2. 出会い1
オリヴィアは身を強張らせながら、自分に向けられた刺すような視線の元を辿った。ダンスに興じる紳士淑女たちの向こう、反対側の壁際からその視線は放たれていた。あまりに強い視線だったので、捉えるのは簡単だった。オリヴィアはその青年の瞳を拒絶の意を込めて見詰め返した。
劣情を含んだものとは違う。値踏みされているわけでもない。かといって敵愾心を向けられているわけでもないように思う。この距離ではその思惑までは読み取れない。
ただ、冴え冴えとした眼差しに全身を貫かれている感覚がした。
青年は、オリヴィアが自分を見詰め返したのに気づくと、視線を合わせたまま広間を突っ切ってこちらへやってくる。いつもなら異性と視線が交わった後に起こるであろう相手の行動には嫌悪を催すのに、この時は相手の瞳に自分への興味関心が見つけられなかったからだろう、では何故自分を射るように見つめるのかがわからなくて、嫌悪よりも微かな疑念と恐怖心が束の間閃いた。
オリヴィアはそれをどうにか奥底に押し留めると、視線を外さずに青年を待ち受けた。
「初めまして、フリークス辺境伯のお嬢様」
青年は真っ直ぐにオリヴィアの前までやってくると、相変わらずオリヴィアの視線を捉えたまま挨拶をした。オリヴィアはそれを受けて反射的にマナーとして右手を差し出す。青年は流れるような仕草でその手を取り、軽く唇を寄せた。オリヴィアはその様子をじっと眺めながら心の中で自問していた。見たことのない青年だが、どこかで会ったことがあっただろうか。
社交界は好きでなくとも、貴族の務めとして必要な場には出席するようにしている。だが、この青年は間近で見ても見覚えがなかった。
柔らかそうな栗色の髪。オリヴィアよりも頭半分ほど背が高い。すっと鼻筋の通った顔立ち。顎のラインはシャープで、綺麗だと表現しても良い部類だと思う。歳はオリヴィアと同じか、一,二歳上というところに見える。
立ち姿はすっとしており、その所作も美しい。上級貴族だろうか。体躯はいささか線が細く見えるが弱々しいというわけではない。
自分を真っ直ぐ見つめた瞳の色は雲ひとつない良く晴れた日の空の色をしていた。自分もどちらかというと切れ長の瞳だが、青年はより一層切れ長に見える。先ほどの視線が冴え冴えとして見えたのは、その形のせいかもしれない。
頭を上げた青年をもう一度見つめてオリヴィアは尋ねた。
「……初めまして。失礼ですが、お名前を教えて頂けますか」
「それは今は不要でしょう。いずれわかることですから」
相手の姿に見覚えのない自分も充分失礼だという自覚はあったが、相手の答えも随分と失礼な物言いだった。どういうことだろう、そう疑問がもたげたが、それを口にしても青年に答える気がないだろうことはその顔に貼り付けられた微笑を見れば自ずと察せられた。仕方なくいずれわかるのだろうとその言葉通りに受け止め、オリヴィアは疑問を脇に置いて続けた。
「……そうですか。ではどうして私のことをご存知なのですか」
「貴方のことを知らない人など殆どいませんよ」
取り付く島もない返答だった。彼には会話を続けようという気はないのだろうか、そうオリヴィアが内心で呆れていると青年が再びオリヴィアの目を見て言った。
「噂通りの瞳をしていらっしゃる」
「どんな噂でしょう。良い噂であることを願いますわ」
こちらの反応などどうでも良いと思っていそうな、どこか褪めた視線。ならば、とオリヴィアもいつもの通り余所行きの顔で微笑んだ。青年はどちらであるとも言わず、ただ軽く口の端を上げて寄越した。まただ。彼はその先を続ける気がないらしい。どういった噂なのか。瞳の色そのものについてか、それともその中に映っている感情についてだろうか。オリヴィアは想像を巡らせてみたが、答えが出ない内に青年が話題を切り替えた。
「一曲お相手願えますか?それとも場所を移しましょうか?」
「……もう少しお話しさせて頂きたいわ」
正直なところ、迷いはあった。これ以上得体の知れない相手と関わりたくないという思いと、自分のことを視線で射抜いてきた意図が知りたいという思いがせめぎ合う。だが、ダンスをする男女の中に交われば、普段あまり踊ることのないオリヴィアとその相手が目立つだろうことは想像に難くない。それは避けたかった。
それに、これまで多くの異性に向けられた性的な関心を、この青年からこの時感じることはなかった。どころか、自分に全く興味がないようでさえある。それなら何故わざわざ声を掛けてきたのか。それが気になった。
「では、テラスへ行きましょうか」
青年は相変わらず貼り付けた笑みでオリヴィアを促した。
今夜の夜会では、広間の他に種々の花が咲き乱れる広い庭に面したテラスも開放されている。陽は沈んでおり、広間から漏れる明かりにぼんやりと花の姿が浮かび上がるが、それらの色まではわからない。ただ、その甘やかな芳香がふわりとテラスにまで漂ってきていた。
*
テラスには幸い先客はいなかった。庭をゆっくり眺められるようにということか、テーブルと椅子がまばらに置かれているが、オリヴィアは勿論、青年にもそこに腰掛ける気はないようだった。先ほどの会話も要領を得ないばかりか、会話そのものが続かなかった。話をしたいと言っても、得られるものは少なそうだ、と少し前を歩いていた青年の、栗色の髪にぼんやりと目を遣る。
広間にいる人々の声は届かない、だが、かろうじてこちらから広間の様子は伺える程度には端の方まで来ると、青年は足を止めてオリヴィアの方へ向き直った。なるほど、ここならば広間からも見える分、二人きりではないと言える。広間から漏れる光は煌々ととは言えないまでも穏やかに二人を照らすほどには明るく、ぎりぎり警戒心を持たないで済む絶妙な位置だ。
「ここなら大丈夫でしょう。本当は昼間にこのテラスに立ちたいところですが」
「お庭に興味がおありになるのですか」
青年が軽く庭を見遣りながらそう言ったので、オリヴィアは少し意外に思った。
「いえいえ、僕ではなくて貴女が好きなのではないかと思いまして」
オリヴィアは心の中で首を傾げた。それが表情にも表れていたのだろうか。青年は僅かに苦笑すると言った。
「令嬢はこのような場所がお好きなものでしょう?」
「……そうですね、私もお庭は好きですわ。このお庭はきっと立派なのでしょうね……残念ながら今はどれ程の広さなのかわからないですけど。いつか明るい時に散策してみたいものです」
答えながら、オリヴィアは青年の言い振りになるほどと思った。この人は女性とこのような場所に来ることが多いのだ。女性の扱いに慣れてらっしゃる。
だから、社交界で醜聞が立たない程度に二人になれる場所を知っているし、女性が好むものを知っている。
それは別にオリヴィアにとってこの青年に対する評価をプラスにするものではない。
父親も、対外的には女性の扱いをわかっているれっきとした紳士なのだ。その裏で、家では母を淑女とは程遠い扱いをしていたことをオリヴィアは知っている。
「そうですか。ではその機会を得られたら僕が案内いたしましょう」
「王宮の庭など、そうそう私のような者が入れるような所ではありませんわ」
オリヴィアはやんわりとその申し出を退けた。大体、目の前の青年は王族ではないだろう。王族は大体把握している。辺境伯の娘ともなれば王族との接点もない訳ではないし、王宮の中を案内するなど軽く言えることではないことも分かっている。
先ほどの口振りといい、女性に対してその場限りの甘い言葉を平気で紡げる男性のように見える。あまり信用のおける人ではなさそうだ、とオリヴィアは少し身構えた。
「……まあいずれということですから。その時にはきっと貴女は僕とこの庭を歩いているはずですよ」
青年は相変わらず真意の見えない微笑みを見せると、一歩オリヴィアの方へ踏み出した。
断言するような言い方と、近くなった二人の距離にオリヴィアは俄に緊張した。すぐ目の前に青年の顔がある。鼻先が触れそうなほどだ。青年の高く澄んだ空のような瞳が真っ直ぐにオリヴィアを刺し貫く。彼がオリヴィアを見下ろす形になっているので、薄い栗色の髪が僅かにその目にかかった。
その合間から垣間見えた瞳の鋭さにオリヴィアはたじろいで瞳を揺らめかせた。
思わず後ずさろうと右足を動かしたオリヴィアの、その動きはだがすぐに遮られた。
「……!」
何が起こったのか咄嗟に理解できない。いや、その感覚としては確かにあるのだが、頭がその状況を処理できない。オリヴィアは普段の彼女からは考えられない程混乱していた。驚きのあまり目を見開いてしまう。
唇に何か熱いものが押し当てられていた。
一瞬が、とてつもなく長い時間のように感じられた。意識が唇に集中する。後ずさろうとしていた右足が、突然のことに地面を踏みしめる力を失ってよろめく。
あっと思った時には青年の手がオリヴィアの腰にまわり、身体を支えられた。と同時に咄嗟のことに僅かに開いた唇の隙間から強引に捻じ込まれた存在に、オリヴィアの頭は真っ白になった。
その存在は唇の隙間を広げるように奥まで入り込み口内を蹂躙し始める。歯列をなぞり、上顎をつつき、奥へ奥へ、オリヴィアの舌を探り、捕らえ、絡め、吸い付いてくる。彼の舌が自分の口内を縦横無尽に蠢く熱さとその圧倒的な存在感に、オリヴィアは思考が追いつかない。
いつの間にか自身の口が大きく開かされ身体全体が熱を持つのに任せる他なかった。
どれほど時間が経ったのかもわからない。ただひたすら呆然としていたオリヴィアは、卑猥な水音が自らの口内から発せられたことに気付き、漸く羞恥で我に返った。
オリヴィアは必死で目の前の青年の胸を押し戻そうと両手で突っ張ろうとした。しかし力では当然男性には敵わない。どころかいつの間にかオリヴィアを逃すまいと、彼のもう一方の手がしっかりとオリヴィアの後頭部を押さえている。
そうしている内にも舌はオリヴィアを嘲笑うかのように口内を余すところなくなぶり、これ見よがしに音を立てていく。酸素が薄い。呼吸が苦しくなっていった。
長かったのか、短かったのか。
それすら判らない時間が経った後、漸く解放されたオリヴィアは瞳を潤ませたまま荒い呼吸を何度も繰り返した。
どうにか呼吸を整えて、それから閃光のように怒りが、恐怖が駆け上っていく。反射的に相手の頬を打とうと右手を振り上げていた。だがその手は呆気なく彼に取られてしまい、オリヴィアの頬がカッと熱くなった。と同時に涙が目の縁から零れそうになる。こんな男相手に涙など見せたくない、と懸命に堪えながらオリヴィアは青年を睨みつけた。
「貴女が淑女ならここで僕を打つのはやめておいた方がいい」
「何てことをなさるのです。貴方が紳士なら、このようなことをしてはならないとおわかりのはずです。私は貴方にこのようなことを許した覚えはありません」
「男が女に口付けをするのに、いちいち許しが必要でしょうか?とはいえ、貴女にしてみればまだ僕が何者かわからない訳ですから仕方ないですが」
「貴方がどなたかなど、私にはどうでも良いことです。もう2度と貴方と話すことなどないでしょうから」
「それはどうかな」
確かに、青年の言う通りここで万が一平手打ちをする音が誰かに聞かれでもしたら、そして二人に気付かれでもしたら、それこそ即座に醜聞となるところだろう。人々はそれぞれ好き勝手に二人の仲を詮索し、面白おかしく言い合うだろう。相手の素性を知らないオリヴィアとしては尚更、どこの誰とも知らない男と二人でいたことを見られるのは怖かった。しかもその男に口付けを許してしまったのだ。もしその場面を誰かが見ていたらと想像してぞっとした。
それを思えば怒りに我を忘れたオリヴィアを止めてくれたことは正しい判断だとは思う。でもせいで怒りの持って行き場が無くなって、代わりに嫌悪感が膨れあがるのを止められなかった。そしてこちらの抵抗をものともしなかった相手との力の差。いつか見てしまった、父に押し倒され必死に抵抗しながら悲痛な声を上げていた母の姿が脳裏に蘇る。恐怖にガタガタと身体が震え始めた。
駄目だ、今こんな姿を晒す訳にはいかない。大丈夫、何でもない、これくらい対処できるはず──。
「……失礼しますわ。さようなら」
これ以上ここに二人で居たくもなかったし、怒りをぶつけてもかわされることは目に見えていた。オリヴィアは不遜な笑みを浮かべたままの青年を冷たく一瞥して、身を翻した。本当は走って逃げたい位だが、それをすれば周りから余計な詮索をされかねない。心臓がばくばくと大きな音を立てる。足には力が入らずがくがくと震えていた。
オリヴィアは殊更落ち着いて歩くことだけに意識を集中させ、急いで広間に戻った。踵の高い、華奢な靴が広間の床をカツカツと叩く音がやけに大きく鼓膜を打っていた。