18. 内に募るもの3
思い返すたびに、かあっと身体中が熱くなる。
初めて出会った日の荒々しさとは違う、柔らかく想いを伝えるような感触も。切情を訴える眼差しも。顎に触れた指先の熱さも。
その何もかもは鮮明に覚えているのに、その後自分がどうしたか記憶が曖昧だ。いつかのように、その胸を押した訳でもない、手を振り上げた訳でもないと思う。あの瞬間、自分には拒否するという選択肢が全く頭に浮かばなかった。
混乱したし、頭はフワフワとあらぬところを漂うようで思考がまとまらなかった。それでも嫌ではなかった。
そのことにオリヴィア自身が一番驚いていた。
「……さま、……お嬢様、オリヴィア様」
呼ぶ声にはっと顔を上げれば、呆れ顔のエマがいつの間にかお茶の用意を終えてオリヴィアの間近まで寄って来ていた。
「あれ、エマ?いつの間に入って来たの」
エマがそこで心底呆れたという風に腰に手を当てた。
「先ほどノックしましたよ。お嬢様のお返事を待って入らせて頂いたのですが」
「あら、そうだった?ごめんなさい」
「お茶が入りましたよ。少し休憩されては如何ですか。手も止まっていらっしゃったようですし」
「……そうね」
勧められるままに書き物机からソファへと身体を移す。書き物机の上には大量の便箋が置かれたままだ。各所への手配の指示や、招待状。それらを書いては送り、返事を確認してはまた別の指示や依頼を出す。やる事には際限がない。
何だか無性に甘い物が食べたい、そう思ってテーブルを見れば、エマもここのところ忙しいオリヴィアを気遣ってくれたのか、何種類かのクッキーが用意されていて、顔が綻んだ。エマに礼を言ってその中の一つをつまむ。
「ご準備の方は如何ですか?」
「……なかなか終わりが見えないわ。今回は視察と新年の準備が重なっているから余計ね」
駐屯地の査察はこれまでにも定期的に行われている。アルディスにはこのフリークスの駐屯地の他に三箇所、国境付近に国王軍の駐屯地がある。それを国王自らが定期的に輪番で査察を行うのだが、およそ半年に一度行われるその査察の今回の対象がフリークスであった。二年に一度の査察の度、王都から受け入れる客人達の対応をしてきたのは、物心ついた時からオリヴィアの役目であり、最早慣れたものだと言っても良い。ただ、これまでは駐屯地の査察のみだった行程に今回は領地の視察まで加わった為に、準備すべき物事が桁違いに増えた。
これまでの査察では、国王およびその側近、護衛、一部の従者を除いた関係者は軍の駐屯地に滞在したため、オリヴィアは十名程度を屋敷でもてなすだけで良かった。それとて、相手が国王とあっては万全を期したものであって、晩餐会の食材から屋敷内に飾る花の一本にまで神経を張り巡らせる必要があったが、今回はいつもの倍以上の人数が視察の間屋敷に滞在する予定になっている。
オリヴィアが事前に聞いているスケジュールでは、初日は一行を出迎えた後、晩餐会の開催、翌日から本格的に査察が始まり、丸一日駐屯地の査察と隣国との国境付近での情勢の聞き取り調査、およびそちらでの歓迎の催しが開催される。この日は基本的に、日中は屋敷の者が対応をする必要はない。そして三日目からは領地の視察。視察の際に一行を案内するのは辺境伯である父の仕事である。その日は主に国境付近の視察と、現状の把握。夜にはまた晩餐会を挟んで四日目は穀倉地帯の視察および領民からの今年の収穫に関する聞き取り調査、最終日の五日目は屋敷にて駐屯地の査察と領地の視察結果を鑑みた今後の国境付近の国防に関する打ち合わせと、最後に領地内の有力者も招いた晩餐会を開催する。そしてようやく、六日目に一行は帰途につくこととなっている。
一週間にも満たない行程だが、総勢三十名を超す大規模な視察は、当然ながら屋敷の人間だけでは応対しきれない。グレアム公爵家からもマルヴェラと信用出来る使用人が何人か手伝いに来てくれることになっている。
当日はそれで良いとしても、屋敷内の事に関する事前の手配は全て女主人であるオリヴィアが指示を出さなければならない。そんなわけで通常の年越しの準備に加えて、今年の年末は大わらわだった。
だというのに。
気が付けば思考はいつの間にか同じ所をぐるぐると回っている。
それは例えば晩餐に出す食材を執事やメイド長と吟味している時に、そういえばコーンウェル家に招待された時はあんな食事が出たと思えば、そこから芋づる式にその後の馬車でのキスが蘇って身体が火照ったり、屋敷に飾る花を庭師と相談している最中に白い花を見ると、いつかのトルコキキョウの花束が思い出されて、胸が締め付けられたり、といった風に。
そして、一つ思い出せば他も次々に思い出されて、結局は顔は赤くなるし胸は苦しいし……とどうしようも無くなるのだった。
その度に屋敷の人間に、大丈夫ですか?と気遣われるのも羞恥で消え入りたくなる。
あるいは何故か生温かい笑みを浮かべられると、もう居た堪れなくなる。
自分は一体どうしてしまったのだろう。領地に戻ってから三週間、もう今年もあと僅か……だというのに、ずっとこんな調子なのである。流石に諸々の準備で疲れが溜まっているのかもしれない。そう言えば夜もあまり眠れずにいたし、食欲も沸かない。
同じ事ばかり考えるなんて。とそこでその最たるものであるこの前のキスをまた思い出してしまい、瞬時に頰に朱が射した。
その原因を作った当人にはあの日以来会っていない。オリヴィア自身、年明けの視察に向けて目の回るような忙しさであったし、恐らく宰相補佐官に就任したばかりのフレッドも同様だろう。手紙を出す暇さえなかった。例え手紙を出せたとしても、何と書いて良いかはわからなかったが。
気が付けばまたあの日のキスに思考が戻っていく。
いつの間にか随分物思いに耽っていたらしい。エマが生温かい目で自分を見ているのに気が付いて、オリヴィアはまた恥ずかしさに身を縮めた。エマが宥めるようにオリヴィアに声を掛けた。
「恋煩い、ですね」
エマが微笑んで言う言葉の意味が理解出来ず、オリヴィアはぽかんとしてしまった。
「え?」
「お嬢様の今の症状ですわ。正に恋煩いですね」
「……こい、わずらい?」
「フレッド様と公爵家に行かれてからずっとそのお調子ですもの。フレッド様と何かあったのですか?」
何かあった、と問われて反射的にまた同じシーンが脳裏に浮かんで、じんわりと頰が熱くなる。いい加減この反応を止めたいのに、全然制御が効かないのだ。
俯いてしまったオリヴィアにエマが畳み掛けた。
「ふふ、お嬢様が恋をなさるなんて嬉しいことですわ。これまで男性と見れば逃げるように全力で拒否しておられたのに。フレッド様は違うんですね」
「こ、こい?」
「そうですよ、え、もしかしてお気付きでなかったんですか?」
そこでエマの声のトーンが上がった。つられてオリヴィアも声が高くなってしまう。
「恋?そんなんじゃないわ」
「そうなのですか?でもずっとフレッド様の事を考えてらっしゃるのでしょう?」
「それは……、だけど……恋とかそんなんじゃなくて、ただ何故か頭の中にあの人が出てくるだけで」
「それで顔が赤くなったりドキドキされるんでしょう?」
「でも、これは勝手に……」
「お嬢様」
尚も言い募ろうとしたオリヴィアを、エマが静かに遮った。オリヴィアを諭すように。
「それが恋というものなんですよ」
咄嗟に何も言い返せずに口を噤んでしまったオリヴィアを、恥じらいのためととらえたのか、エマがその笑みを深くした。
その笑みのまま、早くフレッド様にお会いになれると良いですね、 とエマがどこか浮き立った様子で静かに部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りながら、オリヴィアはたった今侍女の口から発せられた言葉に頭を殴られた思いで、その場から動くことが出来なかった。
恋。
それはオリヴィアにとって最も遠い言葉だった。同じ年頃の令嬢達が社交界で出会う殿方の、誰が素敵か、誰をお誘いするか、そういったことをいつも頬を染めて話題にしていることは知っていたし、屋敷でもうら若いメイド達が屋敷に出入りする職人達と意味ありげな視線を交わしたり逢瀬の約束を取り付けたりしているのを見たこともある。それでも、それらは自分とは別世界の物事だと思っていた。
辺境伯の娘ともなれば政略結婚は免れないし、それが普通だと思っていたのもある。母を亡くしたその日から、最も身近な異性でさえ嫌悪の対象になったのもある。それに加えて、十四歳のあの日から異性は恐怖の対象にさえなった。
だからだろう、恋心などというものは自分には全く縁のない感情であったし、これからもそのままだと思っていた。
なのに、侍女はそれを恋だと言う。
何かの間違いではないかと思う。自分に縁のない言葉であっても、それがどのようなものかは察せられる。それは相手を恋しく思うことだろう。相手の全てを手に入れたくて、自分の全てを相手に捧げたくなるものだろう。
オリヴィアは、自分が今そのような状態にあるとは信じられなかった。
会いたいと思わないわけではない。だが、会ってどうしたら良いのだろう。まして相手の全てを焦がれるなど。……とそこでまた彼の指先や唇の感触がふっと蘇ってしまい、オリヴィアは大いに狼狽えた。
でも……自分の全てを捧げることは出来ないくせに、これを恋と呼ぶのだろうか?本当に?
結局エマの言葉は更にオリヴィアを混乱させただけで、ここのところの症状を改善するものでもない。ましてや結論が出るわけでもなかった。
次に彼に逢えるのは視察が終わって落ち着いてからだろうから、まだ一ヶ月は先だろうか。いよいよ、賭けの期限である三月まであと少し。何も結論を出す必要はない。このままなら自分達は夫婦になるのだ。そこに恋が存在するしないに関わらず。
今はまず目の前に迫っている軍の査察および領地の視察対応に目を向けるべき時だ。
オリヴィアはもう一つ、クッキーを口に放り込むと、紅茶で流し込むようにして再び書物机に戻った。どうしても脳裏にちらついてしまう彼の姿を、その度にすぐさま頭から消し去るようにして。