10. 本当の貴方は2
招待された客が全て帰るのを見計らって見送りに出たマルヴェラの許へ歩み寄ると、マルヴェラがふんわりと微笑んだ。
「ちょっとゆっくりしましょうか」
仕切り直しとばかりにもう一度サロンへ促される。公爵家の侍女が改めてワゴンにティーセットを載せて運んできた。
「疲れたのではない?」
マルヴェラは自身もソファに腰掛けながら、オリヴィアにも座るよう勧めた。オリヴィアも彼女の向かいのソファに腰を降ろす。侍女が絶妙なタイミングでオリヴィアにティーカップを渡した。
「おば様にはお見通しですね」
「それは勿論よ。貴女は美しく、常に注目の的ですからね……良くも悪くも」
「目立ちたいわけではないのに」
オリヴィアは溜息をついた。本当に、あまり注目を浴びるのは苦手だ。一挙手一投足を見張られているみたいで疲弊する。
本当は社交界も苦手だ。誰も彼もが、笑みの下に本音を隠して、自分以外の誰かを蹴落とす機会を窺っている。その中を生き残るのは、綱の上を渡るのと同じ感覚だ。一歩間違えば呆気なく転落する。
正に、あの令嬢達から見ればまさしくオリヴィアは転落したのだろう、社交界という舞台の上から。
マルヴェラがくすくすと笑う。
「本当の貴女はこんなに欲がないのにね……。さっきは助けてあげられなくてごめんなさいね。あの場で貴女を庇う訳にはいかないから」
「いいえ、おば様。大丈夫よ。あれ位言われることは覚悟の上で来たのだもの。おば様のお陰で思ったよりも軽かったわ」
「そう言ってくれると少しは気が楽になるわ。実際、今日はまだマシだったのだと思うわよ。明日はもっとあからさまになるでしょう。明日は参加するのでしょう?覚悟なさい」
マルヴェラが茶目っ気のある表情でオリヴィアを諭した。このおばに言われると、同じ内容でも構えずに受け取れる。そうですね、と答えてカップを口に付ける。このほんのりと甘い芳香はマルヴェラのお気に入りのものだ。オリヴィアが訪ねる時、彼女はいつもこの紅茶を出してくれる。いつしかこの香りはオリヴィアにとっても心を落ち着かせてくれる香りとなっていた。
明日は、午餐の後の舞踏会から参加することになっている。エスコートはこれまで通りフレッドの予定である。フレッドとは領地で別れて以来の再会だった。
先日届いた花とカードに、オリヴィアは初めて返事をしたためた。体調を崩してしまったことを詫びる言葉と、あの日のお礼を。花を届けてくれたフレッドに、カードだけを返すのも忍びなくて、どうせ暇なんだからと半ば自分に言い訳をしながら絹のハンカチにフレッドの名を刺繍してカードに添えたのだった。フレッドに届けるよう伝えて使用人に渡してしまってから、押し付けがましいことをしでかしたのではないかと早くも後悔したのはここだけの話である。
「でもねえ……本当に彼で良いの?」
マルヴェラも令嬢達と同じことを考えているのだろう。だがマルヴェラの言い方が心からオリヴィアを心配しているものだったので、オリヴィアは自分の正直な気持ちを吐露した。
「正直なところ……私にもわからないの。出会いはあまり良いものではなかったし、全て父がお膳立てを済ませた後に引き合わされていつもみたいに断る余地もなくて。
貴族の娘として、政略結婚も、それが本人の同意なしに親たちの間で進められることも、わかっていたつもりだったけど、いざ自分に振りかかるとどうして良いかわからなくて。心が付いていかないまま、日取りだけが決まってしまって……」
気付かぬうちに心に溜めてしまっていた澱を流すように言い連ねるにつれて、眉が下がっていった。マルヴェラはそんなオリヴィアに口を挟むことなくただ静かに聴いてくれていた。
「それに、父がどうして彼を相手に決めたのかがわからないの。彼に不足があるという意味ではなくて、私が爵位に拘っているというのでもなくて……。ただ、これまでにも求婚は色々な家からされていたし、その中にはたとえ私が首を振っても家にとっては利のある話もあったと思うの。なのに、父はこれまではそれらを私の意志のままに退けたのに、今回はどうして父の方からフレッド様に決めたのかしらと」
自分の抱えているものを一息に吐き出してから、オリヴィアは溜息のように零した。
「この結婚を喜べばいいのか、悲しめばいいのか……良くわからなくて」
二人の結婚によりフリークスの家が安泰だと、あるいはアルバーン伯爵家との繋がりによって得られるものがあるのなら、そしてそれが明確で自分にも納得できるものであれば。そうであれば、自分のことはさておき、家の役に立てたと、いずれ弟が継ぐときのために自分も存在する意義があったのだと、喜べただろう。
一方で悲しむべきものなのだと言われたなら。確かに自分が望んだ訳ではない相手との結婚で、それも出会いは最悪だった。結婚相手は女性に対して誠実でなさそうな第一印象だった。
だけど今、彼で良いのかと聞かれるとオリヴィアにはわからなくなっていた。
望んだ相手ではないけれど、彼は白い結婚を了承してくれた。その言葉の通り、オリヴィアに触れるのは必要に迫られた時だけにしてくれた。それも必ず一言前置きしてから触れるようにしてくれている。
でもその結婚が誰の為にあるのかは明かされないまま。政略結婚の筈なのに、一見誰の得にもならない。だからこのまま結婚して良いか、オリヴィアの胸の内には常に不安がちらついていた。
二人の間に沈黙が落ちる。表情を翳らせて俯く従弟の娘の様子に、マルヴェラもしばらく考える素振りを見せた。
そのまま二人とも黙ってお茶を飲む。どれほど経ったか……、マルヴェラが不意にぽつりと呟いた。
「貴女はいつも毅然としていたのに、もしかして自分を見失ってしまっているのかしらね……?」
そうなのだ、オリヴィアはこれまでははっきりと自分の望みがわかっていた。欲しいものなどない、ただ自分を取り囲む小さな世界を守ろうと必死で、守っているだけで良かったのだ。なのに、唐突に自分の世界に現れた第三者は、自分が必死で守っていた世界を揺さぶってきているような感覚がする。だからオリヴィアは何を守りどう対処すれば良いのかわからなくて、迷子のように心許なかった。俯いたまま、力なく小声で返した。
「そうなのかもしれません……」
「じゃあ貴女は、フレッド様御自身のことはどう思っているの?」
マルヴェラの声は柔らかく、温かくオリヴィアの心に沁みていく。何故だか胸が詰まった。
「私、男の人が怖いんです、おば様……。殿方はいつも私のことを同じように見るの。私の身体を舐め回すように見て、意味ありげな視線を向ける。すぐに二人きりになろうと暗がりに誘って。……どうして放っておいてくれないんでしょう。
フレッド様も同じ。きっと同じだわ。出会ったときも……」
流石に、男の人を怖いと思うきっかけが父だとはマルヴェラには言えなかったが、これまで誰にも言えずに一人で抱えていたことを打ち明けた途端、流れるように思いが溢れ出る。
「でも、今はフレッド様のことがわからなくて。今もどこかのご令嬢からお誘いを受けておられるようだとさっき皆様が仰っていました。だから、フレッド様もきっと他の殿方と同じなんでしょう。でも、フレッド様とお話をする内に、もしかしてあの方は他の方と違うのかもと思い始めたりもしてたから……。どちらが本当なのかわからないの」
「オリヴィア、貴女……」
マルヴェラが驚きに目を瞠った。どうしてそんな顔をされるのかオリヴィアには見当もつかなかった。束の間マルヴェラはそのままだったが、徐々にその表情が柔らかく崩れていく。そうしてふわり、とオリヴィアに向かって微笑んだ。
「いい、オリヴィア。貴女の目に映る、貴女の目の前の彼と向き合いなさい。噂など貴女はこれまで気にも留めなかったでしょう?
それでも気になるのなら、きちんと彼にぶつけなさい。貴女の結婚相手なんだもの。貴女にはその権利があるわ」
オリヴィアは顔を上げてマルヴェラを見つめた。マルヴェラが優しく諭すように言った。悲しいわけでもないのに、何故かその言葉はオリヴィアの心の奥底を揺さぶり、瞳を潤ませていく。それらは次々とオリヴィアの頬に零れ落ちた。
「結論はそれからでいいのよ。ゆっくりでいい。貴女の心が定まるまで、時間を掛けて彼と向き合って御覧なさい」