21. 視察3
話の都合上、短いです。すみません。
翌日から本格的に査察が始まった。短い行程の中にスケジュールを詰め込んでいるからだろう、一行は分刻みともいえる予定をこなし、連日夜遅くに帰ってくる。
オリヴィアは疲れ切った彼らが帰ってくると、毎日その労をねぎらい、彼らが充分に屋敷で休めるよう気を配った。
特に実務を担当する者たちは過酷である。査察や打ち合わせ、聞き取りで得られた問題点や改善点について王や国防長官、宰相といったトップが部下に指示を下すと、実務担当者は即座に解決策を練り上げ各所への手配を行わなければならない。解決策は翌日にはまた上へ報告され、中身について吟味される。そうして議論を重ね、この短期間の査察と視察の間に成果を挙げようとする姿勢は、この国に住む民の一人として充分に頼もしいものに映っていた。屋敷に帰ってきてからも寝る間も惜しんで客間で報告書を作成している彼らに夜食を差し入れるのもオリヴィアの日課になっていた。
本来なら下僕やメイドに任せても良い仕事ではあったが、少しでも彼らの労に報いたくて、オリヴィアはワゴンを押すメイドと共に各部屋を回り、自らの手で夜食を差し入れていた。
そうやって夜遅くまで灯りを灯している各部屋を回って、最後に訪ねるのがフレッドが滞在している部屋である。この部屋の前まで来るとオリヴィアはいつもほっと息を吐く。フレッドがいつもこの一行の中の誰よりも遅くまで起きて執務を行っていることをオリヴィアは知っている。宰相補佐という地位に見合うだけの責務を果たすために、彼が誰よりも努力していることをこの視察を通してオリヴィアは初めて知ったのだった。
室内の灯りが廊下にすっと一筋の光を漏らしていて、それで今日もフレッドが起きていることを確認する。この部屋だけは、メイドを伴わずに一人で中に入る。それは、フレッドなら本当にオリヴィアの嫌がることはしないだろうという安心感が無意識の内に植え付けられているからであると同時に、メイドがいてもおかまいなしに頰やこめかみに唇を寄せてくるフレッドにされるがままの自分を見られたくないという羞恥によるものでもあった。
これはもはや約束違反ではないだろうか、とオリヴィアは最初に伝えた「むやみに触れないで」という希望のことを思い返すのだが、そう思う自分自身がそのフレッドの行為を躊躇いながらも結局受け入れているのも何とも複雑な気分だった。そういえば、視察の初日の夜もフレッドと過ごしたような記憶があるのだが、あいにく水を貰った以外は何をしていたのか記憶は曖昧である。
勿論、執務中の彼の邪魔をするつもりは毛頭ない。なのでいつも軽く一言二言交わすだけで部屋を出るのだが、今日はあいにくそれだけでは済まなかった。
ワゴンを押してそっと部屋に入ると、フレッドがいつもより険しい表情で書類を読んでいた。オリヴィアが声を掛けても、返事がどこか上の空である。
今日はお酒よりも、ハーブティーの方が良さそうだ、とそっと彼の邪魔にならないよう静かにお茶を淹れてオリヴィアは退出しようとした。だが背を向けたオリヴィアを引き留めるように、書物机から立ち上がったフレッドが彼女の腕をぐいと掴んだ。
驚いて反射的に振り返る。空色の瞳を見上げれば、どこかしんとした、でも苦しそうな眼差しでフレッドがオリヴィアを見詰めた。最近見せてくれるようになった、あの柔らかい笑みは欠片も見付けられなかった。
「どうかされたのですか……?」
この視察の間で初めて見せる表情だった。フレッドは短くいや、と答えるとその手を引いてオリヴィアを自身の腕の中に抱き寄せた。そのまま何も言わずにオリヴィアの肩口に頭を埋められ、オリヴィアの心臓がどくんと跳ねた。
フレッドは何も言わない。これまでのような事前の確認のない唐突な接触に、オリヴィアは訳も分からず不安になった。
「フレッド様……?」
「少しだけ、こうしていて」
「は、い……」
そのまま口を開こうとしない彼の、その腕に抱き締められてどれ位経っただろうか。ようやく自身の腕を離したフレッドの表情が辛そうで、オリヴィアまでなんだか泣きそうになった。
「……ごめん」
「いえ……あの、もし私に出来ることがあればおっしゃってください。何も力になれないかもしれないですけど、あの」
「じゃあ、キスして」
え、とフレッドを凝視する。瞬く間に頰が熱くなっていく。狼狽えるあまり視線がフレッドから逸れて彷徨った。
「な、何、を……」
「キスして」
「あの、でも私から触れると婚約が」
「もう、いいよ……」
「でも、あの、それで貴方の力になれるとは」
「キスが欲しい」
「……」
そう言われても自分から唇を寄せるなど、オリヴィアには経験がないことで恥ずかしくて仕方がない。それに「もういい」とはどういう意味だろう。尚も躊躇っていると、何かを堪えるようなフレッドの掠れた声が、オリヴィア、と囁いた。
オリヴィアは覚悟を決めて微かに潤み始めた瞳の焦点をフレッドの唇に合わせると、フレッドの胸に手をつき……ゆっくりと瞼を閉じながら、つま先立った。
──この時はまだ、これを最後にフレッドとの婚約が解消されるとは、オリヴィアは想像すらしていなかった。