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バニラと叫べ、愛を叫べ

作者: 香月春

届かない思いとか、言えない言葉とかそういうものはいったいどこへ行ってしまうのだろう。

その人の中で消化しきれなかったものが、心とか脳とか不可解なものの奥底から、マグマが吹き出してくるように止まらなく溢れてくるのに、私の中に突如現れたガラス戸というものが邪魔をする。

今までそんなものが存在するとは知らなかった。遅刻の言い訳や友達への弁解、好きな漫画の話なら淀みなく特に何か考えるわけでもなく歌の最後に繰り返される「ら」の羅列のように発せられるというのに。

透明だからこそ残酷で儚さが増す。見えるのに何もできない、聞こえるのに掴めない。確かにそこにあると誰もが自覚しているものは、誰かがそこにはないと言い切った時点でこの世界には存在しなくなる。


らららら。

らららら。

突然犬が襲いかかってきたんです、びっくりして飼い主さんも困ったわねえごめんなさいねえって感じで。場所ですか?中町の公園の向かいですよ、この時間ってやっぱり朝散歩してる方が多くて。私も今日初めて気づいたんですよ、意外にいっぱいいてえーーって感じでした…

するすると流れていく文章は、嘘と事実を適度な割合で無意識に組み合わせたものだということを後に知る。嘘はリアルを含めた方がばれにくいというのは好きだった小説の一編で知った。


私がこの世界で伝えることができない言葉なんてたくさんあった。

部活で同級生の輪に入る。この世代の女ってどうしてこんなに喋りたがるのだろうと思う。まくしたて、聞いて聞いてあのね、今日ねって言ったことが聞いてる聴衆みんながおもしろーいって言うとでも思ってるのか。

あのね、今日ね、英語のテスト、うんTOEIC返ってきたでしょ、700取れなかったぁていう自慢を聞くために私たちは招集されたのか。

でもそんなこと言わない。言えない。オンナノコの学生社会は複雑なのだ。聞いてほしい話があるやつの話は笑顔で聞かなきゃならないし、悩みがあるといって惚気を聞かされてもうんうんと相槌をうたねばならない。

みんなが聞いてほしいのであれば、聞き役に徹し、すでに答えが出てしまっている彼女の背中を押し、ありがとう助かったよーなんて言われる。

彼女たちは私で互いに答え合わせをしている。数学の定期テストを解いて不安になる。できなかったら追試。だから私たちは見えないところで確認しあう。同調しあう。一緒じゃなきゃ、やだ。あっているときも、間違えるときも、私たちは一緒。

できなくても、例え追試になってしまってもひとりじゃないから。例え相談の答えが間違っていても、例え彼氏と喧嘩してしまっても、私たちはその男の言動を少々面白おかしく盛り付けて、教室の片隅や夕方のファーストフード店なんかでネタにして笑えばいい。スターバックスはそんな愚痴大会には似合わない。スタバに行く時はもっと実りそうな片思いを話して、それならいけるよ、大丈夫だよ、って頬を赤らめながらその恋をしているオンナノコっていう雰囲気に浸っていたい。


意味もない、思考の回らない、朝8時11分だった。大学の1限ににギリギリ間に合うこの時間の電車に私たちは柔軟なテトリスのように体を密着させ、乗り換えの駅まで運ばれる。そんな時に考えることなんて数年後思い返してみれば笑い転げてしまえるぐらいに浅はかなものである。中二病じみた、くだらないこと。


わたしは、人間が、オンナノコが好きなのだろうか。

答えは、嫌いでもあり好きでもある、だ。考える前から答えなんて決まっているのに、私は毎朝電車の中で永遠に討論を繰り返す。覆ることのない二つの答えを、今日も悶々も模索して。


友達と言えば聞こえが良いかもしれないが、オンナノコは一度交わってしまえばみんなオトモダチである。

それが楽でもあり面倒でもある。背中には見えないお友達認定書が貼り付けられ、笑顔がその承認の証。

でも当然そのたった一度の機会を逃すオンナノコもいるわけで、そしたらよっぽど別の機会がない限り赤の他人として接することになる。

お友達認定書はオンナノコの心のよりどころみたいなものだ。たった一回の喧嘩で失われてしまうものであるが、そこはみんな心得ている。喧嘩なんて小学生みたいなこと、今更誰がしてやるか。

よく彼氏をとられた、もう最悪、友達だと思ってたのになんて言ってる女がいるけど、とられたんじゃない。元から彼は誰の所有物だと言うのだろう。

人の気持ちはどうしようもなく不安定で、行く川の流れに吉田兼好が例えたように儚い。わたしという川にいろんな感情が浮かんでは消え、消えてはまた生まれる。

恋心なんてその一つだし、それは今日牛丼が食べたいと思ってたけどやっぱりカレーが食べたくなったといってココイチに向かうようなものだと思う。



テトリス地獄から解放されると、真っ先に大学へのバス列に紛れた。誰もが後方の2人掛け席を狙うのに、私は群れから意識して抜け出した勇気ある子羊のように前方の1人掛け席に座った。1人で音楽を聴いて目を閉じるのに相棒はいらない。これで後はバスが大学に着くのを待てばいい。私の朝の一大イベント、これにて終了。

隣で軽いテトリス地獄バスバージョンを味わっている高校生カップルは朝から絶好調な様子だった。彼氏の方が彼女の手袋を取り上げてペシペシと顔に愛のパンチとやらを食らわせる。

ちょ、やめてよー。

基本文がそんな感じでも実際彼女の口から飛び出したのは「ちょっと~ぉ。やめてよう(>_<)」みたいな媚びたものだったことに耳を傾けるほど、今日の朝は余裕があった。

型の古いスマートフォンにイヤホンを突っ込み、青い鳥が羽ばたいているマークのアプリを開く。

何かを発散したくてたまらない、寂しがりやの集まり。言葉のキャッチボールが怖い人たちの心の叫び。

本当に言いたいことは言えないけど。

このアプリを開発した人は相当な寂しがりやかコミュ障か、人間味溢れた人なんだと思う。

私たちは暗闇に向かってひたすらに真っ白な野球ボールを投げる。誰かに届けたい。その向こうに何があるかわからない。でももしかしたらその不安定なボールを受け止めて返してくれる人がいるかもしれない。今のボールいいねって言ってくれる人がいるかもしれない。

まったく、現代人は面と向かってのコミュニケーションが苦手になってしまった。

でも自分がその一部であり、前へ前へ出るようなタイプではないことも、積極的に意見を言えるようなタイプではないことも自覚している。

鏡に映った自分はこんなにも濁っている。


バスがブレーキの衝撃で揺れた。

通路に立っていた同じ女性がとっさにそばにあった手すりを掴んだのが見えた。

「大丈夫ですかー?」

マイクを通して聞こえる運転手の声がバス中にこだました。

イヤホンは何らかの衝撃でバス内の乗客に聴かれてしまっても誰一人分からないような曲を紡ぎだしていた。男性声優の甘ったるい声が鼓膜を朝から揺らす。現実逃避。

二次元に関わる彼らに触れている時、私はこの世から影を薄めて違う世界に私の一部が溶け出しているように思える。

背の高いグラスに氷を入れて、その上から熱々のコーヒーを流し込む。コーヒーという異次元に私は同化していく。そのうち跡形もなく消え去ってしまうかもしれない。

三次元に私を引き止めるものなんてないかもしれないと思いはじめていた。

仲の良い家族も、親しくしてくれる友達も、打ち込める趣味も、楽しいサークルも、忙しくしているバイトも、3ヶ月前から付き合っている同い年の彼氏も、何一つとしと不足しているものはなかった。

じゃあ、どうしてなんだろう。

----まもなく、N大学前、N大学前です。お忘れ物がないかご確認ください。運賃は運賃入れか、ICカードのお客様は…


再び運転手の低音ボイスが流れる。低めの声は好きだけど、もう少し心を締め付けるような、私を誘惑してくるような声のが好み。


刺激が欲しかった。

いきなりプールの中に突き落とされて、もがいて焦るぐらいの緊張感と衝撃と、助けてくれる男性。(ただしイケメンに限る)

ドキドキさせられたい。

何もかもを私から奪って、私の中の栓を抜いて代わりに何か違うものでいっぱいにしてほしい。


ときめきがほしい。

そういうと大学の友達は彼氏がいるのにそんなこと言うんじゃないよ、と口をそろえた。

3ヶ月前、告白されて付き合った。子どもが好きで、笑顔が素敵で、真面目な人だった。優しくてとてもいい人で、いつも私のことを考えてくれて本当に本当にとてもいい人。きっと私とは釣り合わないぐらい良い人。

もっともっと、私をかき乱すような何かがほしい。

彼と付き合っている一方でそんなことを考えるのは不謹慎で、最低な女だろうか。

浮気をしようとなんて思ってない。

今の関係を壊すことが面倒くさいったらない。きっと別れても情が溢れて止まらない。ならこのぬるま湯に浸かったような彼氏との関係を私は、いろんな入浴剤を入れながら温め直していくという使命がある。

温め直した肉まんより、あつあつの蒸かしたての肉まんのが美味しく感じる。浮気ってその繰り返しのように思う。

冷めた肉まんほど美味しくないものはないし、温め直す気力がなかったらゴミ箱に捨てるだけ。もしくは、温めて食べたいって言う人に譲れば良いと思う。


だから、こんな自分が嫌だった。

私を一生懸命愛して、支えてくれて、わがままも聞いてくれるいい人に、刺激がないという理由で浮気まがいのことを考えるなんて。

学校が違う彼氏なら、なかなか会えないから会いたいって思えると思ってた。そんなことなかった。

熱しやすく冷めやすいのひとことで片付けてしまえばいいのかもしれない。


「おはよー」

重い足取りで階段を上り、スライド式のドアを開けたら友達の挨拶を耳が捉える。

「おはよー、」

本日大学での第一声。

彼女の携帯電話のロック画面は彼氏とのツーショットだった。誕生日にペアリングもらうの、と嬉しそうに先週話していたのを思い出す。

そういった時の彼女の目は三日月型にきゅっと丸くなって、頬を赤く染めて、女の私から見ても可愛かったんだから、その子の彼氏から見たら相当なものなのだろう。

あんな風に何もかも投げ出して夢中になれたら。恋に溺れる勇気なんて、私にはなかった。



「お待たせ」

「別に待ってないけど」

「いや、寒かっただろうなって思ってさ」

新車独特の匂いがする。それだけじゃない。彼自身の匂いもする。

「時間大丈夫?」

「間に合うでしょ、大丈夫だよ」

うん、とかそっかみたいな相槌を適当にうってから、車は走り出した。新車だった。

「今日、9時終わりなんだ」

「わかった。また連絡して」

「うん、そうするわ」

こんな私の素っ気ない返事にも、涼しい顔をする私の彼氏はきっと誰から見てもいい人だった。

私を塾のバイトへ送り届け、自分は喫茶店のバイトに向かう。家から近いバイト先でも彼は寒いだろうと思って、とここ最近は私を送り届けてくれるのだ。良い人だ。本当に私にはもったいないぐらいの。

安定感がある代わりに、刺激が何もない。

結婚に刺激なんていらないよ、と夜遅くに放送している恋愛ドラマで繰り返されたフレーズが時に頭によぎったとしても、私は刺激が欲しかった。

寂しさを埋めて、ただひたすらに相手を惹きつけようとするゲームは楽しくもあり、自分に普通の恋愛ができないことを改めて実感させた。

大して可愛くもない、性格が良いとも思えない、足の長さや胸の大きさに至っては中の下かもしれないこんな私に触れたいと思い、下心をひた隠しで近づいてくる男たちは乙女ゲームのいけてない攻略対象のようであったし、実に愚かだった。

それでも、よかった。むしろちょうどよかったのかもしれない。

こんないい顔彼氏も、実は早く童貞を卒業したくてうずうずして、私を家デートと偽って犯したいんだろう。

誰でもいいんだろう。

そうじゃなきゃ、私にここまで寛容にもならないし、もっと言えば何も考えてない頭の中に花も咲いてないような人。


ねぇ、キスマークってどうつけるの。やってよ。

そうやって興味津々の目を光らせて抱きしめられた時、彼は私のことなんか見ていなかった。


どこまで手、出していいの。

そうやって当たり前のように聞かれた時、目眩がした。彼は今まで何を聞いてきたのだろう。婚前交渉はやめてほしいって言わなかっただろうか。元彼のトラウマを話さなかっただろうか。

こんな十代のうちに体の交わりを伴う恋愛なんか覚えてどうするのだろう。


ほら、誰でもいいんじゃないかと彼の横顔に言ってみたくなる。

この大学生だけど童貞っていう焦りから一刻も早く解き放たれたいだけじゃないか。

私を大事にしてくれた男なんて今までいただろうか。



じっと見つめた先にさらさらの黒髪が蛍光灯に反射して光っていた。毎週火曜日のこの時間。この生徒。いつも甘いお菓子作りの香りがする。何も変わらない。ルーティーンワーク。

目の前の生徒が英語のワークを解く。空欄を少しずつ埋め、迷ってはまた埋めていく。

伏し目がちになった時にわかる睫毛は私のマスカラを2度塗りしているのと同じぐらいだろうか。それよりも長いかもしれない。

中学生の彼の髪は私の周りの男子とは違ってい傷んでもない、枝毛もない、秋に道端に生えているよくわからない雑草のようにパサついてもない。色だって天然の、日本人特有の漆黒。

こんなに綺麗な髪なのに、将来周りにそそのかされて色を抜いてしまうのかと考えると勿体なくてしょうがない。男子は黒髪ストレート短髪。飾るような男は嫌いだ。髪色や、服や、右耳のピアスと同じように女も飾るのだから。そうやって私は幾度となく飾られてきたのだから。

やっと好きと思えた彼でさえ、着火剤が切れてしまったように冷めた。もう会いたいと思わなかった。ふと、彼の匂いが掠めたような気がして身震いをする。彼特有の香水の匂い。それだけで彼だと分かってしまうような。

香水を移すことも、独占欲のひとつなのかもしれない。相手のパーソナルスペースを侵略して一つになるのに、愛情って必要なものなのか。彼に絡みつかれて、私にはメリットなんて何一つないのに。

本当は私の気持ちさえ全て見透かして、それでも彼女というアクセサリーが欲しいから身につけているだけなのかもしれない。だとしたら怖い。彼の方が私より一枚上手かもしれない。

大学生の恋愛ってこんなのだっけ。

一度空いてしまったピアスホールを埋めることはプライドが許さない。新しいピアスを選ぶように、早くその穴を埋めるように。それは例え300円の安物でもいいし、ブランド物でも構わなかったのだろう。ただその穴を埋めること、そしてできるだけ安く見えない可愛いもの。私は駅地下で手に入る安物ピアスなのかもしれないし、どこかの専門店のセール品なのかもしれない。ただ、それだけだ。私の役割は、ただ、きっと、それだけだ。


「終わりました」

「ん、あぁ、うん」

中学生にしては珍しい低めの声に反射的に顔を上げると彼と目があった。


「……………、」

こんな綺麗な顔をしていたのか、と驚くほど、彼の瞳は濁りがなかった。当たり前だけど、何の戦略もなくて、ただ純粋に丸をつけて、と私に役割を求める。

こんなに純粋な瞳に見つめられることは久々だった。久しぶりすぎて、まっすぐに見つめ返すことができなかった。私は何をしているのだろう。問題を解く中学生男子を見つめて何を考えているのだろう。でも、いつも私の中に欲しか見出さない男の瞳しか見つめてない私にはそれが心地よく、また新鮮だった。ワークの答えなんか取り出さず、彼の瞳を一日中見つめていたかった。

彼が見つめ返すことがないとは分かっていても、ただ丸つけと問題の解説を私に求めていることを知ってても、それでも純粋に私だけを求められていたかった。

男なんて嫌いだ。尼さんにでも修道女にでもなってやるよ。

そう思ってるのに、結局顔立ちが整っている人に惹かれてしまうのは私のダメ男キャッチャー具合に輪をかけている。


一対一で向かい合えるブース内は軽い密室だった。薄い磨りガラスは周りの視線を遮らせ、授業に集中させるための作りになっている。

つまり、私と彼がブースの向こう側で何をしていたとしてもただ顔を近づけて勉強しているようにしか思えないということだ。

でも、まぁそれ以上に何を求めるというのだろう。中学生男子に欲情しても、この虚しさは消えないはずなのに。

「うん、ここは、関係代名詞だから」

赤ペンを癖字の上に滑らせ、彼のノートを汚していく。

「先行詞が人の時って何使うんだっけ?」

Who、と彼は赤みがかかった唇を動かした。フウ、と聞こえないぐらいの声で。私だけに伝わる方法で。

「…そうだね、うん、で…」

一旦意識すると、彼を追いかけたくなった。私の人差し指が示すワークの問題文に彼の視線は注がれ、揺らぐことはない。その、伏せ目がちな目とまつげの長さを改めてぼんやりと見つめた。好きだ、と思った。私の唇は適当に関係代名詞の説明を紡ぎだした。


「せんせ、?」

ん、と小さく喉を鳴らして顔を上げると彼が微笑んだ。

「ん?」

「……え?」

逆に問いかけられて困惑した私に、彼は笑った。からから、と赤ちゃん用のおもちゃが鳴るように笑った。つられて私も笑わなきゃいけないような感じだったが、笑えなかった。

「え、なに?」

「や…何見てんのかなぁって」

「え、いやぁ、別に、私は」

途端に今がアルバイト中だということを思い出す。焦って言葉につまると、彼は余裕そうに唇の端を上げた。

「俺のこと、見てるのかなぁって…思ってましたけど…」

まさに図星だ。う、と言葉につまってかあっと頬が熱くなる。きっと、塾には似合わない顔立ちをしている。

何を言うんだ彼は。だいたい自分でそんなこと言わない。あり得ない。てか中学生でしょ。どこでそんな言葉覚えてきたの。

ふぅ、と彼に気づかれないように小さく息を吸った。

今まで出会ったことのない人種だ。あざといという普段二次元にしか使われない単語が浮かんだ。でも彼が視線を集めてしまうぐらい綺麗な顔立ちをしていることは明確だった。モテるんだ、と思った。

「別に、そんなんじゃ」

無意識に言い訳を始めようとすると、彼はさらに笑った。余裕のない私を楽しむかのようにふふふ、と笑った。

「冗談ですよ」

一瞬交わった彼の視線が逸らされることはなかった。逸らせばいいものを、彼の視線が痛いほどにノートではなく、私自身に突き刺さっているのがわかった。ぐさぐさ、というより赤外線とか得体の知れない光をただ一点に浴びている感じ。


「……もう、」

やっとの思いで逸らした目線は我慢比べのようだった。

「先生面白いですね」

「面白くなんか、ない」

からかわないでと唇を動かすと、彼はまた小さく喉を鳴らしてくくくと笑った。全てを楽しんでいるかのように。このシナリオの先を全て知っているかのように。彼がこのゲームの支配者で、私が勇気ある主人公のように。残念ながら私はそこまでの勇気も度胸も兼ね備えていない。にっこり、という響きが聞こえてきそうなほど彼は綺麗に笑っていた。


「……好きですよ」

「…何が」

「先生みたいな人」

「からかわない。ほら、問題解いて」

しかくよんぜんぶ、と言うと彼は小さく渇いた返事をしてシャーペンを握りしめた。


彼がまた伏せ目になる。


不覚にも胸が苦しい。

悔しい。

でも、もっと彼に浸っていたい。

もっと彼の言葉を彼の低音で聞きたかった。胸を苦しくさせて欲しかった。

緊張と期待と、どう接すればいいかわからない不安で手が震えた。何を話せばいいかもわからなかった。机の下に隠した手が、急に熱を持つ。焦っているのに、心のどこかでうきうきしている。あらすじで衝動買いした小説を開く、まさにそんな気分。


相手が見えなくなるぐらい、夢中になる恋愛がしてみたかった。


まさに今の目の前に座っている彼は、新連載の少女漫画のイケメン1ページ目であり、面白そうなあらすじ付きでたり、絵柄も好みの男子だった。

年下設定という要素も含んだまま。

足を踏み入れたい衝動に駆られて、もう一度ゆっくり、ゆっくり息を吸った。


「…できました」

「はい」

じゃあ、丸つけるよ。そう小さく呟いて赤ペンを取り出し、少し前かがみになる。

ぐおーん、ぐおーんという音が私の孤独を繋いだ。丸つけのスピードが遅くなっていることにも気づいていた。彼との距離が近くなっていることも気づいていた。


ごめんなさい、と何かに謝る。

何に?

彼氏?

自分自身?

それとも目の前の彼に?


小さく彼が笑った。何もかも知ってて、それでも受け入れてくれるような顔だった。少なくとも私にはそう見えた。

なに食わぬ関係代名詞が会話を繋いでいく。


「…はい、じゃあ今日はここまでね宿題はね、えっと」

どうしよう、と呟くと彼の英語のワークをぺらぺらとめくった。

彼が筆箱のファスナーをあけ、使っていたシャープペンシルと消しゴムをしまうのがわかった。

生徒が帰ってしまう。担任はこうやって毎週たくさんの担任生徒を送り出している。当たり前のことなのに今だけはどうしても耐えきれなかった。彼を呼び止めたかった。不審に思われても、急に腕を掴んでセクハラで訴えられそうになっても、今日だけはなぜか彼を離しておきたくなかった。

きっと今、私はすごく彼を物欲しそうな目で見ている。おもちゃ売り場に立ち止まった子どもは動かない。欲しいものが手に入るまでずっと。

瞳の中に映る彼はどんなおもちゃよりも魅力的だった。その唇で、もう一度好きだと言って。嘘でもいいから。たった1回でいいから、私を欲して。


唇を強く噛むと、彼は笑った。段ボールの中で震えてる子犬を見るかのような目で。よしよし、腹減ってないか。そんな言葉を言いたそうな顔をして手を伸ばした。ゲームセンターのUFOキャッチャーのアームは迷うことなく伸びていき、空を掴む。足掻く。うぃーん、うぃーんと音を立てながら何も掴めなかったアームは景品出口で見えないぬいぐるみを解放する。

彼のアームは迷いがなかった。私の頭に見えないぬいぐるみがあったのだろうか。乗る。掴んだのだろうか。そのまま中学生のわりに骨ばった手が私のビターチョコレートみたいな髪を小さく往復した。

何だろう。私がそんなに可哀想か。そんなにそんなに可哀想か。あんたに同情されるぐらいに。

役目を終えた手は何事もなかったように定位置に戻っていった。

なんなの、と言うつもりでもう一度顔を上げる。ネズミを追い詰めた猫みたいに余裕たっぷりに笑おうとしたら、瞬殺で彼の顔は私の前を通り過ぎた。

ぐいっと首を支えられる。彼の唇は私の耳元にあった。イヤリングが彼の息でかすかに揺れた。

ひんやりとした指先の感触は私の熱を冷ます保冷剤だった。他のブースの人たちには、私がまだ関係代名詞を教えてるようにしか見えないだろう。先行詞がものの時はwhichで、人の時はwho。今日の復習をしている、そんな先生と生徒。私たちはそれ以上でもそれ以下でもないんだ。そうだ。

だんだんとこの状況を理解した脳がニューロンを通して情報伝達を始める。

だから、わたしはだめなんだ。彼に誘われたいなんて思ってはいけないんだ。かっこいいとか、触れてほしいとか、そんなことはただの気の迷いだ。

全て事が済んでから理由を聞こうと思っていた。どうしたの、先生はこんな誘いにはのらないよ、と堂々と微笑んであげれば私の勝利だ。中学生の戯言に付き合う暇などない。そこまで言うのは大サービスだけど、それくらいのことは言ってもバチは当たらないだろう。

いまならワンプレイ無料だよ、というような口ぶりでねぇ、と呼びかけた。


「泣かないで」


彼の声に私の中の炭酸がしゅわっと空気に触れて弾けていくようだった。保冷剤を失った身体は体温の上昇を許す。彼の目を見ると、何も言えなかった。何を言えばいいか分からなかったので、とりえあえず笑った。笑ってしまえばこの状況も全て解決して、みんな元どおりになると思った。


「泣いてないよ」

そう言って宿題のプリントを差し出す。

どうしたの、先生はこんな誘いにはのらないよ。もしもテレパシーが使えるなら、そうとも言った。

彼は首を動かした。これ以上何かを言うと壊れてしまいそうだった。私たちは先生と生徒以上の何者でもないのに、たったひとことはそれを壊すには十分すぎたのかもしれない。

「そんなことないです」

じゃあ、と言って彼は席を立った。他のブースの生徒も席を立ち始め、教師は次の生徒を迎え入れる準備を始めていた。

ICカードのぴろりんという音が彼の退室を示した。さっきまで私のそばにいた彼は、何事もなかったように私から離れていくほど、私たちは何もない。私たちの間には溝しかない。先生と生徒という簡単な糸しかない。

たった一回同じクラスになった好きな人は、数年後駅で見かけても話しかけられない。そんなものだ、こちらの思いが強くても相手には何も届かない。


届かない思いとか、言えない言葉とかそういうものはいったいどこへ行ってしまうのだろう。

席を立ち上がりながら思った。吹き出したマグマは収まるのか。1度溢れた炭酸は空気に溶け込んでいくのか。

錆び付いた10円玉の汚れは、私の言えなかった思いを隠していく。思いも、言葉も酸化していく。あの人が好きだと親友打ち明けたら、翌日にはクラス全体に広まっている。恋心は酸化しやすい。そうやって学んできた。

真空状態で液体を開封すると、まんまるの球になって空中をふわふわと漂うのに。宇宙はひとりぼっちだ。だったら君に会いに行こう。このどうしようもない世界で、本音を隠せざるをえない世の中で、オンナノコはたくましく生きている。だから、だから。一度ぐらい泣いたって許してくれる。


駐輪場はスーツ姿の私とネックウォーマーを身につけた彼の2人だった。

冷たい風なんか気にならないほど、私は熱く震えていた。

「ほら、泣かないでくださいよ」

駐輪場まで追いかけてきた私を、彼は見つけて笑った。笑わなくても良かったのに、笑った。

「…泣いてないよ」

自分で思ったより声が大きく響いて驚く。私はそんなにムキになっているのかと、沸騰した脳のどこかでそう思う。

震えた体を彼の手が支えた。

「自分じゃ、分からないですか」

彼の身体は冷え切っていた。

「…分からない」

冷蔵庫の中で溶け出す二つのアイスクリームが混ざり合うように私たちは触れ合った。どろりと表面が溶け出し、バニラとチョコレートが斜面を滑り落ちてマーブル模様の水たまりを作る。

冷凍庫と入れ間違えたアイスクリームの運命はそんなもんだ。2度と味わうことはできない。混ざり合った部分を取り除いても、ゴミ箱に捨てられてしまう。

彼のスマートフォンには、有名なネズミのキャラクターの男の子がついていた。ハートが分かれていて、もうひとつと結びつく形だった。

所詮そんなもんだ。9時になったら私も迎えがくる。彼氏を受け入れ、挨拶代わりのキスをする。

二つのアイスクリームは処理された。もう二度と交わらないバニラとチョコレートは明日からはちゃんとした小包装で生きていかねばならない。

「……気をつけて帰ってね」

はい、と彼が吐く息は白かった。彼の姿が見えなくなる前に後ろを向いた。彼の姿を見たくなかった。

間違いを犯したなんて思ってない。罪の意識なんてこれっぽっちもない。ただ、今の私の心に一番深く寄り添えるのは彼だと思った。彼は間違いなくバニラだと思った。

でも私には彼氏がいて、彼にはネズミの女の子をつけている彼女がいた。それは間違いない事実だった。私たちは交わるために生まれてきたんじゃない。私がサーティーワンなら、彼はハーゲンダッツぐらいの違いがある。私がなっちゃんなら、彼はqooぐらいの差はあった。たったそれだけの差が、今はどうしようもなく大きい。


繋げるとキャラクターがキスをするペアストラップ。彼の相手の女の子はどんな子だろう。どのくらい付き合っているのだろう。

付き合って、といったら付き合う。その人とは用がなくても一緒にいる権利がもらえる。

別れたい、といったら別れる。所詮人と人の繋がりはこんなにも儚く、短命。


「あい」

名前が呼ばれた。

今1番聞きたくない声だった。

「バイト、終わった?」

なかなか答えない私に、どうしたのという声が背中に投げかけられる。

「藍」

「……」

「泣いてるの、藍」


「泣いてないよ」

泣いてなんかないよ。

そう言おうとしても、ぼろっと液体が頬を滑り落ちていく。

ぼろっ、ぼろっと私の中の何かが欠落していくように雫は溢れていく。


「泣いてない」

「藍…」

とりあえず車行こう、と彼が私の肩を抱いた。

反射したフロントガラス越しに彼が見えた。後ろ姿は間違いなくさっきまでそこにいた彼だった。


これからどこへいくんだろう。

そう考えたらもう止まらなかった。

何が原因かも、ゲームなのかも、本気なのかも分からない。

彼がどうしようもなく好きだと思った。酔ってるんだ。きっと、恋愛がしたくて、中学生にちょっと心配されて酔ってるんだ。


「……馬鹿だなぁ」

泣き声でいったら、彼は心配そうな顔をした。

「どうしてかなぁ……」

「あれ、香水変えたの」

能天気な彼は私の言葉を無視して、私に漂う香りに顔をしかめた。

「こんな甘い匂い、好きだっけ」

うん、と頷いた。

面倒だったので頷いておいた。


「…バニラなの」

ふと口をついてでた言葉に驚く。笑いたければ笑え。無様だと。どうしようもないと大きな声で笑ってくれ。


「バニラ、好きなの」

「へぇ、藍はバニラが好きなんだ」

この重苦しい雰囲気を変えようと、彼はわざと明るい声を出したのかもしれないが、その場にはひどく不釣り合いだった。

よしよし、と彼の手のひらが私に覆いかぶさる。

チョコレートはもうどろどろに溶けていた。もう元には戻らない。彼が私の頭を掻き乱しても、甘ったるいべとべとした液体が絡みつくだけだった。

バニラの美味しさを知ってしまった私はもう元には戻れない。

あのキスを私は忘れない。


溢れてきた愛でまた視界が滲んだ。

窓の外にはもう彼はいなかった。

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