7年間の恋を“妹”に取られた後、私は“彼の上司”と結婚した
「この子が、七年付き合ってるっていう彼女なのね? 本当にきれいな子。今日の結婚記念パーティーも、こんなに丁寧に準備してくれて……蓮が七年も大切にしてきた理由がわかったわ」
蓮は美緒を見て微笑んだだけで、否定しなかった。
この日のために一か月近く走り回って準備してきた私は、宴会場の入口で受付を任され、行き交う招待客の向こうから三人を見つめることしかできなかった。
ホテルの廊下で、とうとう我慢できず蓮の腕をつかんだ。
「どうして美緒を、私の代わりにしたの?」
「美緒は今、新鋭デザインアワードに挑戦してるんだ。業界の人脈を広げる必要がある。うちの両親はこの業界が長いし、将来の嫁だと思えば、ちゃんと力になってくれるだろ。それに晴香、俺たち、まだ結婚の話までしてないよな? 今そんなに親に会いたいって……そんなに俺と結婚したいの?」
頭の中で、何かが弾けたような気がした。
言葉を失った私の髪に、蓮は何事もなかったように軽く触れた。
「もう怒るなよ。美緒を助けるのだって、晴香の家族を助けるようなものだろ? 親に紹介するべき時が来たら、ちゃんと紹介するから」
そのとき、宴会場の入口から美緒の声がした。
「蓮、ご両親が呼んでるよ」
振り返った蓮の表情が、目に見えて柔らかくなる。
「今行く」
そのまま美緒のほうへ向かっていく背中を、私はもう追わなかった。
スマートフォンを取り出し、南雲市に住む親友、藤原栞にLINEを送る。
「栞。前に話してた人、今週末に会えるようにしてくれる?」
栞が以前から紹介したがっていたのは、桐生悠真。
Lynx Designの親会社である桐生ホールディングスの専務取締役で、グループ内では蓮より上の立場にいる人だった。
七年待った末にもらった言葉が、「親に会う資格なんてまだない」なのだとしたら。
こんな男、欲しい人にくれてやればいい。
もう、いらない。
1
荷物を取りに宴会場へ戻ると、大型スクリーンには、私が神崎夫妻のために作った結婚記念ムービーが流れていた。
十数分の映像を完成させるため、私は一か月近くかけて親戚や昔の友人たちに連絡を取り、各地に残っていた古い写真やホームビデオを集めた。それを整理し、何日も夜更かしして編集した。
映像は二人が若い頃に出会ったところから始まり、恋愛、結婚、蓮の誕生、そして夫婦で歩んできた数十年へと続いていく。
蓮の母は目を潤ませながら、美緒の手を強く握っていた。
「こんな写真、私でももう持ってないわ。とっくになくしたと思ってたのに……美緒さん、どうやって見つけたの? 本当にありがとう。あなたのこと、ますます好きになっちゃった」
美緒は恥ずかしそうに微笑んだだけだった。
誰がその映像を作ったのか、訂正することはなかった。
蓮の母は首元から、小さなダイヤがあしらわれたアンティークのネックレスを外した。派手な宝石ではないが、丁寧に手入れされている。蓮の祖母が、彼女の結婚時に託したものだと聞いていた。
「これはね、蓮のおばあさまから受け継いだものなの。私が結婚するとき、『いつか次の世代に渡してね』って。だから今度は、あなたに受け取ってほしいの」
「そんな大切なもの、いただけません。それに蓮から正式にプロポーズされたわけでもありませんし、今の私が持つのは……」
蓮の母はすぐに息子を振り返った。
「蓮。こんなにいい子と七年も付き合っておいて、まだちゃんとした言葉も伝えてないの?」
周囲の親戚たちも気づき、笑いながら集まってくる。
蓮の父まで面白がったようにジュエリーケースを息子へ差し出した。
「七年だろ? いつまで待たせるつもりなんだ。せっかくみんな揃ってるんだから、今日ちゃんと言えばいい」
周囲から期待するような声が上がる。
蓮は美緒を見つめた。
七年間、何度も見てきたその目が、今は美緒にだけ優しく向けられていた。
「七年も一緒にいたんだ。そろそろ、ちゃんと答えを出さないとな」
そして彼は、本当に皆の前で片膝をついた。
胸の奥が強く締めつけられた。
七年、一緒にいた?
じゃあ、私は?
実際に七年間、蓮のそばにいたのは私だ。
大学を卒業したばかりの頃から、Lynx Designを立ち上げ、数人しかいない小さな会社だった時期を経て、資金調達に成功し、今のオフィスへ移るまで。
ずっと私がそばにいた。
経営が最も苦しかった頃には、次の四半期を乗り切れるかさえわからなかった。
その七年が今、あまりにも簡単に別の女の名前へと書き換えられている。
まるで最初から、私は存在していなかったかのように。
美緒は口元を押さえ、瞳を潤ませた。
「……はい。喜んで」
天井から紙吹雪が舞い落ち、会場が拍手に包まれた。
蓮が美緒の指に指輪をはめると、誰かが笑いながら声を上げた。
「キスして!」
周囲からも笑い声と拍手が起こる。
美緒は頬を赤らめ、背伸びをして蓮の唇に軽く触れた。
けれど次の瞬間、蓮はその腰を引き寄せ、自分から深く口づけた。
私は人垣の外で、その光景を見ていた。
七年前のことを思い出す。
大学を卒業して間もない夏だった。
まだ会社さえ持っていなかった蓮は、ごく普通の1Kのアパートに住んでいて、私に告白するときは、用意していた言葉まで間違えるほど緊張していた。
私が頷くと、彼は長い間、私を抱きしめていた。
「晴香、俺を信じて。今はまだ何もないから、俺たちのことを公にはできない。でも仕事が軌道に乗ったら、必ずみんなに晴香を紹介する」
私は信じた。
そして七年待った。
蓮の会社は大きくなった。
仕事も安定した。
なのに、皆に紹介された恋人は美緒だった。
スマートフォンが震えた。
栞からだった。
「土曜日の十五時。悠真さんにはもう話してあるから。今度こそ直前で『やっぱり会わない』って言わないでよ」
これまで栞に誰かを紹介すると言われるたび、私は断ってきた。
自分には恋人がいると思っていたからだ。
たとえ公にできない関係でも、他の誰かを考えたことなどなかった。
けれど、もう違う。
スマートフォンをしまい、宴会場を出ようとすると、入口付近にいた神崎家の親戚が私に気づいた。
「あの人、蓮のところの秘書じゃない? ここ数年、神崎家の集まりではいつも見かけるわね」
「私、前は蓮と何かあるのかと思ってた。でも長く秘書をしてると、自分の立場を勘違いすることもあるんじゃない? 蓮が美緒さんを見る目を見れば、ほかの女性なんて入る余地なさそうだけど」
視線の先で、蓮は美緒の髪に付いた紙吹雪を丁寧に取っていた。
美緒は楽しそうに彼の胸元へ逃げる。
私はもう見なかった。
そのままホテルを出た。
家に戻って間もなく、蓮の母からLINEが届いた。
「相沢さん、今日のプロポーズは見ていたわよね? 蓮と美緒さんの婚約お披露目パーティーを、あなたに任せたいの。美緒さんのことは本当に気に入っているから、できる限りいいものにしてちょうだい。予算はあまり気にしなくて大丈夫よ」
画面を見たまま、しばらく返事ができなかった。
そのとき玄関が開く音がした。
蓮だった。
私は寝室へ戻ろうとしたが、先に手首をつかまれた。
「母さんから連絡あっただろ? 婚約のお披露目パーティーは晴香に任せたいってさ。母さんは晴香の仕事を一番信用してる。他の人に任せても不安なんだよ」
「本当に、私に美緒との婚約パーティーを準備させるつもり?」
「今日のあの状況で、親戚全員の前で断れるわけないだろ。美緒だってプロポーズを受けたんだ。今さら恥をかかせたら、あいつだって立場がない。それに美緒は晴香の妹だろ? そこまで張り合わなくてもいいじゃないか」
妹。
十歳の頃、美緒の母親が父と関係を持ち始めた。
その時点で両親の婚姻関係はまだ続いていた。
母が亡くなったあと、父は美緒の母親と再婚した。
それから美緒は、相沢家の娘として暮らすようになった。
私の居場所も、父の関心も、少しずつ奪われていった。
そのことを蓮はすべて知っている。
私は彼の手を振り払った。
「だったら、会社を辞める」
蓮は一瞬だけ驚いたものの、すぐに表情を戻した。
「晴香。創業時に結んだ株主間契約、忘れてないよな? 七年間の特別条項はまだ終わってない。今経営チームを抜ければ、創業株の扱いは当時の契約条件に従うことになる。その株が今いくらになってるか、晴香が一番わかってるだろ」
会社設立当初、私は創業メンバーの一人として少数の株を持っていた。
株主間契約には、創業メンバーが途中で離脱する場合に備えた七年間の特別条項がある。
けれど、蓮は忘れている。
期限まで、あと一か月しかない。
「わかった。婚約お披露目パーティーは私が担当する」
蓮は明らかにほっとした。
いつものように、私の頭に手を置く。
「それでいい。美緒が今回のアワードを取れたら、この件も落ち着く。そのあとで俺たちのこともちゃんとするよ。晴香に約束した結婚式だって、ちゃんとやる」
もう反論する気にもならなかった。
そのとき、蓮のスマートフォンが鳴った。
美緒だった。
「蓮、お母さまが今住んでるところを見たいって。お姉ちゃんの荷物、まだ残ってるよね? 私たちが一緒に住んでないって気づかれたら、困らない?」
通話を終えた蓮は、ほとんど迷わず大型の収納袋を取り出した。
クローゼットの服、洗面所の日用品、キッチンにある私のマグカップや食器まで次々と詰め込んでいく。
二人で撮った写真が棚から落ち、フォトフレームのガラスにひびが入った。
二人をデフォルメしたイラスト入りのエプロンも、昔私が描いて贈った絵も、まとめて袋の中へ放り込まれた。
私は止めなかった。
蓮は袋を玄関まで運んだ。
「しばらく自分の部屋に戻ってて。親が帰ったら連絡する。地下駐車場側の通用口から出て。運転手を向かわせるから、正面ではち合わせないようにしてくれ」
外は激しい雨だった。
蓮は荷物を廊下へ出した。
そして扉は、私の目の前で閉じた。
いくつもの袋を抱え、通用口の狭い屋根の下で三十分待った。
風にあおられた雨が入り込み、靴も裾もすぐに濡れた。
それでも車は来なかった。
ようやくスマートフォンが光る。
「運転手は急きょ美緒と母親を迎えに行くことになった。自分で帰って。交通費はあとで会社に精算申請して」
最後の一文を何度も見た。
会社に精算申請。
ずいぶん事務的だ。
その瞬間、七年間、私たちを恋人同士だと思っていたのは私だけだったのではないかと思った。
配車アプリを開いても車がつかまらず、私は荷物を抱えて路線バスに乗り、さらに電車を乗り継いだ。
ようやく戻ったのは、ずっと解約せずに残していた1DKの部屋だった。
駅から少し歩く、築年数の経った低層マンション。
広くはない。
けれど家賃はずっと、自分のお金だけで払ってきた。
蓮とは何の関係もない場所だった。
日付が変わる頃、蓮の母が親族のLINEグループに写真を投稿した。
蓮、美緒、そして双方の両親。
テーブルには料理とケーキが並び、四人は楽しそうに笑っている。
本当の家族のようだった。
数分後、今度は個別にメッセージが届いた。
「相沢さんは、美緒さんと蓮の七年間を一番よく知っているでしょう? 今日の結婚記念ムービーがとてもよかったから、同じような感じで二人の七周年記念ムービーも作ってもらえない?」
七月の夜は蒸し暑いはずなのに、ひどく寒く感じた。
「承知しました」
それだけ返した。
翌朝、目を覚ますとひどく頭が重かった。
それでも会社へ行った。
株主間契約の期限まで、残り一か月。
できるだけ早く、すべての仕事を片づけておきたかった。
パソコンのストレージには、一テラバイト近いデータが残っていた。
蓮の顧客情報、仕事の癖、会食や接待の記録。
そして創業以来、二人で過ごしてきた写真や動画。
会社が一番苦しかった頃、私たちは駅から遠い古い木造アパートの1Kに住んでいた。
ある真夏の日、エアコンが完全に壊れた。
会社にも余裕はなく、新品を買うのが惜しくて、私は近所のリサイクルショップから安い中古の窓用エアコンを買ってきた。
説明書を読みながら二日かけて取り付けた頃には、十本の指が細かな傷だらけになっていた。
蓮は私を抱きしめた。
「晴香。金に余裕ができたら、もう二度とこんな生活はさせないから」
その言葉を、私は何年も覚えていた。
初めて重要な取引先との会食に出た日、蓮は一人では立てないほど酔った。
深夜、タクシーから降ろして部屋まで連れて帰ったのも私だった。
それ以来、接待に同行するときは、できるだけ彼の酒を代わりに引き受けるようになった。
ある日、胃の痛みに耐えられず病院へ運ばれ、医師からこのまま飲み続ければ本当に体を壊すと言われるまで。
それでも、あの頃は苦しいと思わなかった。
二人で一緒に耐えていると思っていたから。
ここを乗り越えれば、ちゃんと未来があると思っていたから。
今、その記憶の中にいる女を、私は自分の手で別の女に置き換えようとしている。
編集ソフトを開き、写真や映像を整理した。
私が写っていた場所に、美緒の姿を重ねていく。
代わりの素材がどうしても見つからない部分は、生成AIを使って映像の一部を加工した。
長時間見続けているうちに、不思議な錯覚に襲われる。
本当に蓮と七年間一緒にいたのは美緒で。
私はただ、二人の思い出を編集している秘書にすぎなかったのではないか、と。
午前一時過ぎ。
最後のカットがようやく完成した。
ファイル名を付ける。
『七年の軌跡――夏に始まり、花咲く季節へ』
蓮の母へ送信し、立ち上がろうとした瞬間。
視界が真っ暗になった。
机の角に額を強く打ちつける。
大きな音に、まだ残業していた同僚たちが駆け寄ってきた。
誰かが私の名前を呼び、別の誰かが119番へ通報している。
意識が少し戻った頃、スマートフォンが何度も震えていた。
三度目で、ようやく通話ボタンを押した。
「晴香。母さんが動画を親族のLINEグループに送ったんだけど、美緒のところ、生成AIで加工したってわかる不自然な部分があるらしい。どうしてもっとちゃんと処理しなかったんだ? 今日のことで腹を立てて、わざと美緒に恥をかかせようとしてるんじゃないだろうな?」
救急車の中で、私は思わず笑った。
電話をかけてきたのは、私が倒れたと知ったからではなかった。
「何がおかしいんだよ。LINEグループのほうは晴香から説明しておいて。それと不自然だって言われたところは全部直して。個人的な感情で美緒に迷惑かけるのはやめてくれ」
蓮の声が少しずつ遠くなっていく。
返事をする力は、もう残っていなかった。
次に目を覚ましたとき、私は病室にいた。
ベッドの横には誰もいなかった。
看護師が意識状態や血圧を確認し、しばらく安静にするよう告げたあと、先ほど家族だという人たちが来ていたことを教えてくれた。
その中の若い女性が過換気を起こし、別の場所で処置を受けているらしい。
聞いた瞬間、誰なのかわかった。
しばらく休んでから廊下へ出る。
やはり美緒だった。
父と継母、蓮の両親が彼女を囲んでいる。
蓮もちょうど反対側からやってきた。
美緒は私を見るとすぐに近づき、その途中で力が抜けたように床へ膝をついた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。私、蓮のプロポーズを受けたことで、お姉ちゃんがこんなに傷つくなんて思ってなかった。自分を傷つけるほど追い詰められてたなんて……。このネックレスも返す。神崎家のお嫁さんにもならない。だから、もう怒らないで。自分を傷つけたりしないで。私、どうなってもいいから」
首元のネックレスへ手を伸ばす。
単純な留め具のはずなのに、何度やっても外れない。
私は冷めた目で見下ろした。
「美緒。子どもの頃から同じ芝居ばかりして、飽きないの? そのネックレスは持ってればいい。私はいらないから」
「違うの、お姉ちゃん。本当にそんなつもりじゃ……すぐ外すから――」
蓮の母が美緒の手を押さえた。
「外さなくていいわ。私があなたに贈ったものなんだから、そのまま持っていなさい。誰にも返せなんて言わせないから」
美緒を立たせると、ようやく私を正面から見た。
「あなたが、美緒さんのお姉さんなのね。昔からずっと美緒さんにつらく当たってきたって聞いてるわ。最初は信じてなかったの。仕事はできるし、うちの用事でもよく動いてくれていたから」
その目が少しずつ冷たくなる。
「でも、今ならわかる気がする。あなた、最初から自分が神崎家の女主人になるつもりだったんじゃない? あなたは蓮の会社の秘書でしょう。私が将来のお嫁さんに贈ったものに、どうして口を出すの?」
蓮が近づいてきたとき、彼の母はさらに相沢家の話を持ち出した。
「それに、美緒さんから聞いたわ。昔、あなたのお母さんが割り込まなければ、美緒さんのお母さんはもっと早くお父さんと一緒になれていたんでしょう?」
全身が固まった。
「母は不倫なんてしていません。父と母が結婚した時点では、父は美緒のお母さんとは知り合ってさえいませんでした」
父を見る。
「お父さん。ちゃんと説明して」
父の唇がわずかに動いた。
しかし最後には、私から目をそらした。
残ったのは蓮だけだった。
「このこと、全部話したよね。蓮は知ってるでしょう? 私の母は、誰かの家庭を壊した人じゃない」
蓮が一歩こちらへ来ようとした。
けれど美緒がその袖をつかむ。
彼は足を止め、美緒の体を支えた。
「晴香。昔のことは、結局晴香から聞いただけだから。俺はその場を見たわけじゃない。どっちが本当だったのか、俺には断言できないよ」
言葉が出なかった。
七年前。
誰にも話したくなかった過去を、私は蓮に打ち明けた。
そのとき彼は、私を信じると言った。
今、美緒が別の話をしただけで。
私が彼に預けた信頼は、簡単になかったことにされた。
美緒が蓮の母の手にそっと触れた。
「もうお姉ちゃんを責めないでください。お姉ちゃんは蓮のことが好きすぎて、私がプロポーズを受けたのを受け入れられなかっただけなんです。それに昔のことだって、法律上、その時お父さんと結婚していたのはお姉ちゃんのお母さんです。もし誰かが何か言われるとしたら、私のほうだと思います。私みたいな立場の人間は、神崎家に入る資格なんてないのかもしれません」
蓮の母の表情がすぐに和らいだ。
「そんなこと言わないで。誰と結婚するかを決めるのは蓮よ。親の世代のことを、美緒さんが背負う必要なんてないわ」
しばらく黙っていた蓮が、父へ向き直った。
「相沢さん。このことでいつまでも美緒が言われるなら、晴香のお母さんの遺骨は相沢家のお墓から改葬したほうがいいんじゃないですか。別のお寺の納骨堂を探せばいい。手続きは相沢家でしてもらって、寺院を探すなら俺も手伝います」
頭の中が真っ白になった。
それでも蓮は続けた。
「会社のほうも調整しよう。晴香はいったん社長室の主要案件から外れて、美緒のアワード関係の調整と、婚約お披露目パーティーの準備を担当して。半年くらいでいいだろ」
半年。
彼は本気で、半年後も私がここにいると思っている。
それ以上争わず、病室へ戻った。
しばらくして蓮も入ってくる。
「神崎社長。母の改葬手続きを始めることになったら、私にも知らせてください。新しい納骨先は自分で探します」
その呼び方に、蓮がわずかに動きを止めた。
「晴香、そんな言い方する必要ある? 寺なら俺も探すって言ってるだろ。晴香のお母さんの行き先がなくなるわけじゃない」
私は振り返った。
「まだ、私が美緒に張り合うために倒れたと思ってるの? 蓮。七年も一緒にいたのに、私がどんな人間なのか、本当に何もわからない?」
蓮は答えなかった。
それで十分だった。
「出ていって。もう病院にも来なくていい」
蓮は病室の入口まで歩き、そこでまた振り返った。
「親族のLINEグループの動画、晴香から説明しておいて。それからAI加工が不自然だって言われた部分も直して。婚約お披露目パーティーまで時間がないんだから、退院したら準備を進めてくれ。体調を崩したからって、プロジェクト全部を止めるわけにはいかないだろ」
私はゆっくり彼を見た。
冗談を言っている顔ではない。
本当に蓮は、何があっても私がそこに残り、彼の後始末をし続けると思っている。
強く握っていたシーツから、ゆっくり指を離した。
一か月後。
婚約お披露目パーティーは予定通り開催された。
そして今日が、私がLynx Designの社長室秘書として出社する最後の日だった。
控室で、白いドレス姿の美緒に呼び止められる。
「お姉ちゃん。お母さまにもらったネックレスと、今日蓮と使う指輪を取ってきてくれない? どこにあるか知ってるよね。前に二人で住んでた……あ、ごめん」
美緒は口元に手を添えて笑った。
「これからは、私と蓮が住む部屋って言わなきゃね」
手元の進行表を見る。
「私の担当は会場進行とホテル、招待客、業者との調整です。個人的なアクセサリーの受け取りは担当外なので、必要ならホテルのスタッフに頼んでください」
美緒の笑顔が少しずつ消えた。
「でも今日は、私がここの主役だよね? お姉ちゃん、自分が仕事で来てるってこと、忘れてない?」
「私の給与を払っているのは美緒じゃないし、あなたは私の上司でもない。私的な用事まで指示する権限はないよ」
背後から足音がした。
蓮だった。
「じゃあ、俺ならいいのか?」
美緒の強気な表情が瞬時に消える。
すぐに立ち上がり、ドレスの裾を持った。
「もういいよ、蓮。お姉ちゃんは私に居場所を取られたと思ってるんだろうし、手伝いたくないのも当然だよ。指輪もネックレスも、自分で取りに行ってくるから」
二歩ほど歩いたところで、美緒の体が揺れた。
蓮がすぐに支える。
「そのヒールでまともに歩けてもないだろ。今日の主役が、自分で物を取りに走る必要なんてない」
「大丈夫。私、そんなに弱くないから」
美緒はもう一歩進み、よろめいて蓮の胸へ倒れ込んだ。
蓮はそのまま彼女を抱き上げた。
周囲にいたスタッフたちが一斉にこちらを見る。
蓮もようやく私に目を向けた。
「相沢晴香。誰がここで偉そうに振る舞っていいって言った? 君は会社に雇われている秘書だ。こんな簡単なことまで揉めるなら、もうここにいる必要はない。帰れ」
私は黙って立っていた。
その反応が気に入らなかったのか、蓮の顔がさらに険しくなる。
彼は自分のバッグに入れていた現金封筒から一万円札を何枚か抜き、そのまま私の前へ投げた。
紙幣が床に散る。
「これで今日の分は十分だろ。もう帰れ」
床に散った紙幣を見下ろした。
なぜか、これでよかったと思った。
一か月前。
病院から戻ったあと、私は正式に退職届を提出していた。
そして今日が最終出社日。
さらに偶然にも、七年前の株主間契約に定められていた特別条項も、今日で期限を迎える。
引き継ぎはすべて終えていた。
もともと今日、私は会社を去るつもりだった。
床の金には触れなかった。
蓮と言い争うこともしなかった。
胸元の社員証を外し、近くのテーブルに置く。
そして、そのまま宴会場を出た。
七年前。
何も持っていなかった彼と、ここまで歩いてきた。
七年後の今日。
もう、終わりにしていい。
2
晴香が去ったあと、婚約お披露目パーティーの会場はすぐに混乱し始めた。
ホテル側には専門の宴会スタッフがいて、各担当者も進行表を持っている。だが今回は会社関係者、神崎家の親族、デザイン業界の招待客が混在しており、細かな変更や突発対応は長年晴香がまとめていた。
何かあれば「相沢先輩に聞けばいい」。
若い社員たちは、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
とうとう一人が蓮のもとへ来た。
「社長、相沢先輩がいないと、同時に全部は対応できません。せめて引き継ぎが終わるまで戻ってもらえませんか?」
つい先ほど自分で晴香に帰れと言ったばかりだった。
蓮が苛立った表情を見せた直後、映像担当のスタッフがノートパソコンを抱えて駆け寄ってきた。
「記念ムービーにトラブルが出ています。ここには書き出し済みの動画しかなくて、編集プロジェクトの元データがありません。一部に再生不良があるんですが、相沢さんはどこですか?」
若手社員の高橋が顔を上げた。
「探しても無理です。相沢先輩、もう退職手続きを全部終えてます。今日が最終出社日で、社員証も会社の機材も返却済みです」
蓮が勢いよく振り返った。
「何だって?」
「社長、知らなかったんですか? 一か月前に退職届を出してますよ。人事とも話がついてて、最終出社日は今日です。退職したら南雲市へ戻るって……たしか、結婚するって聞きましたけど」
蓮の顔から血の気が引いた。
「結婚? 誰と?」
高橋が答える前に、映像担当者が美緒へ声をかけた。
「相沢さん、以前の神崎様ご夫妻の記念ムービーも同じような形式でしたよね? 制作されたなら、少し見てもらえませんか?」
美緒の体が固まった。
反射的に蓮の袖をつかむ。
「蓮……」
しかし今度ばかりは、蓮は彼女を助けなかった。
その手を振りほどき、そのまま宴会場を飛び出していった。
残された会場の視線が一斉に美緒へ集まった。
蓮の母も近づいてくる。
「美緒さん、前にも作ったんでしょう? 少し見てあげて。どうしても無理なら制作会社に連絡すればいいから」
美緒はドレスの裾を強く握り、長い間黙っていた。
「……できません。前の動画、私が編集したものじゃないんです。人に頼んで作ってもらいました。資料とか、アイデアは私が用意したんですけど……編集は私じゃありません」
蓮の母の表情が変わった。
「でも、私が聞いたとき、あなた何も言わなかったわよね」
周囲から小さなざわめきが起こる。
そこへ高橋がまた戻ってきた。
「奥様、社長がホテルを出ました。たぶん相沢先輩を追いかけたんだと思います」
蓮の母は目を見開いた。
「自分の婚約お披露目パーティーを放り出して、秘書を追いかけたの?」
高橋も困惑した顔をした。
「でも……社長と七年間付き合ってたのは、もともと相沢先輩ですよ。創業当時からいる社員なら大体知ってます。出張も接待も、資金調達の資料も、ずっと相沢先輩が支えてましたし、社長室の仕事もほとんど彼女がやってました。それに以前の結婚記念ムービーも、相沢先輩が何日も徹夜して作ったものです」
宴会場が静まり返った。
蓮の母が、ゆっくり美緒を見る。
「じゃあ……蓮と七年間付き合っていたのは、晴香さんだったの?」
美緒の顔は真っ白だった。
「お母さま、私はただ蓮のことが好きだったんです。お姉ちゃんのものを奪うつもりなんて……。ただ、どんどん話がそうなってしまって、途中からどう説明したらいいのかわからなくなって……」
蓮の母は深く息を吸い、何も言わず歩き出した。
美緒が慌てて追う。
「お母さま! ごめんなさい、本当に悪かったと思ってます。でも、私はただ蓮のことが好きで……悪気なんてなかったんです」
蓮の母は足を止め、美緒の手を自分の袖からゆっくり外した。
「好きだからって、他人の七年間まで自分のものにしていいわけじゃないでしょう」
そこで病院での件を思い出したように、美緒の顔を見た。
「晴香さんのお母さんの話。あなたが私に話したことも、本当なの?」
美緒の表情が変わった。
蓮の母は答えを待たず、そのまま会場を出ていった。
一方、蓮は東湾空港へ駆け込んでいた。
スーツの上着がどこへ行ったのかもわからない。ネクタイは曲がり、シャツの背中は汗で濡れている。
何度も晴香へ電話をかけたが、つながらない。
最後にLINEを開いた。
二人のやり取りは、一か月前の大雨の日で止まっていた。
「運転手は急きょ美緒と母親を迎えに行くことになった。自分で帰って。交通費はあとで会社に精算申請して」
その下には、何もない。
そこで初めて気づいた。
晴香はとっくに、自分をLINEの友だちから削除していた。
いつ消された?
蓮には、それすらわからなかった。
航空会社のカウンターへ急ぐ。
「南雲市行き、一番早い便で」
「申し訳ありません。直近の便はすでに搭乗手続きを締め切っております。次の便は四時間後になります」
四時間。
蓮は待たなかった。
空港を出ると長距離のハイヤーを手配し、そのまま南雲市へ向かった。
高速道路へ入った頃になって、ようやく重大なことに気づく。
晴香がどこで結婚式を挙げるのか。
自分は知らない。
大学時代の友人。
以前の職場の同僚。
思いつく人間へ片っ端から電話をかけた。
藤原栞にも。
ほとんどの人間が電話に出ない。
出ても「知らない」とだけ言って切った。
最後に栞が出た。
「神崎蓮。よく晴香を探せたね」
「栞。晴香がどこにいるか教えてくれ」
「今日結婚するよ。あなたも婚約お披露目パーティーの最中じゃなかった? 晴香の目の前で美緒に片膝ついたときは、今日のこと考えなかったの? 大雨の日に晴香を家から追い出して、一人で帰らせたときは? 晴香本人に、美緒との婚約パーティーを準備させたときは何を考えてたの?」
蓮には返す言葉がなかった。
栞は冷たく続けた。
「晴香は待ったよ。七年間を使い切ったのは、あなた自身」
電話が切れた。
かけ直しても、もうつながらなかった。
四時間以上経って、ようやく南雲市へ入った。
栞が大学卒業後に住んでいたマンションを、蓮はぼんやり覚えていた。
何年も前、一度だけ晴香と来たことがある。
曖昧な記憶を頼りにたどり着き、何度もインターホンを押したが返事はなかった。
隣の部屋から年配の女性が顔を出した。
「藤原さんを探してるの? 朝から出かけてるわよ。友達の結婚式だとか言ってたけど」
蓮は数歩走りかけ、すぐに戻った。
「どこか聞いてませんか?」
「たしか……森丘迎賓館って言ってたような」
すぐに階段を駆け下りた。
マンションを出たところで足を取られ、激しく転んだ。
膝をコンクリートに打ちつけ、スーツのズボンが破れる。
傷口から血が滲んだ。
蓮は一度も確認せず立ち上がり、そのままハイヤーへ戻った。
森丘迎賓館へ着いた頃には、ガーデンウェディングは終盤に差しかかっていた。
白い布が風に揺れ、招待客の多くは帰ったあとだった。
親しい友人や親族だけが芝生の周囲に残り、写真を撮ったり談笑したりしている。
蓮が中へ駆け込むと、スタッフが驚いた顔で振り返った。
「お客様、どなたをお探しでしょうか?」
「新婦です。相沢晴香」
「相沢様でしたら、控室でお見送り用のドレスに着替えていらっしゃいます。このあと新郎様と一緒にゲストをお見送りされる予定です」
新郎。
その二文字を実際に耳にして。
蓮の頭は、初めて真っ白になった。
控室まで歩く。
ノックもせず、扉を開けた。
* * *
私は鏡の前に立っていた。
ウェディングドレスはもう脱ぎ、シンプルなアイボリーのドレスに着替えている。
髪もゆるくまとめ直したところだった。
物音に気づいて振り返る。
そこに蓮がいた。
ネクタイは曲がり、シャツはしわだらけ。
膝には血が滲んでいる。
七年一緒にいたけれど。
こんなにみすぼらしい姿の蓮を見るのは初めてだった。
「晴香……」
私は数秒、彼を見た。
「神崎社長。ご祝儀を持ってきてくださったんですか? 受付なら入口にありますよ」
呼び方を聞いた途端、蓮の顔から血の気が引いた。
「晴香、そんな呼び方するなよ。聞いてくれ。今日のことも、動画のことも、美緒のことも……今までのこと、全部俺が悪かった。もう美緒には関わらない。婚約だって解消する。何を言われても、もうあいつを優先したりしないから」
最後まで静かに聞いた。
「蓮。七年だよ」
彼の目を見る。
「私は七年間あなたのそばにいた。それなのに、あなたはみんなの前で、美緒を『七年間一緒にいた恋人』にした。私に二人の婚約パーティーを準備させて、母の遺骨を相沢家の墓から出すことにも賛成した」
胸の中は、思ったほど痛くなかった。
「病院で、私を信じるかって聞いたよね。あなたは一言も『信じる』って言ってくれなかった。それで今さら、私の結婚式まで来て『間違ってた』って言うの?」
蓮の喉が動いた。
「償う。晴香にしたこと、全部……」
「どうやって?」
思わず笑った。
「母が不倫したかどうかさえ、美緒に何か言われただけで疑える。私と過ごした七年間も、皆の前で別の女の七年にできる。あなたは、私がどんな人間かすら信じてなかった」
静かに言う。
「そんな人を、私はどうやって信じればいいの?」
蓮は何か言おうとした。
けれど、声は出なかった。
だって。
全部、蓮自身が選んだことだから。
そのとき控室の扉が開いた。
ライトグレーのスーツを着た男性が入ってくる。
胸元には新郎用のブートニア。
背が高く、穏やかな目元をしている。
彼――桐生悠真は私のそばへ来ると、ごく自然に肩へ手を添えた。
「晴香、みんな最後の集合写真を待ってる。こっちは大丈夫?」
「うん。昔の仕事関係の人が、お祝いに来てくれただけ」
悠真は蓮へ向き直り、穏やかに頭を下げた。
「初めまして。桐生悠真です。わざわざ晴香のお祝いに来ていただいて、ありがとうございます」
蓮は何も言わなかった。
当然、悠真のことを知らないはずはない。
Lynx Designの親会社、桐生ホールディングスの専務取締役。
グループ事業を統括し、蓮より上の立場にいる人間だ。
仕事では何度も顔を合わせている。
私は悠真の腕に自分の腕を絡めた。
蓮の横を通り過ぎる直前、一度だけ足を止める。
「蓮」
彼がすぐに顔を上げた。
「ホテルで、美緒の前に跪いたあの日。本当は、その時点でわかっておくべきだったよ」
蓮をまっすぐ見る。
「取り返せないことって、あるんだよ」
返事は待たなかった。
悠真と一緒に控室を出た。
* * *
外から招待客たちの笑い声が聞こえていた。
蓮は一人、控室に残っていた。
ポケットのスマートフォンが震える。
母からのLINEだった。
「美緒さんが全部話したわ。晴香さんのお母さんのことも、話を変えて伝えていたと認めた。帰ってきたら話しましょう」
蓮は返信しなかった。
控室の外では、カメラマンが新郎新婦を呼んでいる。
笑い声を聞きながら、蓮は七年前の夏を思い出した。
会社を作る前。
古いアパートの外廊下。
晴香が顔を上げ、まっすぐ自分を見ていた。
「蓮。私、待つよ」
彼女は本当に待った。
一年。
三年。
五年。
七年。
最後に自分が返したのは。
「まだ親に会うような関係じゃない」
そんな言葉だった。
蓮はゆっくりしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。
どれくらい経ったのかわからない。
扉が開き、藤原栞が立っていた。
数秒、蓮を見下ろす。
何も言わなかった。
ただ、小さく鼻で笑うと、そのまま扉を閉じた。
外では結婚式が続いている。
やがて蓮も立ち上がり、控室を出た。
芝生では晴香と悠真が一緒にウェディングケーキを切っていた。
周囲の人々が笑顔で拍手する。
誰かが楽しそうに声を上げた。
「キスして!」
悠真が晴香を見る。
そして静かに顔を寄せ、その唇にキスをした。
晴香の頬が一気に赤くなる。
照れ隠しのように悠真の胸を軽く押すと、周囲から笑い声が広がった。
蓮は人垣の一番外側に立っていた。
晴香の笑顔を見つめる。
あの笑顔は、何度も見たことがある。
創業直後、一番苦しかった頃。
最初の資金調達が決まった日。
会社が初めて安定した利益を出した日。
振り返れば、いつも晴香がいた。
だから。
いるのが当然だと思った。
自分が呼べば残る。
七年間も愛した男を、本気で捨てるはずがない。
美緒が助けを求めれば、晴香に我慢させた。
両親が気に入る嫁候補を求めれば、晴香を後ろへ下がらせた。
自分と別の女の婚約パーティーを本人に準備させても、最後には理解してくれると思っていた。
今。
晴香は別の男の隣に立っている。
あんなに軽やかに笑っている。
蓮はようやく背を向けた。
ゆっくりと森丘迎賓館の出口へ歩く。
膝の傷はまだ痛んでいる。
一歩進むたびに傷口が引きつれる。
けれど、そんなことはもう感じていなかった。
入口まで来たところで。
最後に一度だけ振り返った。
夕陽が芝生を照らしている。
晴香は友人たちに囲まれ、写真を撮っていた。
すぐ隣には悠真がいる。
晴香は幸せそうだった。
ようやく何かを手放した人だけが見せる。
軽く、穏やかな笑顔だった。
七年前。
自分は彼女に言った。
「仕事が軌道に乗ったら、俺たちのことを公にする」
その言葉を聞いた晴香も。
あの日、同じように笑っていた。
自分を信じていた。
だから、待ってくれた。
今。
彼女が信じているのは。
もう、自分ではない。
蓮は長い間そこに立っていた。
やがて前を向き直る。
晴香は、ある日突然いなくなったわけではなかった。
無視された夜。
隠され続けた恋人という立場。
何度も譲るよう求められた居場所。
そして、そのたびに迷いなく美緒を選んだ自分。
そのすべてが。
少しずつ、晴香を自分の人生から押し出していた。
彼女はただ。
ずっとそこに立ち続けていただけだった。
最後に。
完全に背を向ける理由を。
自分自身が、彼女に与えるまでは。




