黒い猫
紅く染まった空。人の1日の終わりを知らせるその色を、巨木に腰掛けた1人はただ静かに眺める。
「主、もうそろそろ出発するのにゃ」
突如現れたのは、黒い猫。いや、黒よりも黒らしい、言うなれば……そう、闇。猫の形をした全てを覆い隠すような底無しの闇が、アーサーに話し掛けていた。
「分かった。…でも、もう少し待ってくれるか?」
「どうしたのにゃ?」
アーサーが見つめる先には、この空が染めている太陽があった。その太陽は今、地平線に身を沈めようとしている。
ただ、遠くを見るアーサーの瞳は、その夕日を見ていると言うより、夕日の奥にある『何か』を見出だそうとしているように黒き猫は感じた。
「なぁ…黒猫」
「……にゃんでしょう?」
「運命って…あると思うか?」
「……」
またか、と黒猫は自分の考えを纏めながら思った。この主はたまに、こんな風に答えがあるのかどうか判断することすら難しい質問を彼にしてくることがある。アーサーとしても、別に正確な答えを望んでいる訳ではない。ただ、何となく黒猫の答えを聞いて、再び思考の海に沈むだけだ。主が一番に望んでいるのは多方的な考えである。
よって、黒猫は思った自分の考えをそのまま自分の目線で語る。
「ないと思うにゃ」
「それはなぜ?」
「あったとしても、それは神様でも見ることが出来ないからにゃ。誰にも認識されていないものは、それは存在しているとは言えにゃいからにゃ」
「……。認識されていなければないのと同義…」
そう呟いてから、アーサーは立ち上がった。その顔はなんとも言いがたく、強いて言うなら無表情に近いものだった。
彼が考え事をしている時はいつもこんな顔をしている。恐らく表情から考えていることを読まれないようにするためだろうが、黒猫にとってこの表情はあまり見たいものではなかった。
アーサーは、恐ろしいまでにどこまでも真っ直ぐである。
全てを平等に考え、助けを求める者全てに救いを与えようとする(この道場がある理由も、それが原因である)。しかし、もちろんこの考え方を完璧に達成することは不可能だ。なぜなら、この世界が広いから。いくら世界の監視者で沢山の力を持つとはいえ、全ての者を救うなど夢のまた夢だ。
黒猫の操る闇は、黒猫が闇と認識したところにならどこにでも侵入できる。それは、心の闇とて然りだ。心という実際には存在しないものでも、黒猫が『在る』とさえ思えばそれでいいのだ。だから、人の暗い思考なんかは手に取るように分かってしまう(それに共感できるかはまた別の問題だが)。
だからこそ、アーサーの真っ直ぐさを、より痛感してしまう。他の人なら気にも留めていないような、助けることの出来なかった者達に対する異常なまでの深い後悔を。全てを救えない自分を叱り、完璧など不可能と知っている自分を騙しながらも懸命に完璧にしようとする、その内心を。
「……主、そんにゃ変な顔でぼさっとしてにゃいでさっさと行こうにゃ」
「…何かひどい言われようだな」
「主はいつもの一見無害そうにゃ顔で微笑んでいればそれでいいのにゃ」
「おいちょっと待て、一見ってどういうことだよ」
「にゃんにゃんでしょうかねぇ」
―――だからこそ、この猫はアーサーに笑って欲しいと願ってしまう。
無理なことだと知っていても、色んなものを背負い込んで苦しむアーサーを、見たくないから。
先程までは赤かった世界が、今度は暗く染まり始めている。この世界の二つ目の顔が、地上を見守るように空に淡く輝いていた。