14. 決意2
オリヴィアの身をフリークス家の侍女に預けた後、その足ですぐさま広間へ戻った。すっかり陽が暮れた広間は宴もたけなわで、まだ大勢の人がこの場を楽しんでいる。
フレッドは歓談中の男女の中から、目的の人物を見つけた。丁度壁際に置かれたソファで令嬢と二人で語らっているところだった。そっと近づく。
「サイラス」
「おお、おお、フレッド!暫く振りだな。噂の婚約者はどうした?早く紹介しろよ」
黒髪に紺碧の瞳を持ち、鼻筋が高く整った顔立ちをした男が相好を崩してフレッドを見上げた。隣にいるのが見知った令嬢であったこともあり、挨拶もそこそこにフレッドは本題に入った。
「……もしかしてさっき見ていたのか?それとももう広まっているのか?」
「せっかちなやつだなあ。久しぶりの再会だというのに挨拶もなしか?それによく見ろよ、俺はご令嬢と会話を楽しんでいるところなんだが」
「何が『ご令嬢』だ。お前の婚約者だろう」
「尚更じゃないか、俺が婚約者に愛の言葉を囁く時間もくれない気か」
サイラスが戯けた声で言って、くすくすと隣にいた令嬢が耐えかねたように笑った。確かに性急過ぎたかと、一応令嬢に向けて挨拶する。
「ごきげんよう、リリアナ。今晩も相変わらずお美しい」
リリアナが、一層朗らかに笑った。その手を取り唇を寄せる。一通り挨拶を済ませるが、彼女の笑いは止まらない。
「ごきけんよう、フレッド様。相変わらず当たり障りのない褒め言葉ですわね」
ずばりと言ってのけたリリアナに、フレッドはたじろいだが、不快になった訳ではない。この令嬢は、サイラスの婚約者であり幼馴染でもある。
サイラスは、アルディスの宰相の嫡男である。代々世襲により宰相位を継ぐこの国において、次代の宰相となるべき人物だ。彼の父親の年齢や、彼の年齢から言っても、かれが宰相職を継ぐのはそう遠くない時期だと目されている。
そのサイラスとはロースクール時代に出会った。同じ歳でありながら境遇も、性格もだいぶ異なる二人ではあったが、あっという間に意気投合した。家同士の往き来もあり、今や無二の親友と言っても良い間柄である。自然と、サイラスの婚約者であるリリアナにも顔を合わせ、何度か三人で連れ立って出掛けたことすらあった。
幼馴染という気安さもあるのだろう、この二人ははたから見ても非常に仲が良い。サイラスが秀麗な顔立ちをしているのに対し、リリアナはコケティッシュな雰囲気を持っている。頬にそばかすのある顔はチャーミングで愛嬌があり、言動は小気味良く裏がない。フレッドがすぐにリリアナに打ち解けたのも、サイラスの幼馴染であるということよりも、彼女自身の性格によるところが大きい。
サイラスはその生まれと顔立ちのお陰で、言い寄る女性には事欠かなかった。だが彼が表向きそういった女性達を礼儀正しく淑女として扱いながらも、その実リリアナに一筋であるのをフレッドは知っている。そしてそれをリリアナも知っているのである。だからサイラスが他の令嬢達に微笑みを振りまいても鷹揚に構えていられるのだろう。二人の中に横たわっている、誰にも侵すことのできない信頼関係はそれほどに強い。
だからこそ、サイラスの親友を相手に辛辣な言葉も出て来るのだろうが、言い方に棘がない分憎めないのだ。そのリリアナがふっと笑いを収めて、心配そうにフレッドを見る。
「オリヴィア様はどうされました?お加減は如何ですか?」
それを聞いてフレッドははっとした。やはり彼女も知っているのだ。ひょっとして何処かからもう噂になっているのだろうか。疑問が顔に出ていたのだろう、サイラスがすっと真顔になって口を開いた。
「俺たち、実は見ていたんだ。言っておくが、俺たちが先にあの場所にいたんだからな?リリアナと恋人の語らいをガゼボでしていたわけだ。丁度夕陽が綺麗な時間だ、婚約者を口説くには良いシチュエーションだろう?それがお前の婚約者が一人でガゼボを通り過ぎて奥へ行くから、気になって口説くチャンスを失ったぞ」
「何、一部始終を見ていたのか。君、彼女が僕の婚約者だと知ってたんだろう?知っていて見ていただけか」
「まあね、それに関しては謝る。事情もわからないし、男女のことは当人同士でしか解決できないからな……成り行きを見守っていたのは事実だ。詳しい会話の中身までは聞こえなかったが、彼女は嫌がっているようだったからもし何かあれば助ける気ではいたが」
「イリストア卿がいらして、もしかしてオリヴィア様がフレッド様に隠れて意図的に卿と会われているのではと少し疑ってしまったのよ。でもオリヴィア様の声が切迫していたから……、私貴方を呼びに行こうと思って」
「そうしている内に今度は余裕のなさそうな足音が聞こえてくるし……俺たちはガゼボの中で大わらわだ。愛を語るどころじゃない。イリストア卿の加勢が来たのなら彼女は終わりだ、これはまずいと思っていたら止める間もなく彼女があんな目に遭って」
「でも貴方が来たから胸を撫で下ろしたのよ。ちょっと遅かったと思うけど」
最後にチクリと棘を刺すと、リリアナが真剣な面持ちになり普段は勝気な言葉を紡ぐ唇を震わせて続けた。
「オリヴィア様……どんなにか怖い思いをされたことでしょう……。あんなこと……淑女にすることではございませんわ……」
束の間沈黙が降りる。
「俺たち以外にあれを見ていたやつはいない。それは安心しろ。勿論口外するつもりもない」
「……ああ」
「あいつがお前に手を出したら、俺は加勢するつもりだったんだがな。残念ながら俺がリリアナに格好いいところを見せる機会はお預けになってしまった」
サイラスの最後の言葉はまた戯けた口調に戻っていて、少しだけ強張っていた口元が緩んだ。
「そうか、君たち以外に見られていなかったのは幸いだった。控えの間に女官が来て一瞬ひやりとした」
「それで、婚約者殿はどうした?お前があれだけ一人の女性にご執心だとはなあ。意外だったよ」
「彼女は帰らせた。これ以上ここに居るのは辛いだろうと思って」
「お前は付いていなくて良かったのか?」
「ああ……明日行くとは言ってある」
脳裏に、縋るように自分のコートの裾を掴んだオリヴィアの姿が浮かんでフレッドはふっと昏い溜息をついた。
あれはまずい。彼女は無意識だったろうし、恐らく一人にされるのが心細かったというのが理由だろうが、あのように潤んだ目で見つめられては、いつまで自制が効くというのだろう。その場で深く抱き締め、唇に喰らい付きたいという欲望を抑えるのはかなり難しいことだった。彼女を送って行くことも考えないわけではなかったが、フレッドには自分の理性が信用ならなかった。結果としてカイルと同じように彼女を怯えさせてしまったら元も子もない。そう思ってやめておいたのだった。
彼女の侍女ががもう少し遅かったら……自分が紳士でいられたかどうか甚だ疑問だった。
そんなフレッドの様子にサイラスがにやりと口の端を上げる。
「フレッド、折角の再会だ、まだ今夜はこれからなんだ。ゆっくり呑みながら話そうぜ」
「君はリリアナと愛を語るんじゃなかったのか」
呆れて返すが、サイラスは気にも止めずに笑った。リリアナもその辺りは承知のようだ。
「では私は、暫く踊ってきますわ。サイラス様はダンスもなさらずにずっと座っていらっしゃるんですもの。私も身体を動かしたいわ」
「ああ、でもダンスだけにしろよ?くだらない男について行くなよ」
「あら、サイラスでもそんなことを心配してくれるのね。それならダンスだけで止めておくわ」
サイラスに言われるまでもなく、リリアナは他の男に安易について行くような娘ではない。だが、やはり言われて悪い気はしないのだろう、リリアナはくすりと笑って立ち上がる。
「ではフレッド様もごきげんよう。何か私で力になれる事が御座いましたら遠慮なく仰って。それから、サイラスを宜しく御願いしますね」
そのまま、ダンスを踊る輪の中に入っていったリリアナの背を見送りながら、サイラスが行こう、と促した。
「ここでは出来ない話もあるだろう……俺の執務室で呑もうか」
案内されたのは、サイラスの執務室だ。サイラスはいずれ宰相職を継ぐ予定であるため、現在は父のコーンウェル公爵の補佐という形で王宮に出仕している。フレッドと同じ時期にサイラスもまたロースクールを卒業したが、その後すぐに出仕して今に至る。元々ロースクールでも常に成績優秀者だった彼だから、特に大きな問題もなくこなしているのだろう。
補佐であるためか、さほど広い部屋ではないが、部屋には重厚なマホガニーの執務机と、応接セットが置いてある。キャビネットには酒も幾つか常備されているようだ。サイラスはフレッドにソファを勧めると、彼付きの侍従に氷を届けるように伝えてキャビネットから幾つか酒を物色し始めた。
「君は何にするかい?俺はウィスキーにするが、此処にはワインもブランデーもある。好きなものを飲めよ」
「いや、僕もウィスキーにしよう」
侍従がタイミング良く氷を持って入って来る。それを受け取るとサイラスは自ら二人のグラスに氷を入れウィスキーを注いだ。一つをフレッドに渡して軽く杯を重ねる。
「改めて、婚約おめでとう。まさか君がフリークス卿の令嬢を射止めるとはなあ。そもそも君が令嬢に興味があると知らなかったから意外だったよ」
「射止めたわけじゃないよ。親が決めた。良くある話だ」
「でもオリヴィア嬢はこれまで並み居る求婚者をけんもほろろに断ってきた男嫌いと言うじゃないか。あの美貌に言い寄る男共をバッサリ斬りつける、社交界の孤高の花だとね。良くこの話がまとまったものだな」
「彼女は知らなかったよ。僕の名前さえね」
「そうだったのか」
サイラスは大袈裟に驚いてみせると、ウィスキーを呷った。
「彼女に僕が紹介されたのは全てが決まった後だ。逃れられなかったんだろう」
「君たちの婚約はセンセーショナルだったよ。今年の社交界はその話題で持ちきりだったな。それなのに君ときたら、全然俺に彼女を紹介してくれない。俺は本当に君の親友なのかと疑いたくなったよ」
「何を白々しい。大方、僕のことを無精者だとでも詰っていたのだろう。でもまあ……ちょっと訳があるんだ。許してくれ」
そこでフレッドは一呼吸おいた。手の中のウィスキーのグラスを徐ろに回してみる。カラン、と氷のぶつかる音が聞こえた。どう説明するべきか……僅かだけ躊躇ってから再び口を開く。
「彼女とは、親の思惑とは別に、一つ約束をしているんだ。この結婚は……このまま行けば白い結婚になる予定だ」
「何だって?」
サイラスが向かいのソファで身を乗り出す。フレッドは、あの日のオリヴィアからの提案と、賭けについてサイラスに洗いざらい話した。
一通り話し終えると、サイラスが呻き声を上げた。話は判るが、理解出来ないとでも言うように。
「君は何故そんな提案に乗ったんだ。彼女が好きなんだろう?さっきの様子を見ていれば嫌でもわかる」
「……あの時はまだそこまで彼女を知らなかったんだ。白い結婚なんて馬鹿げたものを提案した彼女に腹が立ったし、それなら彼女の言う通り、愛人でも置いて好きにさせてもらうか、この婚約をぶち壊してやろうと思った」
「それにしたって、その賭けじゃどっちにしろ君は彼女に手が出せないじゃないか」
「あの時は別にそれでいいと思ったんだ……お高く止まっている彼女の鼻をへし折ってやりたかった」
「それがどうして此処まで彼女に執心するようになったんだ?今も彼女は男嫌いに見えたがな」
「彼女は男嫌いなんじゃない、男が怖いだけなんだ」
「おいおい、それはどういうことだ」
「本人に聞いた事はないが……、きっと過去に何か恐怖心を植え付けられるようなきっかけがあったんだと思う。不必要に近付くと怯えた目をして身体が強張る」
「そういうことなら、今日のあれは……」
「きっと僕たちの想像以上に彼女は恐怖を味わったに違いない。僕が触れようとした時も過敏に反応していた」
意識を取り戻した時の彼女を思い出す。酷く取り乱していた。震えはなかなか止まらなかった。涙で顔がぐちゃぐちゃだった。思い出す度、自分がもう少し早く助けに行けば、とどうにもならないことを悔やんだ。それと同時に、彼女をそんな目に合わせたあの男に殺意さえ抱いた。
「ああ、成る程。だから白い結婚なのか」
「そうだ。それに、まだ結婚するかどうかもわからない。彼女がこの婚約を取り止めたいと思えば、僕に触れればいいだけだからな」
「それは無いだろう。もし君との婚約を解消しても、いずれは何処かに嫁がなければならないんだ。それが白い結婚になる保証もない。なら君と結婚した方が彼女にとっては安心だろう」
「そうかもしれない。白い結婚が前提にあるからこそ、僕は今の所彼女の傍にいられるんだ」
「君はそれでいいのか?」
サイラスが静かに問うた。いつもの戯けた口調は鳴りを潜め、真剣に尋ねているのが伝わって、フレッドは自分の思いを吐き出す。
「……良いわけないだろう。だけど、身体を望んだら、オリヴィアは僕を拒むだろう。そして全て台無しになってしまう」
サイラスが掛ける言葉が見つからないとでもいうように考え込んだ。
「この賭けはキツいな……」
「ああ……、君の言う通りに彼女が考えているとしたら僕は負けるだろうな。それは、僕が一生負け続けることを意味するんだ」
「俺は耐えられないな、リリアナを一生抱けないなんて想像するだけで怖気が走る」
「僕もだよ。愛する人を抱けないなんて拷問だ」
二人はそれから暫く、黙ってウィスキーを呷った。手の中のグラスが空になって、フレッドは立ち上がるとテーブルに近づき二杯目を空いたグラスに注いだ。氷を入れる気にはなれなかった。
「だけど、僕はだからと言ってこの婚約を破棄する気も、白い結婚を続ける気もない」
「そりゃあそうだ。そんなものをただ黙って呑むなんて男として終わっている」
フレッドはサイラスの茶化したような言い方に軽く笑ってから、手のオリヴィアの意識が戻るまでの間に考えていたことを宣言するように告げた。
「彼女に、僕を受け入れさせるよ」