お地蔵さんと三毛猫の縁側案内所
六月終わりの湿った空気は、まとわりつくように肌を焦がした。昭夫は、妻の背中から放たれる冷えた視線に耐えかねて、リビングの端から押し出されるように玄関へ向かった。
「粗大ゴミの出し方、昨日も言ったでしょ」
扉の向こうで、冷蔵庫のドアが乱暴に閉まる音がする。定年を迎えて半年。毎日が日曜という暇を持て余した日々は、いつしか家の中での置き場を奪い、肩口を重く圧迫していた。外に当てなどない。それでも靴に足を滑込ませる。
「……散歩、行ってくる」
「あ、ついでに卵買ってきてね」
背後で鍵がガチャリと落ちる。昭夫はスニーカーの踵を踏み潰したまま、蝉の鳴き声が響くアスファルトへと踏み出した。
平日の昼前。人通りの消えた住宅街を、あてもなく足を引きずる。すれ違うのは急ぎ足の主婦と、乾いたエンジン音を立てる宅配のバイクだけだった。社会の歯車から完全に外れた無機質な透明感が、自分の輪郭を曖昧にする。
ふと、視線の端に澱んだ影が引っかかった。剥き出しのアスファルトの突き当たり。コンクリート塀の隙間に、ぽつんと小さな祠が埋もれていた。近づくと、高さ三十センチほどの地蔵の首から下がる赤い前掛けは、塩を吹いたように色褪せていた。頭の上には枯れ葉が幾重にも重なり、足元には潰れた空き缶が転がっている。長い間、誰も手を入れていない淀んだ気配が漂っていた。
「……ひどいもんだな」
呟きながら、昭夫はポケットからハンカチを引っ張り出した。現役時代の、何でも綺麗に整えなければ気が済まない癖が、不意に指先を動かす。しゃがみ込むと、膝の関節が嫌な音を立てた。積もった枯れ葉を払い、湿った布地で石の顔をそっと拭う。
「毎度ご苦労さん、なんてな」
自嘲を飲み込んで立ち上がろうとした時だった。
「ねえ、おじさん」
鼓膜を直接撫でるような、滑らかな声が落ちてきた。昭夫は肩を跳ね上げ、振り返る。そこにあるのは染み付いた古びた壁と、生い茂る雑草だけだ。誰もいない。
「……いよいよだな」
頭を抱えかけたその瞬間、視界の隅でブロック塀の上が小さく揺れた。そこに、一匹の三毛猫が座っていた。毛並みは逆立ち、ボサボサだったが、見据える瞳だけはやけに鋭く、底の方で人間を値踏みしている。
「ボケてないわよ。失礼ね」
声は、確かにその小さな喉元ではなく、昭夫の頭蓋の内に直接響いていた。昭夫は喉の奥を鳴らし、そのまま数歩後ろへ飛び下がった。
「しゃ、喋った……猫が……」
「うるさいわね、大声出さないでよ。頭に響くでしょ。それよりおじさん、ちょうどいいところにきたわ。この辺りで一番風が当たらなくて、あったかい日向ぼっこスポット、知らない?」
三毛猫は前足をペロリと舐め、当然のように問うてくる。あまりの理不尽な事態に、昭夫の頸動脈がドクドクと脈打った。定年のストレスで脳の血管が弾けたに違いない。
「何も見てない、何も聞いてない……!」
昭夫は頭を振り、両手で耳を塞いだまま、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出した。背後で、やれやれとでも言うような小さな吐息がすれ抜けた気がした。
それから三日間、昭夫はその裏路地を意図的に迂回した。
「ただの幻聴だ」
喉の奥で繰り返しながら、冷めたテレビの画面をぼんやりと眺める。だが、妻の小言もアナウンサーの声も、なぜか右から左へと素通りしていく。頭の片隅には、あのボサボサの三毛猫の冷ややかな目が、どうしてもこびりついて剥がれなかった。
四日目の朝。またしても家を追い出されるように玄関を出た足は、気がつけばあの路地の前に吸い寄せられていた。三日前に自分が拭ったお地蔵さんは、わずかに輪郭を取り戻して佇んでいる。恐る恐る、視線をブロック塀へと這わせる。
――そこに、いた。
三毛猫は前足をきちんと揃え、じっと昭夫を見据えていた。逃げも隠れもしない。
「やっと戻ってきたのね。待たせすぎよ」
ふん、と鼻を鳴らす横顔を見て、昭夫は熱を持った息を大きく吐き出した。ここでまた背を向けたところで、一生この奇妙な澱みから抜け出せない予感がした。
「……昭夫だ。おじさん、じゃない」
負けたように喉を鳴らし、ぽつりと落とす。三毛猫は、くすりと笑うように細いヒゲをぴくりと揺らした。
「あたしはミケ。よろしくね、昭夫。で、今日は私の話、聞いてくれるのかしら」
青空の下、定年を迎えたばかりの男と、喋る三毛猫の影が、アスファルトの上に静かに重なっていた。
ミケと名乗る三毛猫と奇妙な言葉を交わすようになってから、昭夫の退屈なだけの散歩は、妙に神経をすり減らす「査察の仕事」へと様変わりしていた。
翌日もその翌日も、石の地蔵の前に足を向ければ、必ずミケが影のように待っている。
「おじさん、昨日約束した小魚、忘れてないでしょうね」
「まったく、恩着せがましい……」
文句を垂れつつも、昭夫は近所の鮮魚店で、売り物にならない端っこのアラを分けてもらい、ポケットに忍ばせて通うようになっていた。社会という歯車から外された老兵が、この裏路地では一丁前の「相談相手」としてあてにされている。その居心地の悪さと温らぎが、妙に皮膚の内側をくすぐった。
だが、数日を過ぎると、その小さな祠の前には次々と厄介な野良どもが押し寄せるようになった。どうやらミケを介して、ここが猫たちの間で噂の溜まり場になってしまったらしい。
ある日の午後。昭夫が小皿に水と小魚を並べていると、足元でドサリと鈍い重みが響いた。見下ろせば、毛並みこそ艶やかだが、驚くほど丸々と肥えたキジトラの雄――マルが、アスファルトに腹を投げ出している。大げさなため息が鼻先から漏れた。
「おい、何か美味いもん持ってないか。もう歩くのも面倒くさくてたまらん」
「その腹でよく言う。どこが具合悪いんだ」
呆れた昭夫に、マルは気だるげにヒゲを震わせた。
「贅沢な悩みさ。近くの肉屋の奥さんと、料理屋の主人が競うようにマグロの刺身や唐揚げをくれるんだよ。あまりに美味くて食い過ぎたら、お気に入りの塀の隙間に体が挟まって抜けなくなっちまった。どうしてくれるんだ、この脂肪は」
「知るか。自業自得だ、少しは走れ」
「走るなんて面倒くさい。何かこう、楽に痩せる魔法の薬でも持ってないのか」
「あるわけないだろ。第一、お前は猫のくせに人間臭い贅沢病だな」
「ちぇっ、役立たずめ」
欠伸を噛み殺し、そのままその場で丸まって目を閉じた。ダイエットの相談に来たはずが、ただの愚痴の吐き捨てである。
また別の日には、耳の切れた老猫のシロがやってきた。
「ねえ、おじさん。俺の長年の寝床だった更地のプレハブ小屋が、今日から取り壊されちまってさ。あそこは風も避けられて最高の場所だったのに……。どこか安全で静かな日向ぼっこスポット、知らないか?」
切なげな瞳に絆された昭夫は、自宅の庭の縁側を思い浮かべた。
「うちの庭の隅に、ちょうどいい縁側がある。そこなら日当たりもいいし、誰も邪魔しない。……来るか?」
シロは目を輝かせ、「さすが人間、話が早いな」と軽やかに昭夫の足元をついてきた。
だが、現実はそう甘くはない。翌日、庭を覗くと、シロは確かにそこで丸くなっていた――が、その足元では昭夫が大事に手入れしていた盆栽の黒土が盛大に掘り返され、無残に散らばっている。おまけに、昭夫の履き古したスニーカーには微かなアンモニアの匂いが漂っていた。
「お前な、せっかく親切にしてやったのに、何をしてるんだ!」
怒鳴りつける昭夫をよそに、シロは耳をぴくりと動かしただけで、すたすたと別の塀の向こうへと消えていった。
――うまくいかない。猫たちの願いを聞いては空振りに終わり、時には振り回され、散々な目にあう。現役時代、企業の営業部長として、部下の尻を叩きながらどんな難問もマニュアル通りに潰してきた。それが彼の正義だった。だが、この裏路地や庭で起きることは、どれ一つとして形に収まらない。猫たちは言うことを聞かず、悩みは宙ぶらりんのまま、ただ時間だけが掠れていく。
「……まったく、勝手な連中ばかりだ」
ある夕暮れ、昭夫は自宅の縁側に腰掛け、生温い緑茶をすすりながら息を吐いた。庭にシロの姿はない。荒らされた盆栽の土はそのまま放置されている。かつての自分なら、こんな非効率で乱雑な空間など一秒も耐えられなかったはずだ。すべてをきれいに整頓し直したに違いない。
だが、不思議と胸の奥にあった、あの社会から切り捨てられたような冷たく重たい空洞は、どこか薄れていた。マルがこぼした贅沢な愚痴も、シロの恩知らずな気まぐれも、ただ生々しく、滑稽で――。
「……まあ、思い通りにならないのは、俺の人生も同じか」
昭夫は乾いた唇の端を緩め、赤く染まり始めた空を見上げた。遠くの屋根の上から、掠れた猫の鳴き声が一つ、夕闇の中に溶けていく。
七月の半ばを過ぎ、アスファルトの照り返しが肌を突き刺すような蒸し暑い午後だった。昭夫は、特売の塩辛を買い求めた帰り道、ふと引き寄せられるように裏路地の地蔵の前に足を向けた。だが、そこにいつもいるはずの三毛猫の姿はない。
「……今日は珍しいな」
拍子抜けしたように枯れ葉を掃いていると、ようやく夕暮れの気配が辺りを冷まし始めた頃になって、不規則な足音が聞こえてきた。いつもの軽やかな足取りではなく、引きずるような、頼りない重みだ。
「おい、ミケ、どうした――」
声をかけかけた喉が、勝手に詰まった。
そこにいたミケは、目を覆いたくなるほど傷ついていた。首回りの毛は逆立ち、片方の耳の縁には生々しい裂傷がある。何より、いつも誇らしげにピンと立っていた尻尾が、濡れた雑巾のように地面にダラリと這っていた。トボトボと祠の前にたどり着くと、ミケは前足を折ってその場に崩れ落ちた。
「……あれ、昭夫……。なんだか、今日は体が重いみたい……」
掠れた、いつもの張りのない声が頭蓋に響く。昭夫は慌ててレジ袋をアスファルトに落とし、膝をついた。普段なら触るなと唸るはずの身体は、ぐったりと力なく伏せられている。
「どうしたんだ、その怪我は。どこかにやられたのか」
「ううん……。喧嘩なんて、そんな歳じゃないもの……」
ミケはうわ言のように呟きながら、遠くの大通りの向こうを見つめていた。その琥珀色の瞳には、いつもの鋭い値踏みの色はなく、底知れぬ疲労と、どうしようもない切なさが濁って浮かんでいる。
「ねえ、昭夫。私ね……ずっと、探してたの。ずいぶん昔に、私を撫でてくれた女の子を」
ぽつりと言葉が零れ落ちた。猫が人間の過去を語るのを聴くのは、これが初めてだった。
「あの時はね、もっと広い庭のある大きな家にいたの。毎日、その子が冷たいミルクをくれたり、鈴のついたリボンの首輪をつけてくれたりして。私のことを『世界で一番大事な家族』だって、そう言ってくれたのよ。……でも、ある日突然、大きなトラックが来て、人間たちが慌てふためいて。私はびっくりして、庭の隙間に隠れたまま、その子とはぐれちゃったの」
ミケの耳が、情けなくぺしゃんこと折れ曲がる。
「それからずっと、この街を探し歩いてるのよ。でも、街はどんどん形を変えちゃって、知らない建物ばかり。あの時の匂いも、もう風にかき消されて……。ねえ、昭夫。私、もう忘れたほうがいいのかしら。あんな昔のこと、とっくにあの人は私のことなんて忘れて、どこか遠くで別の綺麗な猫を可愛がっているかもしれないわよね」
その言葉が落ちた瞬間、昭夫の胸の奥底で、固まっていた澱がドクリと重く波打った。
――「忘れたほうがいい」――「過去を振り返っても、始まらない」
それは、定年の日に私物を詰めた段ボール箱を抱え、会社のエントランスを出たとき、昭夫自身が自分の心に何度も叩き込んだ言葉だった。長年勤め上げた部署。自分が築き上げた実績も、頼りにしてくれていたはずの部下たちも、一歩建物の外に出れば「ただの過去の人間」だ。
未練を残したところで、誰も振り返ってはくれない。だから綺麗さっぱり切り捨てて、これからは「邪魔にならない隠居老人」として慎ましく生きなければならない。そうやって心に鍵をかけ、諦めることでしか立っていられなかった。ミケの背中が、まるで過去にしがみついて震えているかつての自分の姿に重なって見えた。
「……馬鹿野郎」
喉の奥から、乾いた声が勝手に絞り出された。ミケが、ハッとして弱々しく顔を上げる。
「諦めるのがそんなに偉いのかよ。忘れられるのが怖いからって、最初からなかったことにするなんて、そんなの、ただの逃げじゃないか」
自分でも驚くほど、熱を帯びた声だった。胸の蓋の隙間から、押し殺していたはずの感情が熱を持って溢れ出しそうになる。
「……そこまで未練タラタラならさ、最後まで探してみりゃいいだろ。幸い、俺には時間だけは腐るほどある。……いや、暇を持て余した老いぼれの意地ってやつを見せてやるさ」
昭夫はぐっと拳を握りしめ、ボロボロの三毛猫を見据えた。
十年前の引っ越し先を探して、昭夫は汗だくになりながら大通りへと足を伸ばしていた。
「十年前、この近くに大きな庭があって、三毛猫を飼っていた少女がいなかったか」
通りの角で、かつて自分が担当していたゼネコンの現場監督だった男の姿を見かけたのは、まさにその時だった。ぴしっとアイロンの効いた夏用スーツ、耳に挟んだワイヤレスイヤホンで誰かとテキパキと交渉しながら、男は昭夫の目の前を通り過ぎていく。
現役時代の昭夫なら、向こうから「お疲れ様です!」と頭を下げてきたはずの相手だ。だが、今の昭夫は、ヨレヨレのTシャツにサンダル、スーパーのレジ袋をぶら下げた、ただの無職の老人だった。
「……っ」
昭夫は反射的に、路地脇の古びたタバコ屋の看板の陰に身を隠した。自分が「社会の外側」に転げ落ちた透明人間であることを思い知らされる瞬間だった。男が通り過ぎたあとも、乾いたアスファルトの照り返しの中で、昭夫の心臓は嫌な音を立ててバクバクと脈打っていた。
何をやっているんだ、俺は。他所の猫の過去の未練なんて探して、一体何のまねだ。自分自身の居場所すらどこにもないくせに。どっと押し寄せた気まずさと情けなさに耐えかねて、昭夫はそのままトボトボと裏路地へ逃げ帰った。 そこには、いつものように祠の前にちょこんと座り、じっとこちらを見据えるミケがいた。
「なんだい、その情けない顔は。また人間どもに何か言われたのかい?」
ミケの鋭い目が、昭夫の隠しきれない動揺を値踏みするように射抜く。
「……うるさい。余計なお世話だ」
昭夫は舌打ちを吐き、ドサリと路地に腰を下ろした。猫の傷ついた過去に自分を重ねて感傷に浸っていた自分が、急に滑稽でたまらなくなる。だが、逃げ出した先で待っているのもまた、行き場のないボサボサの野良猫一匹なのだ。
七月の終わり。むわっとした湿気を孕んだ夕風が、昭夫の家の縁側をかすめていく。庭の隅の植木鉢では、アサガオの紫色の花がとぼけたように萎れていた。昭夫は縁の板に腰を下ろし、湯気の立たない麦茶のグラスをぼんやりと見つめている。
ミケの過去の飼い主を探す試みは、結局のところ中途半端に終わった。十年前の引っ越し先を裏付けるものは何一つ見つからず、ミケのたったひとつの未練は、形のある救済を迎えることなく霧散した。すべてが綺麗にまとまるわけがない。現実はいつだって、不完全で、少しだけほろ苦い。
あの日の夕方から、ミケは三日ほどお地蔵さんの前に現れなかった。どこかで倒れているのではないか、別の街へ行ってしまったのではないかと、昭夫は胸の奥のざわつきを抑えきれず、何度も裏路地に足を運んだ。あんなに気まぐれな野良猫だと言い聞かせていたというのに、いざ姿が見えなくなると、ぽっかりと胸に空いた穴の広がりをごまかせなかった。
そして、四日目の夕暮れ。今日もいないか、とため息をつきながらお地蔵さんの前を通りかかったとき、そこにひっそりと、見覚えのある小さな後ろ姿がちょこんと座っていた。
近づくと、ミケだった。傷だらけだった耳のまわりの毛は少しだけ整い、尻尾もいつものようにピンと誇らしく……とはいかないまでも、だらりと地面を引きずることはなくなっていた。昭夫がホッと息を吐きながら近づくと、ミケは振り返り、琥珀色の目を細める。
「なんだい、昭夫。そんな情けない顔をして。私がどこかで野垂れ死にでもしたと思った?」
「……お前なぁ。心配させやがって。どこをほっつき歩いてたんだ」
呆れたようにしゃがみ込むと、ミケはふん、と小さく鼻を鳴らした。
「ちょっとね、昔の記憶が詰まってた空き地のあたりを、もう一歩だけ歩いてみたのよ。そしたらさ、やっぱり昔の匂いなんてすっかり消えていて、あるのは新しいアスファルトと、知らない人間の足音ばかりだったわ」
ミケの声に、切なさや悲壮感はもう混じっていなかった。どこか吹っ切れたような、乾いた風通しの良さがある。
「でもね、不思議と嫌な気持ちはしなかったの。あの子とはもう二度と会えないかもしれないし、あの頃に戻ることもできない。……だけど、私、今ここにいるわよね。お腹が空けばお前が小魚をくれるし、この街には日向ぼっこができる場所も、まだいくらでもある」
ミケはそう言うと、お地蔵さんの冷たい足元からふわりと軽やかに飛び降り、昭夫の足元に体をすり寄せた。
「過去にしがみついてウジウジ悩むより、今日の夕飯の魚の方が大事ってわけよ。ねえ、昭夫、そう思わない?」
その言葉が落ちた瞬間、昭夫の胸につかえていた重たい澱が、スッと音を立てて溶けていくのを覚えた。そうだ。失った過去や、思い通りにいかなかった現実に囚われて、縮こまる必要なんかない。
会社を辞め、肩書を失い、社会の歯車から外れたって、俺の人生はここで終わったわけじゃない。綺麗に解決なんてしなくていい。すれ違いだらけで、不格好で、ままならない毎日の中にだって、ちゃんと温もりや笑い転げる瞬間はある。
「まったく……。猫のくせに、いい気なもんだな」
昭夫は声を上げて笑った。それは、定年を迎えてから初めて、心の底から漏れた笑い声だった。
数日後。相変わらず家の中では妻からは。
「あなた、粗大ゴミの出し方、また間違えてるわよ」
小言を言われるし、自分の居場所が劇的に優雅になったわけではない。それでも、夕方の散歩のたびに裏路地へ足を運べば、そこにはお地蔵さんと、気まぐれな野良どもが待っている。
その日の夕暮れも、昭夫は自宅の縁側に腰掛け、冷えたお茶をすすっていた。隣には、いつの間にかちゃっかりと陣取ったミケが、目を細めてうとうとと心地よさそうに喉を鳴らしている。
「おい、ミケ。今日はもう店じまいだぞ」
「うるさいわね、もう少し日向ぼっこに付き合いなさいよ、おじさん」
茜色の夕日が、古いブロック塀と小さな祠、そして不器用な老人と一匹の猫の影を、優しく長く引き延ばしていく。風が吹き抜け、世界は相変わらず不完全で、思い通りにならないことばかりだったけれど――いまの昭夫にとって、その揺らぎのすべてが、なぜだかとても愛おしかった。




