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11. 近くて遠い1

 人々のさざめく気配は馬車を降りた瞬間から伝わって来た。思い思いに着飾ったご婦人達が、エスコートをする紳士達の差し出す手を取り吸い込まれるように王宮に入っていく。中からは既に軽やかな音楽が秋の乾いた空気に乗って聞こえてきていた。

 オリヴィアもフレッドと共に舞踏会の会場である王宮の広間に入る。国王以下王族への拝謁を終えた後二人で最初の一曲を踊った。


 その流れは収穫を祝う催しであってもシーズン中と変わらない筈なのに、オリヴィアには今日のフレッドがいつもと何か違うような気がして、ダンスの間も落ち着かなかった。

 思い返せば、今日は迎えに来てくれた時から彼は変だった。いつも流れるような仕草でオリヴィアの手を取り、唇を寄せてお決まりの挨拶をするのに、今日はオリヴィアの姿を見るや、一瞬目を瞠ってから眩しそうに目を細めてじっと見詰めてきたのである。


 今日のオリヴィアの装いは、白に近い薄いクリーム色のサテン地に銀に煌めくビーズの刺繍が細かくびっしりと施されたドレスと、同色の宝石を散りばめたパヴェイヤリングだ。まるで冬の夜に冴え冴えと輝く月の光のような色合いである。

 碧の瞳はさながら月光に照らされた深い森といったところか。

 昨日泣いてしまった目の周りが腫れぼったくなっているのがなかなか引かず、いつもより心持ち濃い目に化粧を施して何とか誤魔化して貰っているが、それが却って彼女を大人びた雰囲気に見せていた。

 それに今日は張り切った侍女達に甲斐甲斐しく世話をされて朝から入浴し、丹念に隅々まで身体を磨き上げ、ユリの花の香油を滑らかな肌に擦り込んでいる。そのお蔭か、オリヴィアの肌は内側から発光するようだと侍女には絶賛されたのだが。

 似合わなかっただろうか、何か不興を買うようなことをしただろうか、とフレッドの視線に狼狽える。だが、前日のマルヴェラの言葉を思い出してぐっと踏み止まり、彼の視線を受け止めた。束の間声も無く見つめ合った二人の、視線を先に逸らしたのはフレッドで、これもそれまでにないことだった。


 今もそうだ。触れられるのを嫌がるオリヴィアに配慮して遠慮がちにホールドを取るのはこれまでと同じだが、何度も視線が絡む。居た堪れなくて俯きたくなるが、それではいけないと同じように見詰め返せばふっと視線を外されるのだ。

 何か怒らせてしまっているのだろうか、不安が募ってくる。先日のお詫びとお礼は迎えに来てくれた時にも伝えたが、やはりそれでは不充分だったのかもしれない。それとも御礼にと贈ったハンカチが押し付けがましかったのかもしれない。そもそもあの日の散策は彼には楽しくなかったのかもしれない。そうだ、考えてみれば楽しかった筈がないのだ。彼はオリヴィアを気遣って花を贈ってくれたのだろうが、手間ばかり掛けて、散策を台無しにしてしまったのはオリヴィア自身である。


 ずんと心が重く沈んで行くのを止められなくて、流石にフレッドの視線を受け止めるのが辛くなる。堪らず目を伏せると、フレッドの声が頭上からふわりと降ってきた。


 「泣いた?」

 「……!」


 えっ、と反射的に顔を上げる。割と念入りに仕上がりをチェックして、これならわからないだろうと安心していたのに気付かれてしまった。と、同時にそれでフレッドが何度も自分を見ていたのだろうかとオリヴィアなりに腑に落ちた。ふっと心が浮上する。


 「……わかってしまいました?」

 「うん、最初は気付かなかったけどね。どうした?泣かされた?」

 「泣かされただなんて。子供みたいですわ」


 その言い方にこそ泣きそうになって、顔を歪めて笑う。


 「……でも、そうですね。おばに、あ、正確には父の従姉なんですけど、そのおばに泣かされました」


 少し笑いを含めて言うと、フレッドも軽く笑った。


 「どうした?」


 フレッドが同じ問いを繰り返した。その声が思いの外柔らかいものに聞こえて、オリヴィアの心がとくんと跳ねた。


 昨日、マルヴェラに胸の内を明かして少し心が落ち着いたと思う。自分が何故苦しかったのか、マルヴェラに話して初めて気付いたのだった。

 自分の心が見えなくなっているのなら、見えるようにしよう。周りに惑わされることのないように、己で見て、己で聴いて、己で感じたことを受け入れよう。きっとそれが自分にとっての真実だから。その後のことはそれからだ。

 そう思えるようになって、ここのところざわざわしていた気分がいくらか軽くなったのだった。


 「おばとじっくり話して……、心の整理がついたというか。とにかくすっきりしました」

 「そう、それなら僕の出番はなさそうだ」


 フレッドがどこか残念そうに笑ったとき、一曲目のワルツが終わった。フレッドがオリヴィアに添えていた手を放す。

 そのまま礼をすると、行っていいよ、とフレッドが促した。


 あれ、と拍子抜けした。いつもはオリヴィアの方から、では、とその場を辞すくせに、今夜はフレッドからそうされて、何だか突き放されたように感じたのは気のせいだろうか。

 やっぱり彼には他に踊りたい相手がいるんじゃないか──。

 フレッドに向き合おうと決めた所なのに、当の本人に拒絶された気がして、心が挫けた。


 親に置いて行かれた幼子みたいな心細さをどうすることも出来ず、たっぷり逡巡してから、また後で話をする機会はあるはずと自分を宥める。

 結局、囁くような声で、ではまた後ほど、とオリヴィアは背を向けたが、その彼女の後ろ姿をフレッドが苦しげな表情で見ていたことには気付かなかった。





 今日も「指定席」だわ、とオリヴィアは心の中で自嘲気味に笑って広間の隅の方へ退いた。ぼんやりと眺める広間では、年に一度の盛大な催しの為に常よりも沢山の人々が集まっていて、ダンスを楽しんだり思い思いに会話を弾ませたりしている。

 これまではこの場所が一番心の落ち着く場所だった。此処にいれば例え何かを訴えるような眼差しを向けられても、そっとそれを遮るように扇を持てば、話しかけられることも、ダンスに誘われることもぐっと少なくなる。特にフレッドという婚約者ができてからは、敢えて彼女を誘おうという者はおらず、オリヴィアはこれも婚約のお陰かとフレッドには内心で感謝していた程である。

 だというのに、今は当の本人に放って置かれたような気分になって気が塞いだ。


 広間で踊る人々の中にフレッドが何処かの令嬢と踊っている姿が見えて、慌てて視線を他所へ移した。遠目にちらりと見ただけであるし、女性はこちらを背にしていたので誰かまではわからない。

だが、ついさっき別れた時のフレッドの様子も相まって、オリヴィアの心は否応なく萎れた。


 オリヴィアは今見たフレッド達の姿を頭から追いやるように、その場から逃げるように、ふらりとテラスの方へ足を向けた。









 十一月の午後の柔らかな陽光は、少し冷んやりとはしているが穏やかな風を連れて来て、オリヴィアの頬を撫でて行く。テラスにセットされている椅子に腰掛けてオリヴィアはその空気を深く吸い込んだ。冬になるのだな、と思う。今日フレッドと別れたら、次に会うのは年が明けてからになるだろう。暫く会えなくなる。

 やはり、後でフレッドにきちんと聞いてみよう。マルヴェラが言ったように自分はあの人の妻になるのだから、噂のことを訊いてもおかしくはないと思う。愛人を置いても良いと言ったのは自分なのだから、知っておいても良い筈だ。先ほどは何も言えなかったが、このままもやもやとしたものを抱えて領地に帰る気にはなれなかった。

 そうだ、訊いてみればいい。簡単なことだ。


 重かった胸が少しだけ軽くなった気がして、腰を上げる。そのまま秋の風に誘われるようにテラスから王宮の庭へ足を踏み入れた。

 冬も近い季節の庭にはもはやあまり華やかな花は咲いていない。だが、ブルーサルビアやゼラニウムがその広い庭を彩る様に慰められる。

 そのまま花々に導かれるように足を進めていたが、所々に設けられたガゼボでは想いを添わせる男女が寄り添い語らっていて、オリヴィアは不意に居た堪れない気分になってきた。

 そういえば、昼間とはいえ徐々に陽の傾き始めた時間に、このように庭の奥まで出て来たのはあまり賢明ではないことだった。先ほどは反射的に広間から出て来てしまったが、婚約者のいる身でありながら、一人こんな所へ来てしまっては誰か別の殿方を誘っているとも取られかねない。すぐに戻ろう、そう決めて踵を返した時。



 カツカツと音を響かせて誰かの気配が近づいて来た。



 足音は一人だけ、それもドレスが衣摺れする音は聞こえない重たい靴音。男性のものだ。

 オリヴィアは身を竦ませた。男性が一人で庭に出てくるとはどういう事か。まさか、まだ陽のある時間だ、良識のある紳士ならばすべきでないことの弁えはあるだろう。

 だけど。

 広間に早く戻らなければ、だが、広間に続く道を行けば間違いなくその靴音の主と行き合う。かと言って奥へ逃げれば余計に追い込まれるだけだ。迂闊だった。こんな事にならないよう、いつも細心の注意を払っていたのに、今日に限って。

 怖い、怖い。

 恐怖が喉元までせり上がり、どうにかしなければと思うのに身体が思うように動かない。足が竦む。誰か、誰か──。


 「丁度良かった、オリヴィア嬢。こんな所にいらっしゃるとは。貴女と二人でお話したいと前々から思っていたのですよ」

 「……お久しぶりです、イリストア卿」


 それは、過去にオリヴィアに求婚した男だった。





 逃げられないのならば、毅然と退けるしかない。オリヴィアは恐怖を頭から追いやり、努めていつもの様子で挨拶をする。手を差し出すべきか一瞬迷って、でも相手を刺激するのは良くないと思い直して手を差し出した。

 イリストア子爵であるカイルが、差し出した手を取り唇を寄せた。


 「つれない方ですね、貴女は。求婚の手紙にも断りの一言だけ。社交界でお会いしても視線すら向けて下さらない。俺が貴女を見ていたことに気付いていたのでしょう?挙句、いつの間にか婚約したなど」


 オリヴィアはじっとりと嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。カイルの手がオリヴィアの手を握ったまま放さないのだ。やはり手を差し出すのではなかった。


 「あの、手を放して頂けますか。婚約者のいる身ですので」

 「アルバーン卿の次男でしたかね……、何故彼と婚約したのです?彼には爵位がない。貴女に相応しいとは思えませんね」

 「貴方には関係のないことですわ」


 オリヴィアは静かにカイルを睨み付けるが、それを受け止めたカイルは軽く笑った。その表情は昏い。手を放そうと引っ張るのだが、強く握られていて叶わなかった。


 「俺には爵位もある。それに将来受け継ぐ伯爵位なら貴女にも釣り合う筈だ。貴女も後悔しているのではないですか?今ならまだ考え直す時間はありますよ」

 「考え直すつもりはありませんわ。それにこの結婚は父が決めた事です。私は従うだけですわ。私に仰るのは筋が違うのではなくて?」

 「ならば尚更、力尽くで貴女をこちらに向かせるだけだ」


 ひっ、と声にならない悲鳴が漏れた。カイルが掴んでいた手をぐいと引っ張ったのだ。カイルが愉快そうな声を上げた。その瞳には明らかな色欲が映っていた。


 「休憩室にでも行きましょうか。そこに婚約者様以外の男と二人で居たと人に知れたらどうなるかな?」

 「誰が行くものですか。貴方こそ、嫌がる女性を無理やり連れて行く所を誰かに見られたら終わりですわよ」


 こういった舞踏会などの場では必ず休憩室と称した控えの間が用意されている。そこは気分の悪くなった令嬢などが休息するために設けられた場所だが、実際のところ一時の熱情を交し合う場としてこっそり利用する男女も多く、カイルもまた同じ意味で連れ込もうとしていることは明らかだった。一度連れ込まれれば逃げ場はない。例え連れ込まれなくても、このまま此処で陽が暮れてしまえば同じだ。暗がりに乗じて何をされるか。

 よしんば純潔は守られたとしても、婚約者の居る身で別の男性と二人で居たと知られるだけで社交界では充分醜聞になり得るのだ。

 手に入れたいものがあると人はここまで卑劣になれるのか、と絶望の足音が近づくのを聞きながら、それでも何とかこの場を切り抜けようとオリヴィアは必死に抗った。

 対するカイルはさも面白いとばかりにニヤニヤ笑いながら戯れかのように逃げようとするオリヴィアの手をぐいぐいと引き寄せる。

 前にもあった。あの時はまだ少女と言える歳だった。相手は誰かもわからなかった。だけど、あの時の、痕が残るほどの力で掴まれた手の感触も、押し倒された背中が地面に当たった痛みも、ドレスを引き裂かれた音も、未だに鮮明に残っている。


 「そうかな?皆きっとこの状況を面白がって噂するだけですよ。貴女が嫌がっているかどうかなど、どうでもいいことですからね……。それが社交界というものでしょう?この時を待っていましたよ。貴女はこれまでなかなか隙を見せませんでしたからね」

 「いや、やめて。放して」


 カイルが遊びは終わりだと言わんばかりに、それまでよりも一際強い力でオリヴィアの手を引っ張った。二人の影が重なり始め、力で敵うわけもないオリヴィアがよろめいたその瞬間。


 ドスッと鳩尾に衝撃が走って、オリヴィアの意識は急速に暗闇に飲み込まれていった。


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