12. 近くて遠い2
自分が、彼女に陥落したことにはとうに気付いていた。
いつからだろう。彼女が王都の屋敷に来た時、これまで知らなかった一面を見たときからフレッドは己の心が彼女に惹きつけられているのを感じていた。領地で会った時、その笑顔を見たいと願った。満面の笑みを見せてくれる日がくることを祈った。あの時には既に彼女に落ちていたのかもしれない。
いや、もしかしたら初めてその姿を見たときから、あの碧の瞳に魅入られたときから、自分でも気付かないうちに彼女に抗いようもなく落ちていっていたのかもしれない。だからこそ自制も効かず初対面の彼女の唇を奪ってしまったのかもしれなかった。
彼女は他の令嬢と異なり、自分を次男だからと見下げることもなく、あるいは媚を売ることもなく、ただ最初からフレッドを自分の婚約者として受け入れてくれていた。
強気な女性だと思っていた。いつも周りを撥ね付け、己だけの世界に生きている、そう見えていた。だが、それは強いからではなくて、弱い自分を隠すためのものだと知った。周りが、異性が怖いから、怖いと怯える弱い心を隠すために殊更強い振りをしていただけだった。
本当の彼女は、礼儀正しく慎み深い人で、脆い人でもあった。それを気丈に振る舞って見せないようにしていたのだ。
彼女がなぜああも男を怖がるのか、その理由はわからないが、何か過去にあったのかもしれない。あれだけの美貌を持つ彼女だ、言い寄る男は沢山いたに違いない。
今も、自分が彼女から離れた瞬間、彼女にねっとりと不快なほど熱い視線を向けている男がいることに気付いていた。婚約者である自分に隠すこともしない、あからさまな眼差しは、シーズン中にも何度かオリヴィアに向けられていて、彼女もそれに気付いているようだった。苛々が募る。
「眉間に皺が寄っていてよ、フレッド」
アイリーンがステップを踏みながら軽く笑って指摘した。はっとして目の前の女性に視線を戻す。オリヴィアがフレッドから離れてそういくらも経たないうちにアイリーンがフレッドの元にやってきたのだった。挨拶を交わせば、マナーとして女性をダンスに誘わないわけにはいかない。でないと女性に恥をかかせることになる。仕方なくアイリーンを相手に踊り始めたフレッドだったが、気はそぞろだった。先程からちらちらとオリヴィアと、その男のことばかりを見てしまっていた。身体がダンスを覚えているので、心ここにあらずでも女性をリードすることはできるが、それでは目の前の女性は誤魔化せなかったようだ。
「……失礼しました」
「貴方、彼女のことが気になって仕方ないようね。本気になった?誰にも本気になったことのない貴方なのに」
「そりゃあまあ、僕の妻になる人ですからね。気にならない訳はない」
「私の目は誤魔化せなくてよ、フレッド。残念ですわね。誰か一人に夢中になるなんて貴方らしくないわ」
アイリーンが艶然と微笑む。微笑みは可愛らしいとさえ称される類のものなのに、その眼差しは色香を湛えてひたとフレッドを捉えた。
「らしくないですか。まあ僕も結婚するとあれば改心せざるを得ないということでしょう。これからは妻を大事にしますよ。泣かれては困りますので」
実際には泣かれるどころか、愛人を置けば良いとさえ言われているのだが、フレッドはそんなことはおくびにも出さずに冷笑を浮かべて牽制した。アイリーンがこれ以上迫って来るのを防ぐ為である。あら、とアイリーンが小首を傾げた。
「貴方達は政略結婚なのでしょう?どこが政略なのかはわからないですけど。オリヴィア様も貴方のことを好いていらっしゃるのかしら?一曲踊っただけで離れていかれたようにお見受けしましたけど?」
アイリーンはフレッドがそれとなく斥けたことに堪えた様子もなく、痛いところを突いてきた。フレッドは不覚にも動揺した。オリヴィアの領地から戻ってしばらくして届けられた自身の名前の刺繍が施されたハンカチを見れば頬は緩んだが、それが単なる礼に過ぎないことは良くわかっていた。
自分があの雨の夜に邪な思いを抱えていたと知ったら、彼女は即座に自分から離れていくだろう。今はただ、自分に害を成さない相手だとわかっているから受け入れているに過ぎない。その事実はフレッドを打ちのめした。
結婚相手だ、もうすぐ自分のものになる。それなのに、手に入らない。その心も、その身体さえ。
なのに自分の方は、もう引き返すかどうかの瀬戸際に来ている。今日も久しぶりに彼女を見た途端、その美しさに息を呑んだ。思わず挨拶を一瞬忘れるほどに。
見詰め合い触れられる距離にいれば、その先をもっともっとと求めそうになる自分がいる。求めて、手を伸ばしてしまいたい。だがそうしたところできっと何も手に入らない。どころか彼女にとって「安全な存在」である立ち位置さえあっけなく崩れるだろう。ならば今の内に引き返した方がいい。慌てて視線を引き剥がすが、気が付くとまた吸い寄せられるように彼女に魅入ってしまう。同じことの繰り返しだった。
自分と、今オリヴィアを見つめている男と、実のところ彼女に対する距離は大差ないのだ。苦痛に歪む顔をアイリーンがからかうように笑う。
「私はいつでもお待ちしていますわ……フレッド」
いや、ときっぱり告げようとしてアイリーンの顔を伺ったその向こうに、こちらを見つめるオリヴィアの顔が見えた。はっとして見返そうとするが、オリヴィアはすぐに視線を外してテラスの方へと足を向けた。もはやアイリーンの声は耳に入らず、足はステップを踏んでいるが視線は彼女の行く先を追いかける。しばらくテラスに腰を落ち着けていたオリヴィアが庭へ降りようとしていた。 王宮の庭は自分と歩くものだと言っただろう、何故一人で行こうとする。曲はまだ終わらない。一人で行くな、隣には僕がいるはずだろう、そう焦りだけが身を焦がしていく。
そうしている内に、先ほどからオリヴィアを見ていた男が何気ない風を装ってテラスへ向かうのが見えた。
やっと曲が終わる。
フレッドはいまやその男を追いかけることしか頭になかった。アイリーンとの礼もそこそこに、努めてさり気なく、だがその内心は焦燥感にかられて急ぎ足で男の後を追う。フレッドの方が男よりもオリヴィアから離れていた。異性に怯えているオリヴィアにあの男が近づいたら……そう思うと気が気ではなかった。
そうでなくても自分以外の男が彼女に近付くだけでどうしようもない苛立ちを覚えるというのに。
広間には大勢の貴族達が集まっていてフレッドの行く手を阻む。次のダンスの相手をと迫ってくる令嬢達への返事もそぞろに、人の波を掻き分けてどうにかテラスへと出た。そのまま庭へ通じる階段を駆け下りれば、夕暮れ時の橙の残照が照らす庭の奥でオリヴィアの張り詰めた声が聞こえた。
もはや自分が庭を走る姿が噂を誘ったら、などという考えは頭になかった。早く行かなければ。その心のままに奥へ奥へと進む。そうして漸く二人の姿を視界に捉えたその時。
自分に背を向けた男の向こうで、彼女がくずおれる姿が目に突き刺さった。
*
フレッドの目にはそれがスローモーションを見ているかのように、やけにゆっくりと映った。遅れて目の前で倒れたオリヴィアを男が受け止めようとしていることに気付く。カッと頭が沸騰した。彼女に何をした?なぜ彼女は倒れている。自分でもぞっとするような低い声が意識する間もなく放たれた。
「人の婚約者に何をしている」
沸きあがる怒りを抑えもせずつかつかと男に歩み寄ると、男の腕からひったくるように彼女を取り戻す。横抱きに抱えあげると彼女は力なくその手足をだらりと投げ出した。
「婚約者様のご登場ですか。早かったですね。なに、ちょっと彼女と話をしていただけですよ。昔のよしみで」
何が昔のよしみだ。オリヴィアの声は明らかに怯えていたし、はっきりと嫌がる声が聞こえたのだ。殴りかかりたい衝動をなんとか堪える。だが今はこの男とやり合うよりもオリヴィアの様子が気にかかった。着衣は乱れていない、外傷もないようだが、深く澄んだ碧の瞳は開かれる様子がない。意識を失っているようだ。
さっと彼女の全身に視線を走らせてその様子を確かめてから、目の前の男、イリストア卿を鋭くねめつけた。
「貴殿が非力な淑女にこのような事をされるとは、落ちたものですね」
「婚約者を一人で放っておくような薄情者にそう言われるのは心外ですね。言ったでしょう、彼女とは話をしていただけだと。何を勘違いしておられるのか知らないが、俺と彼女は良く知る仲でしてね。
彼女が婚約者がありながら一人でこんなところまで出てきたので慰めていたんですよ。
それより、貴公こそ爵位もない、財産もない……よくそれで彼女の婚約者を名乗れますね。いいですか、彼女に相応しいのは俺の方ですよ。覚えておかれるといい」
彼の言い方に腸が煮えくり返る。カイルはまだオリヴィアのことを舐めるように見ており、その視線で彼女を犯そうとでもするかのようだった。苛立ちがますます募る。こんな奴にこれ以上彼女を見せるわけにはいかない。
「貴殿が何と言おうと、この結婚は既に決まっている。貴殿の出る幕はない。今後一切彼女に関わらないで頂きたい」
そこまで言うと、フレッドはそれまでより一層鋭い目付きで相手を見据えた。視線だけで相手を射殺せそうなほど冷えたものだった。カイルが僅かに怯んだ。
フレッドはオリヴィアの婚約者として周りからも認識されている。この場で彼が意識のない彼女を抱えて訴えれば不利になるのは明らかにカイルの方であった。カイルもそれに思い至ったのであろう、それ以上カイルが何か言うことはなかった。
「次は容赦しない」
彼を殴れないのならばもうここに用はなかった。フレッドは、その一言を投げつけるとオリヴィアを抱いて静かに来た道を引き返した。
*
人目につかないよう慎重に控えの間を目指す。控えの間の前に立っていた王宮付きの騎士に、令嬢の気分がすぐれないため部屋を使用したいと申し入れると、辺りに人の気配がないことを確認してそっと中に入った。部屋の長椅子にオリヴィアを横たわらせる。未だ意識は戻らないようで、力の抜けた身体はフレッドの成すがままだった。
フレッドはオリヴィアを横たえた長椅子とは別の、向かいに置かれていた一人掛けのソファに腰掛けると、静かに胸を上下させるその人の様子をじっと見つめていた。今も胸の内にはあの男へのどす黒い怒りが渦巻いている。オリヴィアを抱いていなかったら、フレッドはあの場で拳をあの男に叩きつけ地面に跪かせていただろう。
あの男は、自分という婚約者がいながらそれをものともせずにオリヴィアに近づき、あろうことか彼女を気絶させた。その先に何を目論んでいたかは想像が付く。
フレッドがあともう少し遅ければ、今頃オリヴィアはあの男に奪われていたかもしれなかった。ソファの肘掛けに乗せた右腕の先で指がトントンとせわしなくソファを叩いた。
いや、そうじゃないとそこで思い直す。
フレッドがあともう少し早ければ、彼女がこのような姿を晒すことはなかった筈である。自分があの場に着いたときに丁度彼女が倒れたのだ。フレッドがもう少し早くあの場にいたなら彼女を害されることはなかった。いや、もっと前、自分が彼女を離さなければ、あの男が近づくこともなかったのだ。二人でダンスを踊った後、これ以上オリヴィアを見詰めれば抱き寄せたくなる衝動に抗えなくなる、と半ば突き放すような態度をとった己をフレッドは呪った。
手に入らないものを求めようとする辛さから目を逸らしたから、このような結果になったのだ。
だがあの男に言われるまでもなく、このまま結婚したとしても彼女を守れるかどうか心許ないのは確かだ。あの男はそこを容赦なく突いてきた。爵位も財産も継ぐ予定はない。これまでは次男の気軽さで、法廷弁護士として生きていけば良いとだけ考えていたが、そこに彼女を巻き込むのが良いのかどうか。親同士の思惑があって決まったこととはいえ、それが彼女自身にとって最善なのか。
本当に、このまま結婚して良いのか。
静かに眠るオリヴィアの、穏やかでいっそあどけなくも見える寝顔を見つめながら、フレッドは一人長い間考え込んでいた。