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16. 内に募るもの1

 収穫を祝う舞踏会の翌日はぐっと気温が下がり、まるで冬の始まりを告げるようだった。オリヴィアは王都の屋敷でフレッドの訪問を受け、サロンで午後のお茶を共にしていた。エマが入れてくれた少し甘ったるいほどの濃厚な香りを放つ熱い紅茶を口にしながら、向かいの一人掛けのソファに座って珈琲を飲むフレッドを見るともなしに見る。エマはサロンのドアを少しだけ開けると、婚約者同士だから問題ないと判断したのか静かに出て行った。


 「昨日は眠れた?」

 「……いえ、あまり……すみません、こんな格好で」


 昨日は早めに屋敷に戻ったものの、寝付くことが出来ずまんじりともしない内に夜が明けてしまったのだった。鳥の声が聞こえる頃に漸くうとうとと眠りに落ちたため、昼を過ぎてからやっと起き上がったのである。お陰で身支度にさほど時間がかけられず、ダークブラウンの艶やかな髪は、結い上げるのではなく、片側で緩く編み込みにして胸の前に垂らした状態だ。モスグリーンのドレスは胸元の露出が少なく肩も覆われたもので、同色の糸で脇から裾にかけて繊細な蔦模様の刺繍がなされている。アクセサリーも今は着けていなかった。オリヴィアは今更ながらにそのことを恥じた。


 「いや、髪を下ろした姿も似合っているよ。……僕の方こそ、今日は遠慮すべきだったかな」

 「そんなこと……あの、昨日はありがとうございました」


 似合っていると言われて心臓が小さく跳ね上がる。だが、そんな自分の心を深く追求することはしなかった。それよりも。


 「それで……昨日のことは、他の方は……」


 オリヴィアは昨日控えの部屋を訪ねて来た人物のことが気になっていた。もしかして既にあの庭での出来事が広まったのではないかと思うと気が気ではなかった。

 自分ははっきりとカイルを拒絶した筈だが、意識がぷつんと切れてからフレッドの元で目を覚ますまで何があったのか知らない。フレッドは何もされていないと言ったが、人が何を見てそれをどう捉えたのかはまた別の話であった。


 「大丈夫、誰も気付いていないよ。僕の親友には知られてしまったけど、彼は信用出来るから、きみは心配しなくていい」

 「そうですか……」


 それを聞いてほっと肩の力が抜ける。とりあえず酷い醜聞になっているのではないと知って、オリヴィアは安堵した。


 その先を告げるべきか、オリヴィアは束の間躊躇ったが、あんな醜態を見せた後で隠しても仕方のないことだと思い直し何とか言葉を搾り出す。目を見て話さなきゃと思うのに、徐々に頭が下がっていった。


 「前にも……、似たようなことがあって……。あの時は取り乱してしまいました。ごめんなさい……」


 まだオリヴィアが十四の時だった。あれは領地にいた時だ。

 屋敷に遊びに来た従兄妹達と共に、ユナイ川のほとりの少し森が開けた場所で遊んでいた。従妹の一人と弟がひょうんなことから喧嘩になった。当時六歳だった従妹はぐずぐずと泣き出してしまい、見かねたオリヴィアは何か出来ることがないかと思ったのだった。それで川の上流側に咲いている花を摘んでこようと、皆に少し待っているよう告げて川沿いに走っていったのだが、その時期に咲いているはずの黄色の花弁をなかなか見つけられなかった。そうして上流へ上流へと行くうちに、隣国から入国を(はか)っていた不審者と鉢合わせしたのだ。

 その男たちをすぐには侵入者だと判別できずにいる内に、オリヴィアは捕らえられ、森の奥に連れ込まれ、ドレスに手をかけられた。恐怖のあまり悲鳴すら上げることができず、ただひたすらガタガタと震えるオリヴィアを救ったのは、戻りが遅いことを心配した従兄と従者だった。


 沈黙が漂う。オリヴィアは意を決してもう一度顔を上げたが、そこでフレッドの澄んだ空の色をした瞳が険しく(すが)められているのに気付き、息が止まった。フレッドが、オリヴィアはもはや汚れていて自分と結婚するに値しないと怒ったのではと思い、慌てて言葉を補う。


 「あ、あの、その時も何もされなかったから、だから傷物では、ないです。本当に」

 「そうじゃなくて」


 フレッドがその言葉を遮る。険しかった空色の瞳ががほんの僅か揺らめき、苦しげに歪んだものに変わった。フレッドが手に持っていたカップをテーブルに置いて立ち上がると、オリヴィアの前まで来て少し屈む。そのままソファの背もたれに片手を置くと、膝の上でぎゅっと握り締めていたオリヴィアの両手の上にそっともう片方の手を重ねた。ぴくりとオリヴィアの肩が跳ねる。


 「僕が居れば良かったと思って」

 「え……」

 「二度ときみをあんな目に合わせない」

 「あ、あの」

 「これからはきみの傍にいる」


 間近に迫った自分を見下ろすフレッドの顔と、オリヴィアの手をきゅっと包み込むように重ねられた手に、思わず上半身を仰け反らせると、フレッドの手があっさり離れた。

 手が触れた時は咄嗟に怯えが走ったのに、その温もりが消えたことを不思議に寂しく感じる。

 そういえば、その腕に抱き寄せられた時も暖かかったっけ、と目の前のフレッドの胸を見て思い出してしまい、オリヴィアの頬に朱が走った。


 そうだ、昨日その腕の中で口に出したまま、はっきりと回答を貰っていないことがあったのだった。それをはっきりさせないことには。僅かに緊張の色を乗せてフレッドをもう一度見詰め直す。


 「でも……、昨日踊っていらっしゃった方はフレッド様の親しい方では?」


 フレッドは元の場所に戻るのかと思いきや、オリヴィアの隣に並んで腰掛けた。唐突な問いにフレッドが驚く気配が伝わる。だけど、オリヴィアはこの答えなしにはフレッドに向き合うことは出来ないと思っていた。

 フレッドが身体ごとオリヴィアの方を向いた。真剣な眼差しがオリヴィアを貫く。


 「どんな噂を聞いたのか知らないけど、僕が親しくしているのはきみだけだ」

 「では、あの方は」


 そこで、フレッドが僅かに躊躇いを見せた。オーレル夫人とは、と彼が続けたので、オリヴィアはあの時のダンスの相手はアイリーンだったのだと知った。


 「お付き合いしていた訳ではないし、勿論今もそうだ」

 「でも今もお逢いになられているとか」

 「彼女に用を言いつけられて会ったことはあるけど、それだけだよ」

 「そうなんですか。私はてっきりフレッド様とあの方は、……その、深い仲でいらっしゃるのかと」


 フレッドの眉間に皺が寄って、あまりに直接的な言い方だったとオリヴィアは自分の言葉を慌てて取り消そうとした。


 「ごめんなさい。はしたないことを…忘れて下さい」

 「……気になる?」

 「えーと、……ええ」


 視線をうろうろと彷徨わせてから観念して頷く。そこでフレッドが静かにオリヴィアをひたと見詰めた。その面持ちは穏やかだが真剣だった。


 「僕は、きみの夫になる。そして僕は妻以外の誰とも関係を持つ気はない」

 「ですが、私達は」

 「わかっている。それでも、僕はきみ以外の人と関係を持つ気はないよ」


 言外に、オリヴィアを求めているともとれるその言葉にオリヴィアは目を伏せた。彼に求められても、オリヴィアは応じることは出来ない。それは変わらずにオリヴィアの中にある。今も、フレッドは自分に手を出さないと判っているからこそ、この距離でも拒否反応を起こさずにいられるのだ。それは例えば、従兄だとか弟と同じ安心感をオリヴィアに与えてくれていた。

 だが、フレッドがそういう目で自分を見ているとしたら。


 あの雨の日にオリヴィアを助けてくれた。昨日は震えるオリヴィアをそっと抱き締めてくれた。今も俯くオリヴィアに暖かい手を添えてくれた。それらは決して不快なものではなかった。どころか、心を落ち着かせてくれて安心させてくれた。

 だけど、やっぱりその先を求められるのは怖かった。十四歳のあの日が、昨日の王宮の庭でのやり取りが、そして父と母の姿が、浮かんではオリヴィアに警告する。隙を見せてはならない、弱さを晒してはならない。でないと取り返しのつかないほど傷つくのは自分だと。

 伏せた目を上げられず、小さな声でごめんなさい、と呟いたオリヴィアを、その内心を(おもんぱか)るようにフレッドが静かに見詰めた。


 「大丈夫、約束は忘れていないから」


 その一言に束の間強張っていた心がゆるゆると解けた。はい、と答えてフレッドを見返す。安堵で少し表情が崩れそうになるのをぐっと堪えた。


 フレッドが心の中で、少なくとも今は、と付け足したことは知る由もなかった。

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