忍び寄る赤の悪魔
その夜は風が強かった。
波は荒れ狂い、崖にその身をぶつけて。白波が立ち、宙に舞い踊り。
「……ふむ。風は確かに強いが、月が曇って出てきていないのは、好都合だな」
「まぁ、エリザには残念と言うほかねぇけどな」
「……他人事のように言いやがって…」
「いやー、だって他人事だし?」
その高い崖の上に立つのは、大きな灰色の直方体。シークレットと言う名前の割にその存在を隠すことのない建物は、所々で光っている照明ライトに照らされて、近寄ることすら躊躇させる不気味な雰囲気をかもし出していた。
その建物を囲うようにして洒落っ気の全くない塀が建てられ、そこからは、巡回の者が侵入者はいないかと地面を随時油断なく睨みつけている。
しかしまぁ、巡回の者が見付けなければいけないその侵入者は“地面には”足を付けていない訳で。
「………本当に、ここから……“飛び降りる”のか?」
「さぁさぁ、紐なしバンジーに挑戦さ!あぁ、でも強風に煽られて地面に激突しないように注意しとけよ!」
「殴んぞ、ロイド」
「大丈夫、大丈夫。この風も計算してあるし、落ちるのに失敗することは (多分) ないと思う」
彼らがいるのは建物の遥か上空。建物が豆粒よりも小さく見える程の高さに侵入者は浮いていた。気温はなんと、0度。しかしいくら寒くても、焔を遣う者がいる彼らにとっては、そんなことなどほとんど関係無く。ルギナスの敷いた特別な空間により、寒いと感じることはないようだ。
「いや、そこに落ちることができるのは分かってるけどさ……。何で侵入方法が『“上から”結界を破る』なんだよ…」
そう。今から施設内に入り、作戦を開始していくのだが、その潜入方法が『屋上から突撃訪問する』という、なんとも常識破りなやり方なのであった。
勿論こんな変なやり方を取るのにも、一応理由はある。
この施設の半径1kmには、不可視の球体型結界が張られている。それは透明で頑丈な壁により、上の者が許可した者以外は入れない仕組みとなっている。しかも外部から無理矢理壊された場合は約0.5秒後には既に新しい結界が張られるという用意周到さ。
横から入っていたのでは魔法結界を壊した後、敷地内に入る前に新しいものが張られてしまい、結局侵入はできないだろう。
だからこそ、自らのスピードに加え、落下スピードもプラスされる『上部からぶち破る』と言う方法を取るのだ。
あとは、いくらその魔法で守られているからといって、『そもそも上から入ろうとする馬鹿はそうそういないだろう』と言う油断のせいで、屋上付近の防御はかなり甘い、と言う理由もあったりなかったり。
ちなみに、この辺の情報も全て情報屋からの情報だったりする。
「…必要ねぇとは思うけどもう1回繰り返しとく。取り合えずは『潜入』だ。んでもって、『片っ端から人を気絶させていって、目標の資料を燃やし尽くせ』。いいな?」
「ん。潜入後、研究員全員を片っ端から傷付けずに気絶させつつ、目的地に向かえばいいんだよな?…お望み通り、しっかりやってやるさ」
「そーかい、ならいい」
「では、よろしく頼んだ」
レゴラスの言葉を最後に、会話はもう済んだとばかりに散る、4つの影。
その場に残ったのは、特徴的な赤い髪を隠す為のフードを、風に煽られないように手で押さえ付けるエリザだけが空の上に立っていた。
そして。
「……さて。じゃあ、ナビゲートは頼むぞ」
応える者のいないはずの言葉は、しかし。
『どーんと来るのにゃ!』
そんな、どこからともなく聴こえた、自信に満ち溢れた声に応えられて。
少女はその若い見た目に相応しい笑みを見せ、それから急降下していった。
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灰色の豆粒が、一気に近付いてくる。
親指と人差し指で挟めそうだった大きさが、両手を広げても包みきれないくらい大きくなる。
私は相変わらず風になびくフードを片手で押さえながら、もう片方の手を前に突き出し、頭から落ちていた。風が、私の体を撫でていく。正直言って、怖いなんてもんを軽く越えていた。
本当に地面に激突しないのか?あと結界にぶつかるまであとどれくらいなのか?ちゃんと役目を遂行できるのか?
そんな不安が私を飲み込んでいきそうになり、私は頭を振って思考を切り替える。
――――速く、速く、もっともっと速く。
ただひたすらに、それだけを考えて。この世界の重力に従って、下へ下へと落ちていく。落ちて、落ちて。
……本当は、今すぐ上を向きたい。こんなことしてないで止まりたい。…でも、それでは、アーサーの役に立つことなどできないから。
何も考えないようにして、ただひたすらに、落ち続ける。
『さぁーて。そろそろなのにゃ』
再び、突然どこからともなく声が聞こえてきた。耳元では風が大合唱を奏でていると言うのに、その声は何よりも明瞭だった。
「……分かった。カウントダウンを」
『OK。それじゃあ、………3……2……1……今にゃ!』
「硬化魔法『鉄拳制裁』!」
瞬間、魔法強化された突き出した右手に感じる、重い衝撃。それは右手を伝って全身に染み透り。
しかし、その感覚は嘘のようにすぐに消えてなくなった。直後、代わりにぬるりと何かにめり込んでいくような感覚を覚える。
成功だ。結界内に無事潜入完了。
再び落ち始める体を回転して姿勢を変え、足を下に持ってくる。真下に見えるのは、無人の屋上だった。
「よ…っと!……さて、扉はどこだ?」
大丈夫。ここからは、いつもやっていることと同じだ。『いつも通り』に気配を消して、『いつも通り』に相手の意識を奪わんとする。
…それなら、それだけなら、ちゃんと出来る。とある馬鹿師匠のおかげで。
辺りを見回し、そこにあったパスワード認証システムの付いたドアのドアノブに手をかけた。
勿論、パスワードなんてものは入力していない。…普通ならパスワードを入力しないと開く訳もないのだから、端から見たら私はさぞ滑稽に写るだろう。
……普通なら、だが。
予想通り、がちゃりと。
扉は、本来迎えれるべきでない私に向けて、そんな歓迎の音を立てた。
それを確認した私は、部屋一帯によく分からない物を広げて、一生懸命に『きーぼーど』とやらに指を叩き付けているだろう黒猫を想像し、少し笑ってしまう。
魔法や魔術には、ある弱点がある。それは、効果の維持に関する問題だ。魔法や魔術は、基本魔力を言葉や動作で操作し、効果の形を作るという原理なのだが、それは時間とともに薄れ、やがては消えていく。それを解決するためには、常に魔力を流し続ける必要があるのだ。その補給の仕方は1日に1回捧ぐ方法であったり、魔力の籠った岩石を与えたりと、色々あるがどれもやがては尽きる運命にある。
それを補うために、この建物は魔法とは違う『科学』とか言う最新の技術を取り入れて建てられているらしい。
魔法と科学による二重の稼働力で、例え魔法が妨害などにより機能しなくなっても、科学が作り出す動力は残っているので、常に安心だと考えたのだろう。
科学はまだ世界にあまり認知されていないものだから、敵によって機能が落ちることなどない。不可能だ。…そう、考えて。
「その結果が『これ』か。やはり過信はいけないな…」
『そうにゃ。あまり猫の技術をなめてると痛い目に遭うにゃよ?』
しかし、そんな研究員の考えに反し、黒猫は容易くそれをやってのけた。
しかも、彼らの科学技術を遥かに越える力を持ってして、彼らに気付かれることなく科学システムを乗っ取ったのだ。圧倒的技術力と言うしかない。
そんなことを考えながら、ルギナスが説明していた手順を1から思い出し、羅列していき。
一度、深呼吸。
「それじゃ、お邪魔しようか」
そうして内部に入るのと同時、けたたましい警報が私の鼓膜を揺るがした。