発生
それはアシヒコが発生してから九年が経過した頃。プログラムを組み直した誤龍の動作を確認する為に、浮遊テストを繰り返していた時に起こった。
普段プレートの下に隙間なく広がっている、分厚い灰色の雲が、どういうわけかその時は僅かに薄くなっていたのだ。それは次第に切れ目となり、その下に広がるものを露出してしまっていた。誤龍の浮遊テストを行っていたアシヒコは、偶然にもその雲の切れ目の真上を通り過ぎたのだ。
雲の切れ目に見えたのは、決して興味を持っていけないと教えられた、地上の光景そのものだった。
最初は薄暗くてよく見えなかったが、それが知識として知っているだけのヤマやウミであるという事に思い至り、食入るように地上を凝視した。すると不思議と、薄暗かったはずの地上に明るみが差し、その全容を捉えることができた。
この時、雲の切れ目は、切れ目と呼ぶには大きすぎる程に途切れていた為、天から降り注ぐ光は雲に遮断される事なく地上に注がれたのだ。
アシヒコが捉えた地上は、今まで見てきたものでは決して持ちえない圧倒的な存在力を放っていた。それは彼の美の象徴となり、ほどなくして憧れとなった。
地上を眺めることができたのは時間にして僅かなものだったが、魅了された者にとっては、その時間は永劫だった。
少しでも地上に近付きたい、そんな思いを抱きはじめたアシヒコを、カルカラは警戒しつつも、支持してしまった。
地上は穢れの対象として、興味を持つことや、まして調べたりすること自体が禁じられている。偶然にしても地上を見たなどという事を報告すれば、アシヒコには解体処分が下されるだろう。それぐらいの禁忌である事は、アシヒコだって承知済みだ。だが、どれだけの危険を払おうとも、地上に近づくことを諦めないであろうことがカルカラには良く分かっていた。だから、アシヒコが自分のパーソナルデータを自ら書き足していることも黙っている。
先生が知ったら、どうなるのだろう。私も処分の対象になるのだろうか? カルカラが気になったのはその点だ。かつて処分を受けた者は、アシヒコのように自らを変化させ、適応外の烙印を押された存在に限ったものだった。それを助長、または幇助したりした者も処分されたという例は、少なくともデータ上にはない。
カルカラは、アシヒコの依頼で〝あるもの〟を制作していた。何を目的とするものなのかも理解した上で制作を続けている。
残された時間、そのほとんどをカルカラはアシヒコの為に使うだろう。
カルカラの協力によってアシヒコの願いは遂げられるのだ。
その記憶は誤龍が引き継ぐ。
次代のヒトも地上に思いを馳せるのだろうか。
或いは、地上が禁忌とされている意味を知るのかもしれないが。
予定では、制作は来年には終えているはずであり、時期を見計らって、計画は遂行される。その為にアシヒコは自らのデータを書き足す。間に合うかどうかはそこにかかっているのだから。だがデータの書き足しは非常に繊細な操作が必要で、通常、自分で行うような事はない。実際、アシヒコの様子を見ていると不具合が出てきているように思えてならない。目的を達する前に壊れてしまっては意味がないと、度々センターで調整を受けるよう伝えてはいるが、今までの書き足しまで調整されてしまう恐れからか、アシヒコは頑なにセンターでの調整を拒んだ。
カルカラにとって、地上のことなどどうでも良いことだった。彼女が案じているのは唯一の同朋であるアシヒコの身だけだ。本来であれば強制的にでもセンターに連れて行くところだが、そこでの結果次第でアシヒコは残りの時間を絶望しながら過ごすことになってしまう。そうした想像がカルカラの判断を躊躇わせた。
これから、どうなるのだろう。
漠然とした不安は、小さな箱を満たし、染み出すように全身を覆う。その正体が何であるのか、それに終ぞ彼女が気付くことはない。