灰冠の令嬢は、祖国の葬列を見送る
序章 処刑台の婚約破棄
王都アルヴェインの中央広場には、朝から冷たい雨が降っていた。
広場を埋め尽くす群衆は傘も差さず、濡れた石畳の上で処刑台を見上げている。誰もが待っていた。かつて王太子の婚約者として栄華を誇った令嬢が、首を落とされる瞬間を。
処刑台の中央に立つエレオノーラ・グランディアは、喪服のような黒いドレスをまとっていた。
両手には鉄の枷。
足元には泥水。
美しかった銀色の髪は乱れ、頬には取り調べの際につけられた傷が残っている。
それでも彼女は背筋を伸ばしていた。
「罪人エレオノーラ・グランディア!」
広場に、アルヴェイン王国第一王子セドリックの声が響き渡る。
黄金の髪に青い瞳。国民から「太陽の王子」と呼ばれる美貌は、今日ばかりは勝利に酔った残酷な笑みに彩られていた。
「貴様は公爵令嬢という身分を盾に、聖女リリアナを幾度となく虐げた。階段から突き落とし、毒を盛り、最後には魔獣を操って命を奪おうとした。その罪、万死に値する!」
セドリックの隣では、桃色の髪をした少女が震えていた。
聖女リリアナ・ベル。
平民出身でありながら治癒の力を発現し、神殿によって見いだされた奇跡の少女。潤んだ琥珀色の瞳は、いまにも涙がこぼれそうだった。
「エレオノーラ様……」
リリアナは胸元で手を組んだ。
「わたしは、あなたを憎みたくありません。どうか罪を認めて、心から悔い改めてください。そうすれば、神様もきっと……」
「黙れ」
エレオノーラの声は静かだった。
だが、その一言でリリアナは怯えたように身をすくめた。
群衆から罵声が飛ぶ。
「最後まで聖女様を脅すのか!」
「悪女め!」
「首を落とせ!」
セドリックは満足げに片手を上げ、群衆を静めた。
「最後に申し開きがあるなら聞こう」
「申し開き?」
エレオノーラは、かすかに笑った。
「では殿下。私がリリアナ様を階段から突き落としたという日、私はどこにいたかご存じですか」
「学園にいたはずだ」
「北部の飢饉への対応について、王宮の会議室で宰相閣下と協議しておりました。議事録もございます」
広場がわずかにざわめく。
「毒を盛ったとされる夜、私は?」
「晩餐会にいた」
「途中で退席し、王妃陛下の発作を治めるため、医務室におりました。侍医七名が証言できます」
セドリックの表情が歪んだ。
「魔獣を操ったという証拠は?」
「リリアナが、貴様の紋章が刻まれた魔石を見つけた」
「それが偽造でないと、誰が証明したのです?」
「見苦しいぞ、エレオノーラ!」
セドリックは怒鳴った。
「貴様はいつもそうだ! 理屈ばかりを並べ、人の心を理解しようとしない! リリアナは苦しんでいる。それこそが何よりの証拠ではないか!」
エレオノーラはしばらく王子を見つめた。
やがて、雨に打たれながら目を閉じた。
「なるほど」
その声音に怒りはなかった。
悲しみさえ、もう残っていなかった。
「この国では、泣いた者の言葉が法より重いのですね」
「何だと?」
「十年間、私は王太子妃となるために学びました。国庫の収支を覚え、諸外国の言語を修め、災害時の配給制度を整え、疫病への備蓄計画を作った。殿下が狩猟や夜会を楽しんでいる間も、私はあなたの未来のために働きました」
「恩着せがましいことを言うな!」
「ええ。もはや、恩に感じていただく必要はありません」
エレオノーラは群衆へ顔を向けた。
「王都東区の水路を設計したのは、グランディア公爵家です。北部へ食糧を送ったのも、西部の堤防を修復したのも、国境の魔獣を封じる結界を維持してきたのも我が家です」
兵士たちの中で、何人かが動揺した。
だが、群衆の多くは鼻で笑った。
「嘘をつくな!」
「税金でやっただけだろう!」
「聖女様に謝れ!」
エレオノーラは、その一人一人の顔を記憶するように眺めた。
「そうですか」
彼女は、ひどく穏やかに微笑んだ。
「では、もう必要ありませんね」
セドリックが眉をひそめる。
「何がだ」
「グランディア公爵家が、この国を支える必要がありません」
「処刑される女が何を言う!」
セドリックが手を振り下ろした。
「刑を執行せよ!」
処刑人が巨大な斧を持ち上げる。
エレオノーラは膝をつかされた。
首を断頭台に置く直前、彼女は王城の尖塔を見上げた。
十年間、守ろうとした国。
父が命を賭け、母が病に倒れ、兄が片目を失ってまで支えた祖国。
その結末が、これだった。
「さようなら、アルヴェイン」
エレオノーラは小さく告げた。
「あなた方が選んだ明日を、どうか最後まで愛してください」
斧が振り下ろされた。
鋼鉄の刃が、細い首へ迫る。
しかし次の瞬間、処刑台を中心に銀白色の光が爆発した。
雨粒が空中で静止する。
斧が砕け散る。
処刑人が吹き飛ばされ、セドリックは情けない悲鳴を上げて尻もちをついた。
「何だ!?」
光の向こうから、黒い軍装をまとった男たちが現れた。
先頭に立つのは、漆黒の髪と赤い瞳を持つ青年。
大陸北方の軍事大国、ヴァルカリア帝国の第二皇子レオンハルトだった。
「本人の同意なく刑を執行しようとは、随分と野蛮な国だ」
レオンハルトは外套を外し、濡れたエレオノーラの肩に掛けた。
セドリックは顔を青くした。
「な、なぜ帝国の皇子がここに……」
「国際裁判所からの停止命令を届けに来た」
レオンハルトは一枚の書状を掲げた。
「エレオノーラ・グランディア公爵令嬢には、国境結界の共同管理者として帝国との契約がある。彼女を処刑するなら、アルヴェイン王国は条約違反国となる」
「そのような契約は知らない!」
「お前が知らぬことは、存在しないことになるのか?」
レオンハルトの冷たい視線に、セドリックは言葉を失った。
帝国兵が処刑台を取り囲む。
その中から、白髪の老紳士が進み出た。エレオノーラの父、アルベルト・グランディア公爵だった。
「父上……」
「遅くなってすまなかった」
父は娘の手枷を外した。
その手は震えている。だが、瞳には怒りが燃えていた。
「グランディア公爵領は、本日をもってアルヴェイン王国から独立する」
広場が静まり返った。
「何を、勝手なことを!」
セドリックが立ち上がる。
「貴様らの領地は王国のものだ! 兵を差し向け、反逆者どもを皆殺しにしてやる!」
「できるものならなされよ」
公爵は懐から封書を取り出した。
「東部騎士団の七割は、我が領の出身者。北部守備隊の兵糧は我が家が供給し、王都の魔導防壁は娘が管理している。そして先ほど、王国に仕えるすべてのグランディア家臣へ撤退命令を出した」
「そんな……」
「陛下には三度、正式な裁判を求めた。証拠の精査も要求した。しかし陛下と殿下は、すべてを握り潰した」
公爵は群衆を見渡した。
「ゆえに我らは去る。貴殿らが悪女と呼んだ娘の庇護から、王国全土を解放しよう」
皮肉の意味を理解した者は、まだ少なかった。
エレオノーラは処刑台を下りた。
その背中へ、リリアナの声が飛ぶ。
「待ってください!」
リリアナは泣いていた。
「こんなの、おかしいです! わたしはエレオノーラ様に謝ってほしかっただけで……国を壊してほしいなんて頼んでいません!」
エレオノーラは足を止めた。
振り向かずに答える。
「壊すのではありません」
「では、何を……」
「手を離すだけです」
それがエレオノーラ・グランディアとアルヴェイン王国との、最後の別れとなった。
第一章 悪女のいない王都
エレオノーラの処刑が阻止されてから、七日が過ぎた。
王都では、平穏な日々が続いていた。
少なくとも、王族と貴族たちはそう思っていた。
「見たか、あの女の最後の顔を!」
王宮の祝宴で、セドリックは上機嫌に笑っていた。
「帝国の力を借りなければ何もできない臆病者め。独立など長くは続かぬ。泣きついてきたら、今度こそ処刑してやる」
周囲の若い貴族たちが同調する。
リリアナは王子の隣で、美しいドレスをまとっていた。
エレオノーラの処刑は失敗したものの、婚約破棄は成立した。セドリックはその日のうちに、リリアナを新たな婚約者に指名したのだ。
「でも、わたしなんかが王太子妃になっていいのでしょうか」
「君こそふさわしい。冷酷なエレオノーラと違い、君には優しさがある」
「セドリック様……」
二人が見つめ合ったとき、宴会場の扉が激しく開いた。
「殿下!」
財務卿が転がり込んでくる。
「何事だ。無礼だぞ」
「国庫が……国庫の金が足りません!」
セドリックは眉をひそめた。
「金庫には十分な金貨があるだろう」
「帳簿上はございます。しかし、その大半がグランディア公爵家からの借入金です。独立に伴い、返還を要求されております」
「拒否すればよい」
「契約には国王陛下の署名がございます。拒否すれば債務不履行となり、外国商会との取引がすべて停止します」
「ならば税を上げろ」
「すでに平民への税率は限界です」
「貴族から取ればいいではないか」
宴会場から笑い声が消えた。
貴族たちは一斉に目をそらす。
「……その話は後にしろ」
セドリックは杯を傾けた。
「たかが金の問題だ」
その翌日、王都東区で水が止まった。
グランディア公爵家の技術者が一斉に退職し、水路の制御装置を操作できる者がいなくなったためだった。
三日後には下水が逆流した。
五日後にはパンの価格が三倍になった。
グランディア領から運ばれていた小麦が途絶えたうえ、商人たちが王国の信用不安を恐れ、取引を中止したためである。
さらに十日後、王都を囲む魔導防壁が停止した。
小型の魔獣が城壁を越えて侵入し、市場を襲った。
衛兵は応戦したが、これまで防壁に頼っていたため、実戦経験がない。討伐までに三十七名の死者が出た。
民衆の怒りは、最初、エレオノーラへ向けられた。
「悪女が復讐のために水を止めた!」
「食糧を奪った!」
「魔獣を送り込んだ!」
しかし水路は王国が接収していた。
食糧は正当な代金を払えば帝国経由で購入できた。
魔導防壁も、必要な魔石を交換し、技術者に賃金を支払えば再起動できた。
それを拒んだのは王家だった。
「反逆者に頭を下げるわけにはいかぬ」
国王ローデリックは玉座で言い放った。
「民に我慢させよ。飢えれば、自らグランディア領へ攻め込むだろう」
だが、飢えた民が向かったのは公爵領ではなかった。
王宮だった。
第二章 灰冠領の夜明け
独立したグランディア公爵領は、国名を「セレネ自由領」と改めた。
豊かな鉱山と農地を持つとはいえ、人口はアルヴェイン王国の五分の一。独立直後の混乱は避けられなかった。
エレオノーラは休む間もなく政務に戻った。
「東部の避難民は?」
「本日までに二千四百名です」
「国境の検査所を増やしてください。武器と伝染病の検査は厳重に。ただし、子どもと病人を長時間並ばせないように」
「王国の間者が紛れ込む恐れがあります」
「承知しています。それでも、飢えた人々を見殺しにはできません」
執務官が去ったあと、エレオノーラは椅子の背にもたれた。
処刑台で受けた傷は、まだ完全には癒えていない。
眠れば、斧が落ちる夢を見た。
群衆の罵声が聞こえる。
目覚めたあとも首に刃の感触が残り、呼吸ができなくなることがあった。
「また眠っていないな」
声とともに扉が開いた。
レオンハルトが湯気の立つカップを二つ持って入ってくる。
「皇子殿下が給仕の真似事ですか」
「ここではただの大使だ。それに、毒見は済ませてある」
「私が毒を恐れていると?」
「恐れていないから心配している」
レオンハルトは彼女の机にカップを置いた。
蜂蜜を入れた温かなミルクだった。
「アルヴェインの状況は悪化している」
「報告は受けています」
「王国から来る避難民は、さらに増えるぞ」
「受け入れます」
「お前を悪女と呼び、石を投げた者もいるかもしれない」
「それでもです」
レオンハルトは深いため息をついた。
「なぜ、そこまで救おうとする」
「救いたいわけではありません」
「では?」
「私が見捨てたせいで死んだ人間の顔を、夢に見たくないだけです」
「それは優しさと呼ぶのではないか」
「いいえ。臆病です」
エレオノーラはミルクに口をつけた。
甘さが、乾いた喉に染みた。
「私は国を守ることが正しいと信じていました。正しく努力すれば、いつか理解されると思っていた。ですが、実際には何一つ伝わっていなかった」
「理解しようとしない者へ、伝える必要などない」
「それでは為政者にはなれません」
「エレオノーラ」
レオンハルトの声が低くなる。
「お前はまだ、自分を処刑しようとした国の王太子妃であろうとしている」
エレオノーラの指が止まった。
「違います」
「ならば、なぜ自分だけを責める」
「私は……」
「セドリックの愚行も、国王の暴政も、リリアナの虚言も、お前の責任ではない」
「虚言と決まったわけではありません」
「証拠はそろっている」
レオンハルトは封筒を机に置いた。
中には、神殿の会計帳簿の写しと、数通の手紙が入っていた。
「魔石を偽造した職人を確保した。依頼主は神殿の司祭だ。代金はリリアナ名義の口座から支払われている」
エレオノーラは手紙を読んだ。
階段で転倒する際に腕を守る方法。
毒を飲んだように見せかける薬品。
魔獣を誘導する香料の入手記録。
すべてが計画されていた。
「なぜ……」
「リリアナは聖女ではない」
レオンハルトは続けた。
「帝国の魔術院で調べたところ、彼女の力は治癒魔法ではなく、生命力の移し替えだ。他人の生命力を奪い、別の者へ与えている」
「では、治療を受けた民は?」
「周辺で原因不明の衰弱死が増えている」
エレオノーラは吐き気を覚えた。
リリアナが奇跡を披露するたび、誰かが人知れず命を奪われていたのだ。
「本人は知っているのですか」
「手紙を見る限り、知っている」
最後の手紙には、リリアナ自身の筆跡でこう記されていた。
『エレオノーラさえいなくなれば、わたしが国で一番愛される女性になれる。少しくらいの犠牲は、神様も許してくださるでしょう』
読み終えたエレオノーラは、手紙を静かに机へ戻した。
「これを公表してください」
「よいのか」
「彼女の罪を裁判で明らかにします」
「復讐とは言わないのだな」
「復讐なら、アルヴェインとともに滅びるのを待てばよいのです」
エレオノーラは顔を上げた。
「私が望むのは、真実が記録されることです。百年後、誰かが歴史書を開いたとき、処刑台に立たされた女を単なる悪女だと思わないように」
第三章 聖女の奇跡
アルヴェイン王国では、暴動が相次いでいた。
王都の倉庫は焼かれ、商店は略奪され、夜になると路地には死体が転がった。
王宮だけは毎晩、華やかな光に包まれていた。
「民の不安を鎮めるためだ」
セドリックは国費で舞踏会を開き続けた。
王家が健在であると示せば、民も安心する。そんな理屈だった。
リリアナは宝石に囲まれ、王太子妃としての日々を楽しんだ。
だが、彼女にも悩みがあった。
「なぜ治らないのです!」
王妃の寝室で、侍医が床にひれ伏していた。
王妃は高熱に苦しみ、呼吸も浅い。
かつて発作のたびにエレオノーラが薬の配合を調整していたが、処方記録は専門的すぎて、侍医たちには理解できなかった。
「リリアナ、奇跡を」
セドリックに促され、リリアナは王妃の手を握った。
白い光が部屋を満たす。
王妃の呼吸が少しだけ穏やかになった。
同じ時刻、城下の救護院で、七人の子どもが息を引き取った。
「足りない……」
リリアナの額に汗が浮かぶ。
以前なら、城下に満ちていた生命力を容易に集められた。
しかし飢餓と疫病で民の力が弱まり、奪える生命力が少なくなっている。
「もっと人を集めてください」
「何?」
「祈りを捧げる人が多いほど、奇跡の力が強くなるのです」
翌日、兵士たちは市民を王宮前広場へ連行した。
病人、老人、幼い子どもまで、合わせて三千人。
リリアナが両手を掲げると、巨大な光の柱が王宮を包んだ。
王妃の熱は下がった。
広場では百十六人が倒れた。
そのうち八十二人が死亡した。
王家は「祈りの最中に疫病が発生した」と発表した。
だが、生き残った者たちは見ていた。
聖女が笑った瞬間、自分たちの家族が干からびるように倒れたのを。
「聖女は命を奪う化け物だ」
噂は瞬く間に広がった。
リリアナが街を歩けば、かつて花を投げた民衆が石を投げるようになった。
「違う!」
彼女は王宮の自室で鏡を叩き割った。
「わたしは聖女よ! みんなを救っているの! 少しくらい命を借りただけじゃない!」
背後で扉が開く。
セドリックが立っていた。
「リリアナ」
「セドリック様。信じてくださいますよね?」
「もちろんだ」
彼は彼女を抱き締めた。
リリアナが安堵した次の瞬間、両腕を兵士につかまれた。
「え……?」
「聖女リリアナを、王妃陛下殺害未遂の容疑で拘束する」
「何を言っているの?」
「お前の奇跡は邪術だった。私は騙されていたのだ」
「違う! あなたは知っていたでしょう!」
リリアナの顔から血の気が引く。
「最初に奇跡を見せたとき、倒れた侍女を隠したのはあなたじゃない!」
「黙れ!」
「エレオノーラを追い出せるなら何でもいいって言ったでしょう! 魔石を作らせたのも、証人を買収したのも、全部あなたが命令したのよ!」
セドリックは彼女の頬を打った。
「この女を地下牢へ連れていけ!」
「離して! わたしがいなければ王妃は死ぬわ! この国だって滅びる!」
叫び声が廊下の奥へ消えていく。
セドリックは震える手を握り締めた。
その夜、王妃は亡くなった。
第四章 王子の戴冠
王妃の死から三日後、国王ローデリックも倒れた。
酒に溺れ、食事も取らず、最後には寝台から立ち上がることもできなくなった。
意識を失う直前、国王はセドリックへ王権を委譲した。
ろくな準備もないまま、戴冠式が行われた。
城下では疫病で死んだ者を焼く煙が立ち上り、教会の鐘が一日中鳴っていた。
それでもセドリックは、黄金の冠をかぶった。
「余こそアルヴェイン王国第十八代国王、セドリック・アルヴェインである!」
拍手はまばらだった。
列席した貴族の半数は、すでに国外へ逃亡する準備を進めている。
「新王陛下」
老宰相が進み出た。
「セレネ自由領から最後通牒が届いております」
「反逆者の文書など読むな」
「国境地帯の三都市が自由領への加入を求めております。王国軍は給与の未払いにより、半数以上が脱走しました」
「徴兵せよ」
「動員できる民がおりません」
「ならば傭兵を雇え!」
「支払う金がございません」
セドリックは玉座の肘掛けを殴った。
「どいつもこいつも、金がない、兵がいないと! それを用意するのがお前たちの仕事だろう!」
「これまではエレオノーラ様が用意しておられました」
宰相の一言で、広間が凍りついた。
「……何だと」
「予算案、兵站計画、外交交渉、疫病対策。殿下、いえ陛下の名で発表された政策の多くは、あの方が作成したものです」
「余を侮辱するか!」
「事実を申し上げております」
「処刑しろ!」
兵士は動かなかった。
宰相はゆっくりと首から印章を外し、床に置いた。
「本日をもって、宰相職を辞します」
続いて財務卿が印章を置く。
司法卿も、騎士団長も、次々に辞任を告げた。
「待て」
セドリックの声が震えた。
「余を置いて、どこへ行く」
「セレネ自由領へ亡命いたします」
「裏切り者!」
「いいえ、陛下」
老宰相は深く頭を下げた。
「我らは最後まで王国に仕えました。王国が国民を見捨てたゆえ、国民の側へ戻るのです」
扉が閉まる。
広い謁見の間に残ったのは、セドリックと、わずかな近衛兵だけだった。
彼は玉座の上で初めて、自分が王になったのではなく、沈みゆく船の船長にされたのだと気づいた。
第五章 公開裁判
セレネ自由領の中央議会堂で、リリアナ・ベルとセドリック・アルヴェインに対する国際公開裁判が開かれた。
二人は王都を脱出しようとしたところを、反乱軍によって拘束されていた。
傍聴席には、各国の使節と記者、被害者の遺族が並んでいた。
エレオノーラは原告席に座っている。
リリアナは粗末な囚人服を着せられ、以前の輝きを失っていた。
一方、セドリックは鎖につながれてなお、王として振る舞おうとしていた。
「余は一国の国王だ! このような裁判に従う義務はない!」
裁判長は眉一つ動かさない。
「アルヴェイン王国は臨時議会の決議により王政を廃止しました。あなたは現在、何の地位も持たない私人です」
「馬鹿な……」
「審理を開始します」
証拠が一つずつ読み上げられた。
リリアナによる虚偽の告発。
セドリックによる証拠の捏造。
裁判手続きの妨害。
市民からの生命力収奪。
救済物資の横領。
反対者の不法処刑。
証言台には、かつてエレオノーラを糾弾した者たちも立った。
買収された侍女。
命令に従った司祭。
捏造に協力した魔道具職人。
誰もが口をそろえて言った。
「王太子殿下の命令でした」
「聖女様から金を受け取りました」
「エレオノーラ様は無実です」
裁判の最終日、エレオノーラ自身が証言台へ立った。
「被告セドリック」
裁判長が尋ねる。
「原告に質問はありますか」
セドリックは彼女をにらんだ。
「すべてお前の計画だったのだろう」
「何のことでしょう」
「わざと国を弱らせた。余が失敗するよう仕向けた。そうでなければ、これほど急に国が崩れるはずがない!」
「私は十年前から、国庫の危機を報告していました」
「聞いていない!」
「報告書には殿下の署名があります」
「お前が勝手に書いた!」
「毎月の会議でも説明しました」
「難しい言葉ばかりで、理解できるはずがないだろう!」
傍聴席から、押し殺した声が漏れた。
セドリックは自分が何を口走ったのか理解していない。
「では、殿下」
エレオノーラは静かに問うた。
「理解できないとき、なぜ質問なさらなかったのですか」
「余は王になる人間だぞ」
「だからこそ、学ぶべきでした」
「お前が支えればよかった!」
「支えておりました」
「ならば最後まで支えろ!」
セドリックの叫びが法廷に響いた。
「婚約者だっただろう! 余を愛していたのではないのか!」
エレオノーラは、長い間彼を見つめた。
かつて彼女は、この男を愛そうと努力した。
幼い頃、手を取り合って庭を歩いたこともある。熱を出した彼のそばで、一晩中看病したこともあった。
いつか立派な王になると信じていた。
けれど、その少年はどこにもいない。
「愛しておりました」
エレオノーラは答えた。
「昔のあなたを」
セドリックの瞳が揺れた。
「あなたが民を愛し、誠実に国を治める王になると、信じておりました。ですが、あなたは愛されることだけを望み、誰かを愛する責任から逃げ続けた」
「違う……」
「私はあなたの母でも、教師でも、救済者でもありません」
エレオノーラの声は震えなかった。
「あなたが自ら選んだ人生の結末を、私に背負わせないでください」
セドリックは崩れるように椅子へ座った。
続いてリリアナが立ち上がった。
「エレオノーラ様」
以前と同じ、哀れっぽい声だった。
「わたし、怖かったんです。平民だったわたしには何もなかった。聖女になれなければ、また誰にも愛されない生活に戻ると思って……」
「それで他人の命を奪ったのですか」
「あなたには分からないわ!」
リリアナは突然叫んだ。
「公爵令嬢として生まれたあなたに、何が分かるの! お金も、家族も、美貌も、婚約者も、全部持っていた! わたしは少しくらい奪ってもよかったはずよ!」
「あなたが持っていなかったことは、私から奪う理由にはなりません」
「わたしは苦しんでいたの!」
「あなたが殺した人々も苦しんでいました」
「謝るわ! だから許して!」
「私ではなく、遺族の方々へ謝ってください」
リリアナは傍聴席を振り返った。
そこには子どもを失った母親、妻を失った夫、家族全員を奪われた老人が座っていた。
どの顔にも、憎しみすらなかった。
あるのは、取り返しのつかない喪失だけだった。
「違う……」
リリアナは後ずさる。
「そんな目で見ないで。わたしは聖女よ。みんな、わたしを愛していたじゃない!」
誰も答えなかった。
裁判長が判決を読み上げる。
「被告リリアナ・ベル。禁忌魔法の行使、百九十八名に対する殺人、六百四十一名に対する傷害、証拠捏造および虚偽告発の罪により、終身禁固刑に処す。魔力封印を施し、被害者救済のための労役を命じる」
「嫌よ!」
「被告セドリック・アルヴェイン。不法な死刑命令、証拠捏造、横領、虐殺幇助、戦時国際法違反の罪により、終身禁固刑に処す」
「余は王だ! 余を誰だと思っている!」
衛兵たちが二人を連れていく。
リリアナは泣き叫び、セドリックは罵声を上げ続けた。
エレオノーラは、その背中を黙って見送った。
胸が晴れることはなかった。
失われた命は戻らない。
傷つけられた尊厳も、処刑台で味わった恐怖も、判決一つで消えるものではない。
これが復讐の結末なのだとしたら、あまりにも虚しかった。
「終わったな」
隣に立ったレオンハルトが言う。
「いいえ」
エレオノーラは首を振った。
「ようやく、始められるのです」
第六章 王国の葬列
アルヴェイン王国の王政は、建国から四百十二年目に幕を閉じた。
旧王都では臨時政府が発足し、セレネ自由領との統合を求める声が上がった。
しかしエレオノーラは、即時統合を拒否した。
「自由領が旧王国を征服した形にしてはなりません」
議会で彼女は説明した。
「各都市が代表を選び、新しい国の形を決めるべきです。王家が去っただけで、民自身が考えることを放棄すれば、いずれ第二のセドリックが現れます」
議論は一年に及んだ。
旧王国の七州とセレネ自由領は、連邦国家として再出発することを決めた。
新しい国の名は、ルーメン連邦。
「民自身が灯を持つ国」という意味だった。
初代執政官には、エレオノーラを推す声が圧倒的に多かった。
彼女は一度、固辞した。
また国のすべてを背負えば、同じ過ちを繰り返す。その恐れがあった。
だが、議会から届いた就任要請書には、こう書かれていた。
『我々は、あなたに救ってほしいのではありません。あなたとともに、この国を救いたいのです』
エレオノーラは就任を受け入れた。
ただし任期は四年。再任は一度まで。執政官であっても法の上には立てない。
彼女自身が最初に、その原則へ署名した。
就任式の日、旧王国最後の国葬も行われた。
亡くなった国王夫妻だけでなく、飢饉、疫病、暴動、そして聖女の奇跡によって犠牲になったすべての人々を弔う葬列だった。
黒い衣服をまとった市民が、王都の大通りを静かに歩く。
エレオノーラも灰色の冠を手に、列の先頭を歩いた。
かつて自分が処刑されかけた広場に差しかかる。
断頭台は撤去されていた。
代わりに、小さな石碑が建てられている。
『ここで、法なき正義が一人の無実を殺そうとした。
正義を叫ぶときこそ、我らは証拠を求める。
涙を信じるときこそ、沈黙させられた者の声を聞く。
同じ過ちを繰り返さぬために』
広場の隅に、一人の老女が立っていた。
エレオノーラへ石を投げたことのあるパン屋の女主人だった。
「執政官様」
老女は震えながら膝をついた。
「あの日、私はあなた様に石を投げました」
エレオノーラは足を止めた。
「聖女様をいじめた悪女だと信じていたんです。何も調べず、みんなが言うから……私は……」
「立ってください」
「申し訳ございません」
「謝罪は受け取ります」
エレオノーラは老女を立たせた。
「ですが、忘れないでください。次に誰かが悪人だと指を差されたとき、同じ石を拾わないように」
「はい……」
「それで十分です」
葬列は進む。
王城の塔から、かつての王家の旗が下ろされた。
代わりに掲げられたのは、紺色の夜空に七つの灯を描いた連邦旗だった。
エレオノーラは、古い旗が畳まれるのを見つめた。
「悲しいか」
隣を歩くレオンハルトが尋ねた。
「分かりません」
「憎かったのではないか」
「憎んでいました。けれど、愛してもいたのだと思います」
風が吹き、銀色の髪が揺れる。
「愛していたから、滅びる前に変えたかった。憎んだから、見捨てようとした。それでも結局、私は戻ってきました」
「後悔しているか」
「いいえ」
エレオノーラは灰色の冠を胸に抱いた。
「私はもう、呼ばれるまで国を背負いません。そして、誰か一人にも背負わせません」
レオンハルトは小さく笑った。
「強くなったな」
「以前の私は弱かったでしょうか」
「以前のお前は、壊れないことを強さだと思っていた」
「今は?」
「壊れた自分を認め、それでも歩けることを知っている」
エレオノーラは処刑台のあった場所を振り返った。
雨の中、斧を待っていた自分が見えた気がした。
あの日の彼女は、誰にも助けを求められなかった。
泣けば負けると思っていた。
苦しいと言えば、王太子妃にふさわしくないと思われると恐れていた。
「レオンハルト殿下」
「何だ」
「あの日、助けに来てくださってありがとうございました」
「今さらだな」
「今まで、言えませんでした」
「知っている」
「なぜ助けたのですか」
レオンハルトはしばらく黙った。
「条約のためだ」
「嘘ですね」
「帝国の利益のため」
「それも嘘です」
「……十年前、各国の王族が集まる式典で、お前と一度だけ話したことがある」
エレオノーラは首をかしげた。
「覚えておりません」
「私は帝国で疎まれていた。第二皇子でありながら魔力が弱く、役立たずと呼ばれていた。式典の庭で一人になっていた私に、お前は言った」
レオンハルトは苦笑する。
「『価値を決める仕事まで、他人に差し上げる必要はございません』とな」
「そのような生意気なことを?」
「十二歳のお前が、だ」
「申し訳ございません」
「謝るな。あの言葉で私は救われた」
彼はまっすぐにエレオノーラを見た。
「だから今度は、私がお前に返そうと思った。それだけだ」
葬列の鐘が鳴る。
一つの国の終わりを告げる、低く重い音だった。
「殿下は帝国へ戻られるのですか」
「その予定だったが、連邦議会から大使として残ってほしいと要請された」
「では、残られるのですね」
「お前が望むなら」
エレオノーラは少し考えた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「私個人の願いを、国政に利用するつもりですか」
「悪いか」
「外交問題になります」
「では、外交交渉を始めよう」
「長い交渉になりますよ」
「構わない。待つことには慣れている」
二人は並んで歩き出した。
そこに婚約の約束はなかった。
永遠の愛を誓う言葉もなかった。
ただ、同じ速さで歩ける相手がいる。
エレオノーラには、それで十分だった。
終章 春を待つ牢獄
王都から遠く離れた孤島に、二つの牢獄があった。
リリアナは魔力を封じられ、薬草園で働いていた。
育てた薬草は、彼女の力によって傷ついた人々の治療に使われる。かつて豪華なドレスを着ていた手は荒れ、爪には土が入り込んでいた。
「どうして、わたしだけが」
彼女は毎日つぶやいた。
謝罪の手紙を書くよう命じられても、最後には必ずこう加えた。
『でも、エレオノーラ様にも悪いところがありました』
そのため手紙は一通も遺族へ送られなかった。
彼女は自分が愛されなくなった理由を、最後まで理解できなかった。
島の反対側では、セドリックが石を切り出していた。
彼は看守に命令し、囚人たちに演説し、自分を王と呼ばせようとした。
最初の数か月は笑われた。
一年後には、誰も反応しなくなった。
無視されることは、憎まれることより彼にとって耐え難かった。
「エレオノーラを呼べ」
セドリックは看守に言い続けた。
「あの女なら余を理解する。余をここから出すはずだ」
だが、エレオノーラが島を訪れることはなかった。
彼女は二人を許さなかった。
憎み続けることもしなかった。
ただ、自分の人生から切り離した。
それこそが二人に下された、本当の判決だった。
彼らはもはや、エレオノーラの物語の登場人物ですらなかった。
一方、ルーメン連邦には春が訪れていた。
壊れた水路は修復され、荒れた畑には新しい麦が芽吹いた。
学校では身分にかかわらず子どもたちが学び、裁判所では貴族と平民が同じ法によって裁かれた。
すべてが順調だったわけではない。
議会では毎日のように争いが起きた。
税率、軍備、外交、復興の優先順位。
エレオノーラの提案が否決されることもあった。
それでも彼女は怒らなかった。
誰もが彼女に従う国は、セドリックが望んだ国と変わらない。
異なる意見を持つ者たちが、言葉を尽くして未来を選ぶ。
その不格好な営みこそ、彼女が守りたかったものだった。
執政官就任から四年後。
エレオノーラは二期目への立候補を見送った。
惜しむ声に対し、彼女はこう答えた。
「国が一人の英雄を必要とする時代は、終わらせなければなりません」
退任の日、中央広場には多くの市民が集まった。
かつて彼女へ罵声を浴びせた場所。
同じ場所で今度は、拍手と花が降り注いだ。
エレオノーラは壇上に立ち、深く頭を下げた。
「私は、皆様を許したわけではございません」
広場が静かになる。
「忘れたわけでもありません。人は、忘れることで同じ過ちを繰り返します。だから私は覚えています。石を投げられた痛みも、真実を奪われた恐怖も」
彼女は顔を上げた。
「それでも、この国の明日を信じます。傷をなかったことにするのではなく、傷を記録し、次の誰かを守るために使える国になったと信じています」
長い沈黙のあと、拍手が広がった。
初めは一人。
やがて十人、百人、数千人。
響きは広場を越え、春の空へ昇っていく。
壇上を下りると、レオンハルトが待っていた。
彼は帝国の皇位継承権を放棄し、連邦の一市民となっていた。
「これからどうする」
「まず、眠ります」
「四年分か?」
「十年分です」
「それでは私が老人になる」
「待つことには慣れているのでしょう?」
エレオノーラが笑う。
それは社交界で身につけた完璧な微笑ではなかった。
誰かの期待に応えるためでも、自分の痛みを隠すためでもない。
ただ心から生まれた、不器用な笑顔だった。
「その後は?」
レオンハルトが尋ねる。
「小さな学校を作りたいのです」
「政治家を育てるのか」
「いいえ。疑うことを恐れない人を育てます」
「疑うこと?」
「大勢が正義を叫んでも、本当にそうなのかと立ち止まれる人を。涙を流す人だけでなく、声を上げられない人にも目を向けられる人を」
「また忙しくなりそうだな」
「手伝ってくださいますか」
「もちろん」
二人は広場を後にした。
道の両脇には、白い花が咲いていた。
かつて処刑台へ向かう彼女の足元にあったのは、冷たい雨と泥水だけだった。
だが今、その道は春の日差しに照らされている。
エレオノーラは振り返らなかった。
祖国の葬列は、すでに見送った。
灰色の冠も、悪女という名も、もう彼女を縛ることはない。
彼女は誰かに選ばれる未来ではなく、自ら選ぶ明日へ歩いていく。
その背に、春の風が吹いた。
優しく、けれど力強く。
新しい時代の扉を開くように。
完




