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82.声になったおかえり



 エルミナ孤児院の門をくぐった瞬間、グレイスはふと足を止めた。


 門の辺りまで聞こえてくる懐かしい喧騒の中に、彼女の記憶にない静けさがほんのりと混じっていた。

 まるで、誰かの帰りをずっと待っていたような、そんな空気。


 その空気を吸い込み、グレイスが意を決して中に入ると、元気いっぱいな子どもたちの声がグレイスの耳に飛び込んできた。


「待てよ、それ俺んだぞ!」

「お前さっき二個食べただろう!? これは俺のだ!」

「そっちのほうがおおきいよ! ずるいー、わたしのとかえて!」

「みんな、少し落ち着きなさい」


 目の前で走り回っているのは、お菓子を巡って争いを繰り広げる子どもたち。

 グレイスの記憶よりも大きくなっていることが、この場所を去ってからの年月の長さを思わせる。


 そんな子どもたちをなだめるように声を上げる院長の顔は、わずかに刻まれた皺が深くなっているものの、温かな笑顔が浮かんでいた。


 懐かしさに胸がつまりそうになったが、グレイスはあえて明るく声をかけた。


「みんなー! ただいまっ!」


 すると、彼女の存在に気づいた子どもたちの空気が一瞬止まった。

 

 伝えられていた予定よりも早い帰還だからだろうか。

 子どもたちの瞳がまるで幻を見ている如く、不思議そうにパチパチと瞬きを繰り返す。


 だが次の瞬間、花が一斉に咲き乱れるように、彼らの中に満面の笑顔が溢れた。


「グレイス姉だーっ!」

「おかえりー!」


 駆け寄ってくる小さな体を受け止めながら、グレイスは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 ――ああ、帰ってきた。

 この場所だけが、彼女の原点であり、終着点だった。


「グレイス姉なんか大人っぽくなってる!」

「そりゃあね。なんせあれから三年は経ってるんだから。みんなも、大きくなったね。見違えたよ!」

「こいつは身長全然伸びてねぇけどな!」

「うるせぇよお前は!」

「なんだよ本当のことだろう!?」


 小競り合いは相変わらずで、孤児院の時間だけは昔の幸せなまま止まっているようだった。


「こら、二人とも、喧嘩しないの。まったく相変わらずなんだから……」


 何年経っても変わらない二人に、グレイスが呆れたようなため息を落とす。


 一方で院長は、しばらく言葉を失ったようにグレイスを見ていた。

 その目には、安堵とも涙ともつかない光が宿っている。


 グレイスはそれに気付き、彼女の元へ歩み寄ると、院長の体をぎゅっと抱き締めた。


「ただいま、院長先生」

「おかえりなさい、グレイスさん」


 しばらく、無事を温もりで伝えるように抱き締めた後体を離すと、院長は何も言わず、上を指さす。

 その意図が分かったグレイスは、彼女に頭を下げると、懐かしい孤児院の中へと足を踏み入れた。

 

 途中すれ違う子ども達やシスターがグレイスを笑顔で出迎え、彼らとの再会を喜びながら二階へ向かう。


 光がより強く差し込む上へと続く階段は、以前よりも磨かれているように見えた。


 埃のない手すりをそっとなぞり、二階に到着すると、グレイスの目の前に小さな体が飛び出す。


「こんなのすぐにかわくからっ!」


 そう叫びながら現れたのは、頭を濡らした少年。

 最後に見た時はまだ一言二言しか喋れなかったのに、その成長ぶりにグレイスの瞳が細くなる。


 久しぶりに顔を合わせるので、グレイスが誰なのか覚えていないかも……と心配になったが、それは杞憂に終わった。


 少年はグレイスを目に留めると、途端に足を止め、にぱっと歯を見せて笑ったのだから。


「あぁぁーっ、グレイス姉ちゃん、グレイス姉ちゃんだぁっ!」

 

 彼はそのまま抱き着き、グレイスは優しく抱き上げる。


「グレイス姉ちゃぁん! おかえりなさい!」

「うん。ただいま!」


 そんなグレイスの前に、一人の青年が現れる。


「こら! 頭拭かないと風邪引くよ! ……まったくもう、じっとしてくれないと」


 大きなタオルを手にして、穏やかな顔に少しだけ怒ったような呆れたような表情を浮かべながら、少年へ手を伸ばしかけ――その途中で、青年の動きがふっと止まった。


 そこで彼は初めて気が付いたようにグレイスをじっと見つめたかと思うと、深青の瞳を大きく見開いた。


「グレイス……?」


 空気がふと静まり、グレイスは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。

 その心地のまま、彼女は一つ頷き答える。


「うん、そうだよ、アレク兄さん」

「あれ、でも、到着は明後日だって……」

「ちょっと早く着く乗合馬車に乗れたから」

「そっか」

「うん」


 倒れたあの頃の弱々しいアレクの面影は、ほとんど残っていなかった。

 けれど、瞳の奥、ほんのわずかに滲む影が見える。

 ――それでも、今の彼を覆う光の方がずっと強かった。


 アレクは笑っていた。

 昔と変わらない顔で――昔よりも大人になった姿で。

 

 そしてアレクは、手を広げて言った。


「おかえり」


 ――あの日、アレクは、『ただいま』の一言すら言えなかったのに。

 けれど、今の彼は違う。


 目に涙が滲む。

 グレイスは堪らずアレクに抱き着いた。


「ただいまっ!」


 抱き寄せながらアレクの腕が、そっとグレイスの背を支えた。

 久しぶりに感じるアレクの体温に、グレイスの喉が震える。細身ながらも昔に戻ったアレクの体躯を感じ、グレイスはアレクの胸元に顔を埋めた。


 その途端、


「ちょっとー、ぼくまだここにいるよ! つぶれちゃうっ!」


 グレイスに抱かれたままになっていた少年の声に、思わず二人は体を離す。


 そしてお互いに顔を見合わせると小さく笑い、もう一度名前を呼んで言葉を交わした。


「ただいま、アレク兄さん」

「おかえり、グレイス」



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