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その言葉を聞いた直後、由佳は見慣れた場所に居た。
酷く視界が低く、巨人の国に迷い込んでしまったような感覚があったが、間違いなく日本だと肌で感じることができた。辺りが真っ暗だったのできっと夜なのだろう。
次いで、体を起こそうとしてみて違和感に気が付いた。
立っているはずなのに、どうやっても視界をこれ以上高くすることが出来ない。確か自分の身長はそこそこあったはずだ。家や標識がこんなに高く見えるはずがない。
本当に巨人の国か何か間違った所に来てしまったのだろうか、なんて歩こうとして、盛大にコケた。
痛くはなかったが、これもまた凄い違和感を感じる。
足で歩けないのだ。どうなっているのか判らない。
その原因を調べようとして下を向いた瞬間、即座に理解した。猫の前足が見えたからだ。
猫の動きを必死に思い出し、何とか歩いて近くにあった店のガラスケースに自分の体を移して確信する。
由佳は、猫になっていた。
おそらくこれは、自分の助けた猫と私の魂をあわせてできた存在なのかもしれない、と由佳はあの死神が言っていた最後の質問を思い出していた。
あそこで自分を選択していたら、多分に漏れず残念な表情をして去っていくか私を本当の天国だか地獄だかに連れて行っただろう、とも思う。
しかし、死神が言っていた『後任の件』については全く判らないし、想像もつかない。
途方にくれていた由佳だったが、やがて、まずはこの体を使いこなせるようになろうと意気込んだ。
それからと言うもの、早朝から他の猫に絡まれる事数回、子供たちに追っかけられる事数回、車に轢かれそうになる事数回。
全て恐ろしい体験だったが、何とかそれらを回避して、猫として俊敏な動作で動けるようになっていた。
ただ、一度だけ確認してみた事。『人に話しかけてみる』は失敗に終わった。
どうやっても、何を言っても、相手は理解を示さなかった。そんな事もあり、由佳は本当に自分が猫になってしまったのだと実感する。
人と意思疎通出来ない。それだけで気分は最悪だった。
やがて、すっかり忘れていたが、老人が由佳の前にやって来た。
由佳が自由に動けるようになった事を確認し、老人は死神が何をすべきなのかと言う部分を教えてくれた。
今まで現れなかったのは、由佳が猫として動けるようになるまで待っていたからだそうだ。
初めから教えておいてくれれば、何が起きているのか判らない状況など無かっただろう。由佳としては迷惑な話である。
ついでに言うと、この時初めて自分本来の姿に戻れる『周期』を知る事が出来た。周期と言っても事細かに決まっているわけではなく、大雑把なものだったが。
老人は死神の仕事を事細かに説明し、実際に由佳に行わせたりもした。
最初は罪悪感があったが、渡されたタブレットをポンと叩くだけなのだ。あまりにも事務的過ぎて、すぐに仕事は苦痛ではなくなった。
ちなみに、仕事の説明を受けている間、呼び名が無いというのは困るものだったので、由佳が勝手に老人の事を『ミスターシルクハット』と呼んだ。
いつでも帽子を取った事が無いから、と付けた名だったが、その帽子は正確にはシルクハットではなくソフトハットである。
だが老人はそれに対して突っ込むことは無く、由佳も帽子といえばシルクハットだと思い込んでいた事もあり、二人の間で老人の名前はミスターシルクハットで定着した。
それから一年間ほど仕事をやったが、由佳はミスらしいミスをしなかった。
その間に一度だけタブレットが効かない人間が居たので、由佳本体に戻り、鎌を使って魂のみを抜き出す作業をしたが、できればこれはやりたくないと由佳は思う。ともあれ、やり方が簡単だった事もあり一度で完璧に覚えた。
ある時、肉体から魂だけを抜き出してその後は何かする必要はないのか、と尋ねたが、ミスターシルクハットは「その辺りは管轄外なので、触れなくても平気でしょう」と答える。
ミスターシルクハットも由佳がある程度仕事をこなせるようになった事に満足したのか、後は任せますとだけ言い残して去って行った。
その後ミスターシルクハットは見なくなったが、由佳も約一年間死神として仕事をしてきたおかげで、大体そつなくこなす事ができた。
ただ、自分が猫だと時折思い出すが、それを認識するのは嫌だった。
当初の思い出が蘇るのだ。当初怖かったものは今はもう全然気にならないので、あんなに怖がっていた自分がなおさら許せないと言うか、気恥ずかしい気持ちになる。
なので、なるべく人とは接触したくなかった。否が応でも猫だと認識させられるからだ。
とは言っても仕事は仕事。
数ヶ月に一度は、タブレット操作では命を奪う事が出来ない人間が存在した。その度に由佳は現地へ赴く事となる。
何故タブレットの効果が無い人間が存在するのかは不明だが、どうせ相手は由佳――ひいては死神の存在が見えない人間だ。
絶好調になる日を待って、サクンと一発。それで終わり。
いつもはそうだったし、今回もそのはずだった。
『彼女』は、由佳を見るなり驚きの声を上げた。尻尾が二つある猫なんて珍しい、と。
そこで初めて由佳は自らがただの猫ではなく、猫又である事を認識した。今まで出会った人にはこの二本の尻尾が見えていなかったようなので、おそらくは普通の猫しか見えなかったのだろう。
由佳は、この女性が本来の自分の姿が見えている事に、一抹の不安と若干の喜びを感じて話しかけてみる事にした。
「こんにちは、えっと、お話できそうかしら?」
尋ねられた女性は、流石に猫が喋るとは思わなかったようで目を白黒させていたが、やがて頷いた。
「そう、それは嬉しいわね。ただ、私がここに来たのは――」
そこまで言ってから、これ以上言って良いものか思案した。貴女の命を奪いに来ました、とでも言えと?
由佳の目の前にしゃがみこみ、珍しいものを見るように目を輝かせているこの女性にはとてもじゃないが言えそうに無かった。
しかしそのおかげで初めて、稀に人と話せる可能性がある事を知った。
彼女は裕福な家庭で育ったお嬢様のようだった。彼女の部屋に誘われて入り、初めてこんな大きな部屋を見た。
タブレット上の死因は事故死。ミスターシルクハットに仕事を教えてもらっていた時に何度かあった、『手を下さなくとも良い事例』だ。
だがそれは確実ではないので、タブレットを使う。タブレットが効かない場合、死神が直接手を下す。一応、そう決めていた。
彼女は由佳の事を珍しがり、人並みの知能があると知ると(元々人間だったので当然だが)、色々と話し始めた。
由佳もこの女性と歳はあまり離れていなかったので、時事ネタや最近の話題にはついていけなかったものの、話は大いにはずんだ。
そして、死神として一番やってはいけない行動に出る。すなわち……運命の回避だ。
由佳自信彼女をとても気に入って、友達になれたと思っていたし、彼女も由佳の事を友達として見てくれていた。
だから目の前で死なれるのは嫌だったし、本来の姿で儀式をするのも嫌だった。
「自分は死神だが、貴女を助けたい」といったニュアンスの話をして彼女を誘導し、本来起こりうる可能性を廃除していった。大まかな場所と死因はタブレットで確認する事ができるので、危機を回避するのはとても容易だった。
ふと、ミスターシルクハットが前に教えてくれた『辻褄合わせ』について思い出す。ただ、由佳にとって彼女の生存こそ最優先であり、他の事は殆ど頭に無かった。その考えが最悪の事態に発展するとは思わずに。
――辻褄合わせは、彼女の最愛の両親を奪った。
その時由佳は、これもまた初めて辻褄合わせの危険性を認識する事になる。死神が手を出す事のできない、絶対的なシステム。
もちろん手をこまねいて見ていたわけではない。由佳もできる限り最善の手は尽くした。それでも意味は無かった。
両親の死により、彼女は親族に引き取られる事となった。
別れ際の彼女の目は光を失っていて、生に価値を見出せなくなっていたのだと由佳は思う。別れ際に「死神が……」と呟いていた事は、きっといつになっても鮮明に思い出せる。
声はかすれ、聞き取る事ができなかったが、口の動きから『死神が殺した』そんな風な言葉だと認識できた。
……それから約一週間後、再び彼女の名前がタブレット上に写る。今度は出向く必要も無く、あっさりとこの仕事は完了した。
以来由佳は、もし自分の存在がわかる人と出会っても最初に『死神』を名乗る事にする。
一番最初に出会った女性以外にも、由佳が見える人は何人か存在した。ただ、先に由佳が死神を名乗った事で、それ以降の人は特に問題も無く魂を抜き出す事ができた。
運が良いのか悪いのか、その中に逃げようとする人は存在しなかった。当然ながら、逃げても無意味ではあったのだが。
死神を名乗るようになってから約一年後、再び由佳は大きなミスをする事になる。
まず、これもまた、初めての事例だったといえよう。対象の女性とそれに親しい男性は、両方ともユカを認識する事ができたのだ。
死神を名乗った以上もう後には引けないので、男性には、女性との別れを覚悟しておくように伝える。
しかし男性は「どうにかできないのか」といったニュアンスで何度も由佳に尋ねる。最初は由佳も諦めなさいとだけ言ってあしらっていたが、男性の執念とも言える問いに、約三年ぶりに肩代わりと言う単語を思い出した。
男性はそれならばと喜び勇み、女性を護ったつもりで嬉しそうに逝った。……全て、女性には告げない影ながらの行為だった。
女性は由佳を糾弾した。それはもう、鬼の形相で。何故男性の話を無理に断ってでも私を殺さなかったのか、と。
男性の熱意に負けたからだと由佳は女性に順序立てて説明したが、最早女性は聞く耳を持たなかった。
それからまた、一番最初に由佳が助けようとした『彼女』同様、タブレット上にその女性の名前が浮かんだのは言うまでも無い。
なので、由佳はとにかく肩代わりも辻褄合わせも嫌いだった。
もう何も考えず、感情を持たない『死神』になろうと考えた矢先の事だった。瑞乃枝小鳥の名前がタブレット上に書き記されたのは。
最初は、近くにある別の人間の死因と小鳥の死因を勘違いしていた。病死の場合、意外にも自分が出向く必要がある可能性が多いのだ。
ただ、町に行ってみて、もの凄く困った事になっていると気が付いた。
どうなっているのかは判らないが、由佳が対象である小鳥に近付く事が出来ないのだ。
これは後に小鳥が結界を張っているからと判るのだが、まず、小鳥の居場所が掴めない。こんな事は初めてだった。
数日掛けて小鳥を見つけ、いざ近寄ろうとすると今度はその場で足踏み状態になってしまう。文字通り『近付く事』が出来なかった。
途方に暮れ、人気のあまり無い場所を歩いていると、ある男性と出会った。これが犬塚弘である。
さて、これはもう随分前からだが、由佳は『自分が見える人間』と『見えない人間』の区別が付くようになっていた。
なので話しかけてみる事にした。もちろん、弘を介して小鳥に手を下す為に。
驚くべき事に、この青年――弘は由佳が話しかけても驚かなかった。それどころか、死神を名乗ってもなお平静を保っていたように見えた。
凄く年老いた人物は別として、今まで中年ぐらいまでの由佳と話せる人間は殆どが驚いていた。なので、今までと違うと言うだけで若干の期待を抱く。
しかし予想に反して、弘は厄介な存在だった。
保守的過ぎるのだ。もっとアクティブに動いてくれる人が良かった。……そう思っていたのは弘に『人間の感覚で考える事は出来るか?』と言われるまでで、言われてやっと気が付いた。
自分はもう完璧に死神の感覚に慣れてしまったのだなぁ、と。ミスターシルクハットは適性があると教えてくれたが、まさにその通りだったわけだ。
更に、こともあろうに弘は小鳥の幼馴染だった。事前に行動している際、制服から同じ学校であるという情報は得ていたので、知り合いである可能性は考えていた。だが昔からの付き合いである可能性については全く考慮していなかった。
最初は肩代わりを教えるのを躊躇った。ただ、保守的な考えを持つこの青年は肩代わりを選択する事はないだろうと高を括って、由佳はその事を話す事にする。
もちろん、選択しないだろうと考えていただけではなく、『死神として』伝えるべき事は伝えておかないといけないと思っていた部分も少しだけあったが。
由佳の予想に反して、弘の返答は軽いものだった。
これは流石に理解の範疇を超えていたし、思い出したくない記憶が一気にフラッシュバックする。
それでも由佳と言う存在の精神構造は変わる事が無かった。感情の無い死神なんて私には到底できないのだ、などと思う。
弘は予想以上に優しく、言ってしまえばお人よしだった。最初に出会った時に驚きすらしなかったのだ、他の人とは少し考え方なんかが違うのかもしれない。
その事にこっそり感謝しつつ、事が終わるまで弘の家に居候させて貰えるだろうと考えていた。
更に言えば、この時由佳の『未練』が一つだけ解消された。弘が持っており、聴かせてくれた音楽アルバム。あれは由佳が買った帰りに事故死してしまい、結局聴く事の出来なかった大好きなバンドの曲だった。
さて、時間は戻るが、最初の『周期』が訪れた時、弘が居ない隙を見計らって本来の姿に戻り、なんとか小鳥を自らの手で始末出来ないか模索した事がある。
結果は惨敗に終わった。猫の時より様々な『力』はかなり上昇するはずだったのだが、小鳥の結界は恐ろしい程に強力だった。
その後、悔しさを発散する為にゲームに没頭した訳だが、それはわりとどうでもいい事か。
そのまま数日が過ぎる。由佳は表面上では平静を保っていると見えるよう努力していた――弘にどう移っていたのか、由佳には判らない。が、実は脳内の記憶を片っ端から高速で思い出し、小鳥に手を下す最善の方法を熟考するほど切迫した状況だった。
結局どうしようもないまま次の『周期』を迎える事となるが、この時になって急に弘が肩代わりを申し出る。
何を言い出したのか最初は理解できなかった。何故なら、彼は一度肩代わりにする事を止めようとしていたからだ。
だが、今度は今までのように揺らいでいた意志ではなかった。何を考えていたのか、夜のうちに何かしら肩代わりを選択せざるを得ないような考えに及んだのだろうかと、由佳は思った。
それと同時に、小鳥を手にかけることが出来ないのなら弘で事を済ませば、結果は違えど『死神の仕事』としてはある程度良しとして済むのではないか、と打算的な考えが脳裏を駆け巡る。
これが人間だったなら恩を仇で返す形になるのかしら、などと由佳は考え、夕刻まで待つように告げた。あわよくば、それまでに考えを改めて欲しいと思いながら。
考えを改めて欲しいという由佳の願いはあっさりと拒否され、仕方ないと思いつつ弘の魂を抜き出そうとした時、由佳は初めて間近に小鳥という女性を見た。
その後この状況なら死神として手を下す事が出来る、と咄嗟に判断するのだが、おおよそ普通の高校生とは思えない動きで由佳を二重に驚かせた。
驚いた理由の一つは、先にも言ったように高校生の動きではない俊敏な動き。軽く鎌を振れば終わりだと思っていた由佳は泡を食った思いだった。
もう一つは、『小鳥が病死である事』。結界を張っていて近寄れなかった時ならともかく、死神が近くに居るのだ。どうあがいても小鳥は急病の兆候を見せるはずだった。
なので、確認した。事細かに、家族構成まで。
幸か不幸か、その行為により小鳥の死因を見間違えていたことが判明するのだが、その死因が自分と全く同じだった。
タブレットに死因の詳細までは書かれない。これは由佳にとって、ある種の価値観という『壁』を取り除くため大いに役立ったが、時たまそれで困ることもあった。
しかし、これだけは繊細に判った。町を散策していた時に見つけた川やその中にある、雨が降ったら小さな陸地になるだろう盛り上がった土。
ハッキリ言ってしまえば、勘以外の何者でもないものであったが、何故か由佳はある種の確信を持っていた。
そして目覚まし時計をセットして時を待つ。予想通り、雨が降る。
なので、弘を向かわせた。間に合うかどうかは彼次第だが、結果がどうあれ向かわせるべきだと判断しての事だ。
そして、弘が部屋から転げるように出て行った後、由佳はもう一つの可能性のため動く事にした。




