上のことだったから数には入らないだろう。あの「もういいよ」の意味だけは、今も良く判らないままオリヴィアの中で燻っているけれど。
婚約は続行され、当初のオリヴィアの望み通り、身体を求められることのないままでオリヴィアはフレッドの隣にいられるのだ。
きっとその期限が来るときにはフレッドからも連絡があるだろう。
そして、その時には思い切ってフレッドに気持ちを伝えよう。彼のことを好きだと。そしてずっと彼の隣で、彼を支えたいと思っていることを。
それにしても、と思う。
自分が、こんなに誰か一人のことを想うようになるなんて、思ってもみなかった。
貴族令嬢の務めである結婚すら、自分には酷く難しいことだと思っていた。まして、その相手を好きになるなど。
親愛の情としての「好き」さえ、難しいことだと。
なのに、今、自分は親愛の域を超えて、ただ一人を恋うている。
出逢ったのが、あの人だったから。
彼の顔を思い浮かべる度、胸がきゅうと締め付けられて何とも言えない状態になる。オリヴィアは目の前に広がる少し色彩に乏しい冬の庭を眺めた。
この庭にも、真っ白のトルコキキョウを植えてみようか。ここの気候では難しいだろうか、もっと暖かな場所でないと駄目だろうか。今度庭師に相談してみよう。きっと見晴るかすトルコキキョウの白さは眩しくて清冽な光景だろう。
オリヴィアは最後に見たフレッドと父の険しい顔を頭から振り切り、彼に再会した時のことに思いを馳せながら春先の庭の設えについて考えを巡らせ始めた。