13. 決意1
静かな海の底から水面に浮き上がるように意識が戻ってきて、オリヴィアは目を開けた。ぱちぱちと瞬きを繰り返して焦点を合わせる。
王宮の庭に居たはずだが、今オリヴィアの目には何処かの部屋の天井が見えた。此処は何処なのだろうかとぼんやりと水面に漂うような意識で考えた。
「気が付いた?」
優しい声が鼓膜を揺らす。聞き覚えのあるその声のした方へゆっくりと頭を向けると、フレッドがほっとしたように、でも何処か辛そうな顔で微笑んだ。そこにいたのがフレッドであることに一瞬混乱したが、それと同時にオリヴィアは肩の力が緩く抜けていくのを感じた。
「どうしてそんな顔をしているの……?」
彼が辛そうにしている理由がわからなくて思わず声を掛ければ、フレッドがくしゃりと顔を歪める。立ち上がりオリヴィアが横たわるソファのすぐ傍まで来ると、片膝をついてオリヴィアの顔を覗き込んだ。訳もわからずオリヴィアの胸がぎゅっと掴まれたようになる。
「気が付いて良かった。傍にいなくてごめん」
「私……」
「大丈夫、貴女は意識を失っただけでそれ以上のことは何もされてない。イリストア卿には二度と貴女に近付かないように言ってある」
そうだった。先程の光景が蘇る。オリヴィアはがばりとソファに起き上がった。その途端お腹の辺りに痛みが走って頰が痙攣った。そのままお腹を庇うように両手を当てた。
フレッドは何もされてないと言ったけど、本当に自分はあの男に何もされてないだろうか?意識がない間に何もかもが終わっていたりしないだろうか?あの男に掴まれた瞬間のゾッとする感触までが蘇ってきて、お腹に当てた掌から震えが広がっていく。
あの時は何とか押さえ込んだ震えが今になってガタガタと止めようもなく身体を覆った。
「こわっ、怖かっ、た」
震えのせいで上手く言葉を紡ぐことができない。涙がぶわりと溢れ出て、頬を伝った。起き上がったお陰でフレッドと目線の位置が近くなる。フレッドが間近でまた苦しそうな顔をした。
「本当に、私、何も……?」
涙でフレッドの顔が歪んで見える。フレッドが、大丈夫だ、と囁くのが耳に響いて、あの時の恐怖と、何もなかった安堵がないまぜになった涙が後から後から溢れ出て止まらなかった。
フレッドの腕が、躊躇いがちにオリヴィアに伸ばされる。それが一瞬あの男のものと重なって見えて思わずびくりと身を捩らせると、フレッドがはっとしたように手を止めた。
その様子にオリヴィアもはっとする。彼を傷付けるつもりはなかった、反射的に身体が動いただけで。そんな顔をさせるつもりではなかったのに。オリヴィアの心の中を申し訳なさがせり上がった。
フレッドが一度その手を握り込んで、それから躊躇いがちにオリヴィアにそっと尋ねかけた。
「……触れてもいいかい?」
答えは声にならず、頷くことしか出来なかった。
オリヴィアを怖がらせないようにと気遣ってくれたのだろう、そっと、遠慮がちにオリヴィアの背にフレッドの腕が回る。いつかの雨の日のように、だけどその時よりももっとやんわりと、膝立ちになったフレッドの胸の中に抱き寄せられた。
あの日と同じ暖かい胸の中は素直に身を預けても大丈夫な場所に思えて、オリヴィアはその胸に縋るように顔を寄せ身を震わせて泣いた。フレッドが、宥めるように何度もオリヴィアの背をゆっくりと撫でる。それが酷くオリヴィアを安心させて、無事に此処に戻って来れたのだと実感させた。暫くの間、フレッドも何も言わずにただそっとそうしてくれていた。
「一人にしてごめん。離れるんじゃなかった。貴女をこんな目に合わせてしまった」
ようやく身体の震えが収まり、どうにか涙も止まった頃。オリヴィアを抱き締めながらフレッドが苦痛を堪えるような声で言った。さも自分が悪いかのような言い方にオリヴィアは反射的にフレッドの腕の中で顔を上げた。
「いいえ、いいえ、貴方の所為ではないわ。私があの場に居られなくてつい逃げ出したから……。私が迂闊だったのです。一人であんな場所に行けばどうなるか、解っていた筈なのに」
フレッドに向き合おうと決めた筈だったのに、目の前の光景から逃げた。だから。
「逃げた?」
フレッドが怪訝そうに聞き返した。
「ええ、私……貴方が他の女性と踊っているのを見て……それで……」
「え?」
はっきりフレッドを見ていられなくなって俯く。蚊の鳴くような声で謝った。
「ごめんなさい」
フレッドの腕の中でくぐもった声はもはや殆ど聞こえない位なのに、フレッドには確かに聞こえたようだ。穏やかな声がオリヴィアの胸に響いた。
「どうして謝るの?」
「……私の心が狭いから。愛人を置いていいと言ったのは私なのに、貴方が別の方といるのを見て何だか嫌な気分になって……。だから」
ごめんなさい、ともう一度、今度は先程よりもはっきりと伝えてフレッドを見上げれば、頬を緩めて自分を見下ろす彼と目が合った。その表情が今まで見た事がない程優しいもので、オリヴィアは何故だか顔に熱が昇った。
「貴女がそう思ってくれるのはむしろ嬉しいことだけど……でもそれならやっぱり僕が悪かった、ごめん」
オリヴィアは首を振った。その拍子にそこまで広いとは言えないが充分に豪奢な部屋の内装が目に入って、そこでやっと最初の疑問が頭に蘇った。
「あの、此処は?」
「広間の控えの間だ。倒れた貴女を見つけて……、此処しか思い付かなかった。すぐに連れて帰れたら良かったんだけど」
「……助けてくださったんですね。ありがとうございました、本当に……」
視線をまたフレッドに戻す。収まった筈の涙がまた込みあげそうになって、唇を引き結んで何とか堪えた。
コンコン、と控えの間がノックされたのはその時だった。
思わずオリヴィアは身を強張らせる。フレッドが宥めるようにその肩から腕のラインをさっと摩ってから腕を放した。
「少し待っていて。大丈夫だから」
フレッドはそう言うと立ち上がって入口に近づき、ほんの僅かだけドアを開けた。強い羞恥と、誰が来たのかわからない怯えに、顔を晒したくなくてオリヴィアは入口から顔を背けた。
女性の声がして、ますます顔を上げられないでいると、ボソボソと話し声が聞こえた。
「お水と濡れタオルをお持ちしました」
「ありがとう。でも頼んだ覚えがないけど」
「コーンウェル卿から、こちらにお持ちするようにとのことでした」
「サイラスが……そうか、彼に礼を言っておいてくれ。後で行く」
「わかりました。他に何かお手伝いできることはありますか?」
王宮付きの女官か、あるいは誰かの侍女かもしれない。話しぶりだけではどちらとも判断が付かなかったが、その女性が自分を見たのであろう、恥ずかしさに居た堪れなくなった。誤解を生んだのではないかと思うと余計に身の置き所がなかった。
しかも漏れ聞こえた会話では、コーンウェル卿の名前が出てきたような気がする。この国の宰相家、コーンウェル公爵家においてコーンウェル卿と呼ばれるのは、宰相補佐官を務めている公爵家の嫡男のはずだった。何故その宰相補佐官がここに二人がいることを知っているのだろうか。
オリヴィアは庭でのことが今日の参加者に知れてしまっているのではないかと慄いた。
「馬車を呼んでくれ。それから彼女の侍女も。彼女を屋敷へ返す」
「わかりました。では暫くお待ち下さいませ」
話し声が止んでドアが静かに閉まる気配がした。オリヴィアが顔を上げると、フレッドが水と濡れタオルを持ってソファに戻ってくる所だった。
「あの……?」
「大丈夫、貴女が心配することは何もないよ。目がまた腫れてしまうね……これを」
フレッドがオリヴィアの隣に腰掛ける。その言葉と差し出された濡れタオルに、自分の今の顔がどんなものか思い至って、意識がそちらに引き戻された。きっと酷い顔になってしまっているだろう。散々フレッドの前で泣いてしまった後ではあったが、やはりこれ以上見せたいものではない。
顔を隠すように濡れタオルを瞼に当てると冷んやりとして気持ちが良かった。徐々に心が凪いでいく。気分が落ち着いた所で水を差し出され、素直に口を付ける。
「少しは落ち着いた?」
「ええ……」
「良かった。今馬車を呼んだ。もう暫くすれば迎えが来ると思う。僕が送ってあげたいところだけど、用が出来たから行かなくては」
「……はい」
フレッドが大丈夫?とでも言うようにオリヴィアの顔を覗き込む。
「今日は貴女ももう帰った方が良いだろう。また明日、屋敷へ行ってもいいかい?それとも、もう明日には領地に戻る予定なのかな」
「いえ……父には先に戻って貰いますわ」
「それで大丈夫?貴女だけでは危険では?」
「うちには父の私兵もいますから、大丈夫。きっと彼らが付いてくれるわ」
「じゃあまた明日、伺うよ。侍女が来るまで此処で待っていて。では行くよ」
フレッドがそのまま腰を上げる。そのまま出て行こうとするのを、オリヴィアは咄嗟に引き止めようとして、でもなんと言って呼び止めたら良いのかわからなかった。そもそもどうして引き止めたいのかもわからないまま、無意識の内に手がフレッドのテイル・コートの裾を掴んでいた。
くん、と引っ張られるのにつられて入口の方を向いていたフレッドが振り返った。その目はオリヴィアの手が裾を握っていると知って驚きに見開かれる。
あ、と我に返ってオリヴィアはぱっと手を放した。
「ご、ごめんなさい」
「いや、どうした?」
「いえ、あの」
「うん?」
言い淀んだオリヴィアを、こちらへ向き直ったフレッドが覗き込む。近頃、顔を覗き込まれることが多くなったように思う。しかも、前は探るような目付きだったのが、優しい表情に変わってきていて戸惑った。
恐怖に満たされていた心が、それ以外のものでざわめく。何故そんな反応をしてしまうのかは自分でもわからなかった。どうして引き止めてしまったのだろう。
「……もう少しだけ、此処にいて頂けたら、と……」
フレッドが、一拍おいてから勿論と言って顔を綻ばせた。断られなかったことに安堵するが、フレッドを煩わせたかもしれないと思い直して気分が落ち込む。かと思えば、勿論と言ってくれたフレッドの笑顔にもまた心がどくんと鳴って、それにもどう対処して良いかわからなくて俯いた。
フレッドはそんな彼女の様子を咎めることもなく、もう一度オリヴィアの隣に腰掛けた。
そうして、フレッドは侍女が迎えに来るまでの間、オリヴィアの横にただ静かに寄り添ってくれたのだった。