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いつも通り、目覚ましの音で目が覚める。
ベッドから降りて伸びをしながらデジタルカレンダーを見て失敗したと思った。
今日は土曜なので学校は無い。昨日は色々と考えながら寝る準備をしていたので、きっと無意識のうちに目覚ましをセットしてしまったのだろう。
いつも休日は昼頃まで寝ているとは言え、一度しっかり起きてしまうとまた眠る気にはならない。
完全に俺自身が悪いのだが、目覚ましに悪態をついてから洗面所へ向かった。
洗面所から戻ると、見知った猫が居た。
ベッドの下に隠れるように縮こまり、顔だけこっちに出して俺の様子を窺っている猫。ユカだ。
「何やってんだそんな所で」
本気でそう思ったので、言うと同時にため息が出てしまった。
昨日は戻ってこなかったと思ったが、案外先回りして家に着き、俺と顔を合わすのが嫌だからとずっと隠れていたのかもしれない。
現に今ユカは非常に居づらそうにしつつベッドの下からゆっくり這い出てくる。
それでもうちに来るって事は、俺に何か言い残したとかあるのか?
「あ、待て、先に着替える」
ほふく前進で出てこようとしたユカを、そのままベッドの下に戻す。
あんまりそこに居させるのも可愛そうな気がしたので、手早く着替えて出してやった。
「キミ、私がここに居る事が嫌じゃないの?」
「嫌だったら即追い出してるだろ、もう色々と諦めてるよ」
「そう」
早く起きてしまった上特にする事も無いので、そのままイスに座る。
ユカは窓に近付いて、空を眺めていた。
「曇ってるわね」
「ん、ああ、そうだな」
「雨、降るかしら」
「さあ、どうだろうな」
そう言えば雨が嫌いとか言ってたな。曇っていると気になるのだろうか。
ユカはずっと窓から空を眺めるだけで離れようとしない。その格好がもの悲しく見えたので、ゲームでもするか? と尋ねると、やんわりと拒否された。
何か色々と言いたい事があったと思うんだけどな。なんだったか……ああ、そうだ。
「ユカ、お前人間になれるんだな」
俺が思い出して言うと、ユカは苦笑してそれを流した。
なんか、違うな。今までのユカじゃない。ユカの方も、もう諦めきってるとかそういう感じか。
ただ、それと同時に最初に会ったような死神然とした雰囲気も受ける。
イメージとしては最初に出会って話を聞いていた頃、小鳥の名前が出てくる前の仕事熱心なユカだな。
昨日の事と、ユカの雰囲気を照らし合わせてみる。流石に昨日の戦闘で疲れているだけ、と言う事は無いだろう。
それでいてしっかり仕事をこなせそうな雰囲気。
確か、昨日は対象が小鳥だと確定していたようだったが、死因については何も言わなかった。
『勘違い』と言ってたか。病死ではないのなら何なのだろう。
もしかして、ユカのこの態度からするともう終わっているのではないだろうか。
前に一度だけ、辻褄合わせの説明時辺りに聞いた気がする。
死神が手を下す必要がない事例が存在する、と。
もし小鳥の死因がそれにあたるのであれば、ユカの態度は説明がつく。
俺の前に堂々と出てくることが出来ず、死神としての雰囲気を保ち、無言で時を待つだけ。
流石にそう考えてしまうと確認を取りたくなってくる。
「キミは、あんな事があったのに私を拒絶しないのね」
「拒絶も何も、まだ何も起きてないんだから別に何か言うわけ無いだろ」
だが先にユカが口を開いた。前か、そのまた前か、話せる人がいた時はそうだったのだろう。
俺も流石に事が起こればユカを嫌うかも知れない。でも、今までのようにかなり楽観的な考えではあるが、まだ何も起こっていないのだから嫌う要素が無い。
もちろん、昨日小鳥といきなり戦ったのは予想外だった。あれは流石に偶然だと思うが。
小鳥には何も言ってなかったのも問題だった。しかし、結果的にそれで小鳥がユカの事を拒否せずにきちんと認識してくれたのは良かったと思う。おかげで辻褄合わせの事とか伝えられたしな。
「今、私が瑞乃枝さんの死を今待ってるって言っても?」
そう訊かれ、俺は一瞬何も考えられなくなった。
もちろん、さっきまで想像していたし予想していた事である。それでも、本人の口からそう言われるとどう反応すれば良いのか判らない。
本当にそうだったんだなと言う気持ちと、小鳥をどうにか救えないのかと言う気持ちが入り混じっている。
俺は腕を組むと、力を抜いてイスの背もたれに寄りかかった。
長い沈黙。
ユカは再び窓から外を眺める。パラパラと、雨が降っていた。
俺の様子をユカが確認しないのは、どうすれば良いのか考えている俺が怒気を放っていないからだろう。
あくまでも死神の仕事をしているだけ、そう自分に言い聞かせると、『なんで小鳥が!』なんて今更ユカにあたる事などできるはずも無い。対象は選べない、そうユカも言っていたし。
俺もイスを回転させて、なんとなくユカを視界に捉えながら窓から外を見る。
ユカは前に雨が降っていた時のように、露骨に嫌そうな顔をして外を眺めていた。
「前もそうだったけど、なんで雨がそんなに嫌いなんだ?」
何の気なしに訊いてみる。
ユカの雨に対するそれは、外に出ると体が濡れるからとかその程度のものでは無いように見える。まるで雨に触れると自分が傷つくとか、そのレベルだ。
それに対して、ユカは何も答えることは無かった。耳が一瞬ピクリと動いたので、聞こえなかった訳ではないのだろう。
外を眺めたまま、久々に少しの間だけ右前足を口元に当てて考えたユカはやがて口を開いた。
「キミも、すぐに判るわよ」
少し前に聞いた、宗平に対して言ったような冷たさの残る声色で。
どういう意味だか全く判らない俺はただただ首を傾げるだけで、相変わらずもの悲しそうなユカの横顔を見ることしか出来なかった。
しばらくそうしていたが、やがてユカは「可能性か……」なんて呟くと俺の方を見て、ぼーっとユカを眺めていた俺と目が合う。
「キミ、この近くにはしごを使って降りれる川があるの知ってるわよね?」
「ん? ああ、知ってる。小さい頃はたまに遊びに出かけたしな」
そう言うと俺から視線を外して、今度は短く呟いた。
「今頃その辺りを歩いてるんじゃないかしら」
言葉が終わると同時に、部屋中が大きく光った。直後、音こそ小さいが雷が鳴る。
俺はイスを飛び跳ねて降りた。驚いたからではない。ユカの言いたい事が全部繋がったからだ。
「察しが良いって、考え物よね……。さて、と」
俺が部屋を飛び出る瞬間、背後でユカのそんな声が聞こえた。
間違い無く、ユカが言っていたのは小鳥の事だろう。
なんで小鳥がそんな所に居るのか判らないが、ユカの言葉を信じるなら、そこに死因があるはずだ。
まさしく死神といった雰囲気を感じたのは、この事を俺に言わずに片をつける気だったのだろう。さっき思ったように、手を下す必要の無い事例ってヤツでだ。
ユカとしては、向かわせこそしたが俺が間に合わない方が良いと思っているかもしれない。本来の目的を達成できるはずだしな。
それでも、俺にも何を言いたいのかが判るような喋り方だった。そこに何か思惑があったのだろうか。
どうせ俺が行っても意味が無いことなのかも知れないが、ユカは楽観的に見えてきちんと物事を考えるヤツだ。どんな結果が待っているにしろ、行く意味はあるのだろう。
未だに雨が降っているが、走るのに邪魔だったので傘も差さずに走り続ける。
近くにあるとは言え、流石にゆっくり歩いて数分程度で辿り着くような距離ではない。
それにユカは小鳥の危険を仄めかす発言はしたが、決して今から行けば間に合うとは言っていない。時既に遅し、と言う可能性もあるのだ。
と、走りながらふと気付く。
もしかして、朝の目覚まし時計はユカがセットしたものではないのかと。
可能性としては充分にあり得る。朝の物憂げな態度といい、雨が降る事を確信しているように窓を眺めていた事といい、俺がセットしたと考えるよりユカが夜中にでもこっそり目覚ましをセットしたと考えるのが妥当だろう。
俺が昨日間違えてセットしていたのだとしたら、偶然が過ぎる。
そうならば今この状況はユカが想定しているものであり、俺はきっと小鳥の元へ間に合うのだろう。
だからと言って油断して歩を緩めたりは出来ないが、心につっかえていた変なものが取れてスッキリした気分になれた。
ぼーっとしていた為記憶が曖昧だが、『可能性』とユカは呟いていた。
それは俺が小鳥を助けられる可能性なのだろうか。例え準備をしっかりしても、最後は可能性に賭けるしかないと思ったとか?
……とにかく、今出来るのは一刻も早く小鳥の居る場所へ向かう事だ。
雨はさっきより強くなっていて、非常に呼吸がしづらい。既にへばってもおかしくない状況だったが、なんとか俺の足は動いてくれていた。
市街地を抜け、多少コンクリートで舗装されている程度の道路に出る。露出した土が雨で水溜りを作って滑りやすいからたちが悪い。
今転んだりしたら起き上がれる気がしない。
何せ全力で走ったのは久々だ。体育の授業でもある程度動きはするが、ここまで全力で走り続ける事なんてないわけだし。
さっきまでは色々な事を考えていたが、もう疲れで何も考えられなくなっていた。
やがて、問題の川まで辿り着く。この雨で当然ながら川は増水して、中に入るのは危険そうだった。
それと同時に、小鳥がどうなるか想像できた。
しかし小鳥が見つからない。絶対にこの辺りに居ると思うのだが、雨のせいで視界も悪いし、呼んでみたが反応も無い。
まさか、柵の向こう側に居るんじゃないだろうな。
いや違う、小鳥は絶対に柵の向こう側に居るはずだ。何故ならきっと、死因は『それ』だから。
それしかないと俺は決めつけ、柵の向こう側を注意深く眺めながらさっきよりはゆっくりと走った。
この雨の中、何故小鳥が川の中に入る必要があるのか理解できなかったが、ユカの言葉とこの状況を合わせるともう別の可能性は考えられない。
探しながら走り、やっと小鳥を見つけた。
小鳥は増水した川の中央にギリギリできた陸地で、子犬をわきに抱えて黙考しているようだった。
確かに、川の流れはかなり速い。増水しているから深い所もあるだろう。
きっと小鳥は雨が強くなる一瞬前くらいに子犬を見つけたんだろうな、それでこのままじゃ危ないからって行ってみたらこの状況、と。
こんな場所に犬が居るのはおかしいと思ったが、小鳥の足元に雨のせいでしおしおになり、破けたダンボールが見えた。……最悪だな。
なんて悠長に考えている場合じゃない。
「小鳥っ!」
俺が呼ぶと、小鳥は驚いた顔でこちらを見た。
とりあえず俺ができるのは、下まで降りて小鳥が滑ったりしないように道を確保する事か。
などと思いながらはしごを降りると、急に耳鳴りがした。
「――――!!」
小鳥が叫ぶが動作をしているが何も聞こえない。犬を抱えていない方の手を耳に当てている所からすると、小鳥もこの耳鳴りがしているのだろう。
極めて嫌な予感がする。
俺はもうなりふり構わず、小鳥の方へ向かい川へ突っ込んだ。
運よく足を取られる事なかったので、かなり早く小鳥の居る場所に辿り着けた。と言うか、そうでもしないと間に合わなかった。
先ほどの耳鳴りはもう既に聞こえなくなり、今度は地鳴りと轟音が辺りを支配する。
鉄砲水だ。
おそらく、何らかの理由で鉄砲水を知らせるサイレンが鳴らなかったのだろう。
コンマ数秒でも遅れると二人とも巻き込まれる。俺は力の限り小鳥の体を挟み込むように持ち上げ、柵に向かって放り投げた。
小鳥が抗議の声を上げるが気にしない。気にしている時間も無い。
そんな事より、自分でやっておいてなんだが、最後の最後で小鳥をあんな高い所まで放り投げる事ができた事に俺自身驚く。火事場の馬鹿力は実在したらしい。
そして身構える間もなく――。目の前に迫ってきた、水とはとても呼べそうに無い凶器に一瞬で飲み込まれた。