17. 内に募るもの2
支度が整い次第、領地に戻るつもりだと言ったオリヴィアを引き止めたのはフレッドだった。
親しい友人の家に晩餐に招待されたのだが、それに一緒に出て欲しいと言う。自分も出て良いものか躊躇ったが、その友人の婚約者も来るということと、先方からもオリヴィアに出て欲しいと言われているのだと、困ったように申し出られては、断る理由も特に思いつかなかった。
まだ領地に戻るまでには余裕があるだろう。ただ、十二月になれば新年を迎える準備を始めなければならない。それに年明けには、領地にある国王軍の駐屯地に査察が入ることになっている。それに合わせて領地の視察も予定されているとなるとあまり悠長にしてはいられなかった。
母はオリヴィアが八歳の時に亡くなったため、オリヴィアは早いうちから屋敷の女主人として采配を振るっている。今回の視察にあたっても王都からの客人は屋敷に泊まるとになっている。準備するべきことは山ほどあった。
それをフレッドに告げると、晩餐会は十一月の終わりだという。招待客もオリヴィアを含めて三人きりのごく内輪だけのものだという事だったので、それならば是非と返事を返した。それだけ少人数なら構えることも気負うこともせずに済むだろう。それに、フレッドの友人という人物にも興味を惹かれた。
良く考えれば、彼のことは知っているようであまり知らない。その友人のことも含めて、もっと彼のことを良く知るチャンスだろうと思うと、何と無し心が浮き立った。
*
迎えに来たフレッドと共に馬車で向かった先は、コーンウェル公爵家だった。アルディスの貴族なら知らない者はいない、名家だ。代々宰相職を務める家系である。
その公爵家の屋敷の前で馬車が止まり、オリヴィアは少なからず緊張した。
「やあ、フレッド。来てくれて嬉しいよ」
「サイラス、お招きありがとう。リリアナも、御機嫌よう。今日は君たちに会えて嬉しいよ」
一通り使用人達の出迎えを受けた後、遅れて二人を迎えたのは公爵家の長男であり宰相補佐官を務めている青年だった。黒髪に紺碧の瞳をしている。フレッドより精悍な佇まいと秀麗な顔立ち。会話の様子から、彼がフレッドの友人だと知れた。色気のある人だと思うが、人懐こそうにも見える。フレッドも美しいと称される青年だが、公爵家の長男もまた劣らず社交界で令嬢の話題をさらいそうだ。
隣に並んでいる令嬢が彼の婚約者だろうか。白い肌に頬の辺りに少しそばかすがあって、それが彼女のチャームポイントになっている。カーネリアンを思わせる色をした意志の強そうな瞳と、黄味がかったブラウンの髪。全体的に瞳の強さとそばかすのバランスがコケティッシュな印象を与えている。可愛い人だと思った。無意識のうちに視線が強くなっていただろうか、その令嬢がにこりと微笑む。横合いから青年がオリヴィアに視線を移して声を掛けた。
「こちらが、君の婚約者殿だね」
「ああ、オリヴィアだ」
「初めまして。オリヴィア・フリークスと申します。今日はお招き頂きありがとうございます」
フレッドに促されて一歩前へ出、淑女の挨拶をとる。その手を青年が取った。オリヴィアを見る目は好奇心に満ちていて、いつもなら見知らぬ男性には少なくない警戒心を持つオリヴィアもさほど心を堅くせずに済んだ。隣にフレッドがいるという安心感が意識しないまでも心の中にあったからかもしれなかった。
「サイラス・コーンウェルです。お会いしたことはなかったかな?貴女のお父上とは何度かお目にかかったことがあるんだけど。それにしてもお美しい人だ。噂通りの神秘的な瞳をしていらっしゃる。フレッドが夢中になるのもわかるな」
「サイラス」
初対面の女性に流れるようなお世辞を添えて微笑むサイラスに、オリヴィアは絶句した。隣に婚約者がいるというのに大丈夫なのだろうか。思わずそっと令嬢を伺い見たが、どうやら令嬢はそういった場面に慣れているのか呆れたような笑いを含んだ顔で見ていた。一方、フレッドが横から渋い声でサイラスを窘める。
最後の夢中になる、の意味はよくわからなかったが、この場で深く追求するのもどうかと敢えてそこは流す。
オリヴィアは同時にその人こそが、あの収穫祭の日に控えの間までお水とタオルを手配してくれた男性と同じ人物なのだと気付き、知られてしまっているという気まずさと恥ずかしさに身の置き所を無くした思いになる。
とはいえ、だからと言って彼の親切に何も言わないわけにはいかない。オリヴィアは意を決して礼を言った。
「先日は、サイラス様にもお気遣いを頂きありがとうございました」
「あれ?フレッドが言ったのかな?」
「いえ、女官の方でしょうか、フレッド様とお話しされているのが聞こえましたので」
「ああ、そうでしたか。そりゃあもう、美しい女性の為であればあれ位大したことではありませんよ」
秀麗な顔で微笑まれては、大抵の女性は何か勘違いしてしまうのではないだろうか。男女のことには疎いオリヴィアでもそう思わざるを得ない。彼の婚約者はよほど肝が座っていないと勤まらないだろうな、と余計なことを考えそうになる。
「お世辞がお上手ですね。光栄ですわ。フレッド様には婚約者として良くして頂いております。お二人も婚約者様同士だとか」
「ええ、婚約者で幼馴染なんですよ。リリアナ」
サイラスが隣の婚約者に声を掛けると、先程から自分たちを微笑んで見守っていた令嬢が進み出る。同じように淑女の礼を取ると、オリヴィアに向き合った。その挨拶はコケティッシュな彼女の見た目を裏切るように洗練されていて、この令嬢が上級貴族であることを伺わせた。きっと社交界でも顔を合わせたことはあるだろう。
「リリアナ・ブライスです。サイラスとはくされ縁なんですの。今日は私も是非オリヴィア様とお話させて頂きたくてご一緒させて頂きましたのよ」
「まあ、ブライス侯爵家のお嬢様でしたのね。コーンウェル卿ととてもお似合いでいらっしゃいますわ」
社交界では必要以上に他者と関わらないようにしていたオリヴィアである。シーズンオフには領地からあまり出ないこともあって、親しい同姓も殆どいないのだが、リリアナはこれまで自分に近づいて来た令嬢たちとは違い、相手を落として自分を上げようとする様子がなく好感が持てた。
隣のサイラスが、続きは中でどうぞと促す。
「どうぞサイラスと呼んでください。俺もオリヴィアと呼んでも?フレッドの婚約者なら俺たちにとっても友人だ。さあ、入ってください。今夜はゆっくりしていって」
*
晩餐は和やかに進められた。
フレッドとサイラスはロースクール時代の友人であるらしい。それでフレッド同様社交界で見かけた覚えがないのかと合点が行った。ロースクールも寄宿学校同様、いやそれ以上に厳しく、二年間社交界に顔を出している暇は殆どなかっただろう。
二人はどうやら毎回成績を競い合っていた仲のようだ。ロースクール時代の部屋もシェアし寝食を共にした間柄ということもあって、フレッドが随分とサイラスに心を許している様子が伺えた。
貴族の男子は寄宿学校等で男同士の交流を深め、それはやがて社交界での人脈形成にも生きてくるのだが、女子には寄宿学校のような場所はなく、一般的に家庭教師をつけて教養などを学ぶことが多い。オリヴィアは、男同士の友情に羨望の眼差しを禁じ得なかった。
そしてそれはリリアナにも向けられる。
晩餐の席で主に話題を提供し話を盛り上げるのはサイラスで、フレッドはそれに相槌を打ったり補足をしたりするのだが、随所でリリアナも婚約者をからかったり、あるいは婚約者を立てたりと仲睦まじさが滲み出ている。
オリヴィアにはこれまで親しい友人がいなかった。極力領地から出ないようにしていたし、社交界でも必要最低限、上辺だけを撫でるような付き合いしかしてこなかった為、こうして気を許せる関係を目にするのは新鮮でもあった。
微笑ましかった。オリヴィアは殆ど話を聴くだけだったが、三人のやり取りはオリヴィアのために時折説明を加えながら進むので、話に置いていかれる疎外感を味わうこともなかった。
公爵家を辞してフレッドと馬車に乗り込む頃にはすっかり夜も更けていた。泊まっていくようにと勧められたが、サイラスもリリアナとゆっくり過ごしたいだろうとその申し出をやんわりと断ったのだ。
フレッドが馭者に何事か小声で指示しているのを、サイラス達と挨拶を交わしながら待つ。いくらもしない内にフレッドがオリヴィアに手を差し出してきて、二人は向かい合わせに馬車に乗り込んだ。
フリークスの屋敷へと出発する車輪のゴトゴトという音が夜の静かな道に響き始める。フレッドがオリヴィアを気遣うように柔らかな笑みを向けて言った。
「今日は一緒に来てくれてありがとう。疲れたでしょう」
「いえ、楽しく過ごさせて頂きました。良い友人をお持ちですのね」
「あの二人はいつもあんな感じなんだ。きみが気を悪くしていないと良いのだけど」
「とんでもないですわ。……少し羨ましくなりました」
「え?」
サイラス達の様子を思い出してちくん、と胸が痛む。自分はあんな風になれそうもない。
「お二人共、相手を心から信頼してらっしゃって……心を許し合える関係って素敵だなって」
「……」
フレッドの様子が少し変わった。柔らかな笑みはそのままに、でもその空色の瞳がほんの少し真剣味を増してオリヴィアを真正面から見詰めた。
「幼馴染ですものね」
オリヴィアが自分を納得させようとして紡いだ言葉は、存外寂しく響いたらしい。フレッドが唇を引き結んでから、徐にその口を開いた。
「僕はきみとそうなりたいと思っている」
「フレッド様」
真剣な眼差しに囚われるようにオリヴィアもフレッドを見詰め返す。互いの視線が交差した。今度はフレッドも、いつかのようにその目を逸らすことはなかった。射抜くような視線に、だんだんとオリヴィアの頰が熱くなっていく。どくん、と心臓が跳ねて、最近の彼は心臓に悪いことばかりする、と思った。かといって今更目を逸らせることも出来ない。膝の上の両手をぎゅっと握り締めた。
「オリヴィア」
「はい」
視線をオリヴィアに合わせたまま、フレッドが少し低い声でオリヴィアを呼んだ。外が静かな分、その声が二人の間に響いた。
「きみが好きだ」
元々熱くなっていた頬が、更にその熱を増した気がした。
心臓が弾けそうな気さえする。どくんどくんと自分の鼓動の音が聞こえる。フレッドにも聞こえるのではないかと思う位に大きい。近頃の自分は一体どうしてしまったのだろう。フレッドの言葉に、眼差しに、温もりに、いちいち心臓が煩く音を立てる。気がつけば、頬も熱くなっているし、自分で自分が全くわからない。
フレッドに向き合うようになって、彼のこれまでを知って、彼が自分の心を見せてくれた。そのことは素直に嬉しい筈なのに、何故か胸が苦しくなる。瞳を逸らせないまでも、その視線が僅かに揺らめいてしまったことは彼にも伝わったのだろう。
” 貴女の目に映る、貴女の目の前の彼と向き合いなさい”
マルヴェラの言葉が蘇る。向き合った、知りたいことはぶつけた、じゃあその結果胸が苦しくなったらどうしたら良いのだろう。
「きみが、異性に恐怖心を持っていることは知っている。僕のことも怖いかもしれない。それでも、僕はきみがいい。いつかきみが僕を怖がらなくなる日まで、待つから。だから」
「いいえ、怖くはありません」
反射的にオリヴィアは彼の言葉を訂正する。
「貴方が怖いのではないのです。ただ……」
「ただ?」
「やっぱり、その先は求めないで……」
正直に打ち明ける。怯えは依然根強くオリヴィアの心に巣食っている。それはフレッドがどうこうというのとは全く別なのだ。もはや本能に刷り込まれていると言っても良い。フレッドの告白に、心が揺れている。嬉しく思う気持ちがあるのは確かだ。だけど、おぞましい記憶が、彼の心を素直に受け取ることを拒否する。
フレッドがそっとオリヴィアの隣に席を移した。今までフレッドが座っていた座面を力なく見つめるオリヴィアの横顔を覗き込んでくる。
「触れても?」
フレッドが尋ねる声に釣られて彼の方を向く。律儀にいつもオリヴィアに触れる前に了解を取ろうとしてくれる彼に、求めているであろうものを差し出せないことをオリヴィアは申し訳なく思った。視界が滲んで、小さく頷いた。
不意にフレッドの手が伸びてオリヴィアの眦に浮かんだ涙を親指で拭った。ぴくり、とその指先の熱さに肩が揺れる。心臓がばくばくと音を立てているが、それが恐怖心から来ているのか、そうでない原因によるのかオリヴィアには判断がつかない。その指先はすっとそのまま頬をなぞって顎を辿る。
身を捩ることも出来た。声を上げることも出来た。なのにその時オリヴィアにはその選択肢が頭になかった。ただ、自分の頬を辿る指先の感触を、与えられる熱さを、身じろぎもせずに受け止めるだけ。馬車が石畳を走る音さえも、その時のオリヴィアの耳には入らなかった。
顎を辿った指が、僅かにオリヴィアの顔をくいと上げさせる。されるがまま上げた顔の先で、フレッドの瞳が切ない光を孕んでいて、オリヴィアはその光に魅入られた。
唇に、柔らかな感触が降りてきた。