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1. 碧の瞳


 後から思えば、きっと初めて出逢ったその時から、心は傾ぎ始めていたのだと思う。

 

 広間に流れる音楽も、人々のざわめきも、何もかもが遠のいた瞬間。

 貴方の、その視線に捉えられた瞬間。


 確かにその瞬間、頑なだった心の中で、何かが、動いたのだと思う。









 彼女の瞳の形は切れ長ながら大きく、その虹彩は深い森のような色合いの何とも形容し難い複雑な色味をしたみどり色をしていた。太陽の光を受けて森の木々が様々に葉の色を煌めかせるように、彼女の瞳もまた光の加減によってその濃淡を変え、不思議な色彩を放っていた。この国では珍しい色の瞳だった。

 その瞳は見る者をたちまち魅了して離さなくなるのだとある人は言った。その瞳を一度視界に入れた者は讃えずにはいられなくなる、と別の人は言った。そして、その瞳に出会ったことを忘れられなくなるのだ、と。


 社交界にデビューするや否や数多の殿方達を魅了したその瞳の持ち主はしかし、王都にある屋敷の自室の姿見に映る自身に胡乱な視線を投げて心の中で盛大なため息をついていた。


 「オリヴィア様、大丈夫ですか?」


 姿見の前に立つ彼女の後ろでコルセットを締めていた侍女が不安気に尋ねた。大方、オリヴィアの浮かない表情をコルセットで過剰に締め付けたからではと危惧したのだろう。


 「大丈夫よ、エマ。続けて」


 はい、と侍女は手際良くドレスを着付けていく。遠い海を思わせる濃紺のドレスはレースもフリルもないが、裾にかけて緩やかに広がるラインのもので、光を反射すると微妙に色を変えてキラキラと煌めく様は、さながら陽の光が踊る海面のようだ。きっとシャンデリアの光の下ではより一層映えるだろう。

 夜会用のドレスらしくデコルテの部分は大きくくれており、そこだけは存在を感じさせないほど薄い同色のシフォン生地で縁取られていて、染みひとつない滑らかな白い肌からちらと胸元が覗いている。装飾の殆ど無い、そのシンプルなドレスは碧の瞳を引き立て、ますます彼女を神秘的に見せていた。


 結い上げた髪は艶やかなダークブラウンで、下ろせば腰の少し上くらいになる。先端は自然に緩くカールしており、背中で波打つそれは侍女達がいつも髪を結う度に感嘆の声を漏らすのだった。その髪も今は複雑に編み込まれ、結い上げてあるため、陶器のように白い首筋が露わになっている。


 オリヴィアは結い上げた髪に飾りを付けようか迷って、結局付けないことにする。昔から、華美な装飾が苦手だった。

 フリルやレースも苦手だ。きらきらしい装いも。そういったものは自分には似合わない気がして、いつも素っ気ないほどシンプルなものばかりを選んだ。今日も同じ。遠目にはただ光が波打っているだけに見えるだろう繊細な刺繍だけがこの日の装飾だ。エマなどはもっとオリヴィアを着飾らせたいようだが、オリヴィアはこれぐらいでちょうど良かった。


 オリヴィアは先日十八歳になったところだ。透けるような白い肌と整った顔立ち、そして今は亡き母親譲りの深い碧の輝きを放つ瞳。オリヴィアは十六歳で社交界にデビューしてすぐ数多くの男性を魅了した。家柄も悪くない。どころかこの国、アルディスでは通常の伯爵より一段高い爵位である、フリークス辺境伯の娘である。


 辺境伯の名が示すように領地は王都から離れてはいるが、フリークス家の領地は豊穣な恵みをもたらすユナイ川を挟んで隣国と境を接しており、国内の食糧生産においてその多くを担う地であると共に、国防という意味でもまた重要な地点であった。辺境という言葉から受ける寂れた印象とは真逆の、国内ではかなり上位に位置する名家である。オリヴィアはその辺境伯の長女であるが、後継は今年十四歳になる弟のアランである。その弟は今年から寄宿学校に通い始めたため、長期休暇の時だけしか顔を合わせることはなかった。


 フリークス家との繋がりを得られるだけでなく、本人自身の神秘的な印象を与える美貌も相まって、オリヴィアが舞踏会や夜会に出席すれば必ずと言って良いほど熱のこもった視線に晒された。ダンスの誘いは言わずもがなである。だがオリヴィア自身にはそれが耐え難い苦痛であった。


 オリヴィアにとって異性の視線は決して喜ばしいものでも、胸を躍らせるものでもない、どころか嫌悪の対象ですらあった。上級貴族の娘である以上、いずれはどこかの貴族家に嫁ぎ、女性としての役割を果たすべきであることは理解しているし、だからこそ表面上はそのような嫌悪はおくびにも出さない。いずれ弟が家督を継いだらそれこそ自分がこの家に留まっていては邪魔になるということも理解している。

しかし、いくらそれが自分の務めであり義務であっても、進んでやれるかというとそうではなかった。父親に必ず出席するよう命じられた、今夜の夜会も。



 ほう、とエマが感嘆のため息をつき、出来ました、と告げた。オリヴィアは物思いから現実に引き戻される。


 最後にエメラルドの耳飾りを付ける。エメラルドはオリヴィアの瞳の色のようで、でもよく見ると少し違う。オリヴィアの瞳はエメラルドの緑よりも深く吸い込まれるようで、石の色で表現するのは難しかった。だが、母の形見であるエメラルドの耳飾りはオリヴィアのお気に入りだ。

 エマが差し出した踵の高い靴に足を入れて、オリヴィアはもう一度口をついて出そうになったため息を飲み込んだ。









 四月から本格化したその年の社交シーズンも七月を過ぎあと一ヶ月程度を残すところとなった。その日の夜会も、オリヴィアにとってはいつもと変わらず苦行に近かった。しかも、普段領地から出ることの少ない父親が自らエスコートをしている。今夜は王族主催の夜会だからだろうか、オリヴィアを逃すまいとするかのようだ。

 オリヴィアとてどんなに心の内で拒否していても、自身の立場を承知している。これまでも逃げたことはないというのに。


 それでも、と思う。父親にエスコートされるのだけは勘弁して欲しかった。いつもはエスコート役を従兄が引き受けてくれるのに。オリヴィアが嫌悪感を抱かずに接することができる異性はこの従兄と弟だけだと言っても良い。この二人は幼いころから知っているからかもしれなかった。誰にも打ち明けたことはないが、屋敷の執事や従僕などの使用人についても古参の者以外にはあまり積極的に接点を持たないようにしている。


 この時期は毎年フリークスの領地では夏の長雨の影響でユナイ川が氾濫する恐れが常にある。他国との境界をその川に置いているため、川の氾濫時は両国から人手を出さなければならないし、そこでどちらが主導権を握るかは外交上においても小さくない影響を及ぼす。

 勿論国境付近には国王軍が駐屯しており、緊急時の一次対応は国王軍が指揮権を握っているのだが、二次的な被害、たとえば領民の避難場所の確保や、避難民への食料の配給などについては辺境伯である父が指揮を取らなければならない。

 そのため父親は領地を度々離れるわけにはいかないと、この時期に王都まで来ること自体が少なかった。また来たとしても国王やその側近と国防に関する話を済ませるとすぐに領地に戻る人であったから、エスコートの機会がそれほどあったわけではない。


  それが、どうして今日は父親なのだろう。よりによって、自分が異性を嫌悪するきっかけとなった人など。

 そして、今も最も嫌悪している人物になどにエスコートされるのは堪らなく苦痛だった。


 それでも内心の嫌悪感はいつも通り貴族の令嬢らしい穏やかな笑みの下に隠して、オリヴィアは父親に連れられるまま国王を初めとしたあちこちへと挨拶へ回る。もうそろそろ解放して欲しい、と小さな不満が泡のように心の底から浮かび上がる頃、漸く父親の許しが出た。


 「私は少しコーンウェル公と話があるから、お前はしばらく好きにしていなさい。ただし、先に帰らぬように。まだお前が挨拶をすべき相手がいるからな」

 「どなたでしょうか」

 「また後で紹介しよう。それまで待っていなさい」

 「……わかりました」


 コーンウェル公はアルディス国の宰相である。やはり父は夜会の場においても国防に関することで話があるらしい。

 まだこの場に残っていなければならない。そのことは不満だったものの、一時的にでも父親のそばを離れることができて、オリヴィアはやっとひと息つくことができた。


 目の前では軽やかな音楽に合わせて、沢山の男女がダンスを楽しんでいる。その様子をそっと壁際に移動しながら眺める。

ダンスが嫌いなわけではない。むしろ踊るという行為は純粋に好きだし得意な方ではある。だが、踊っている間、異性の視線──頭の天辺から爪先までを舐め回すようなものや、明らかに含みのある熱を孕んだもの──、に晒されるのに吐き気がしてしまうので、デビュー以来このような場で踊るのは必要最低限しかなかった。誘われれば淑女の礼儀として断りはしない。だが、ステップを踏む間はそのことにだけ集中し、他の令嬢のように殿方との会話を楽しんだり、あるいは眼差しで通じたり、ということはしなかった。一見、礼儀正しく爽やかな紳士が、その眼にちらと見せる色が怖かった。

 そのためか、今ではすっかりオリヴィアはダンス嫌いだと思われている。デビューの頃よりだいぶダンスに誘われることも少なくなった。本当ならこのような場に出ることも苦痛であるオリヴィアからすれば、ありがたいことだった。


 それでも今夜も、あちこちから視線を感じる。それが自意識過剰でないと判るのは、その視線の持ち主の隣にいる令嬢もまた、こちらに視線を向けているからである。もちろんそれは男の視線とは意味が違う、明らかに敵意を抱いたものだ。

 オリヴィアはそのどちらの視線にも疲弊していた。何故視線はこうも色を容易く含むのだろう。

 そしてきっと、結婚してしまえば夫はオリヴィアのことを同じように扱うのだろう。父が、母にしたように。


 思考が嫌な記憶を辿りそうになって、慌ててそれを振り払う。一呼吸おいてから再び目を開けた。



 その時、どこからかそれまで感じたことのない、強く射抜くような視線に全身がびくりと硬直した。


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