77.ロアン編:終『破壊へ堕ちた守護者』
石の匂いが染みついたグラディス家の地下牢の空気は、季節すら忘れたように冷たい。
その奥、粗末な寝台の上にロアンは横たわっていた。
粗い鎖で繋がれているわけではない。
ただ近くには番兵が二人。
この空間から出られないという事実だけが、全身を締めつける拘束となっていた。
……本来なら今頃、学園では卒業パーティーが始まっているはずだ。
笑い声、楽器の音、煌びやかな衣装――その中心に、きっとグレイスがいる。
「……ドレス、着てんのかな」
ロアンはぽつりと呟いた。
薄暗い天井を見つめながら、瞼を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、塔の上で風に揺れていたライトブラウンの髪。
あの日の彼女の笑顔。
そして、救いようのないほど残酷な拒絶。
『あはっ、絶対に嫌』
胸の奥が、じわりと音を立ててひび割れる。
だがその痛みすら、いまのロアンには遠く感じられる。
守りたかった。
守れる自分が好きだった。
だから、グレイスを守らせてほしかった。
……でも彼女は言った。
『あなたは守るんじゃなくて、壊す男だ』
その言葉が、冷たい刃のようにロアンの中を往復し続ける。
ロアンは寝台から足を下ろし、重い足取りで石の床に立つ。
ひやりとした冷たさが骨まで沁みた。
「……守る男じゃない。壊す男、かよ」
ぼそりと呟いて、苛立ちのまま寝台の縁を思い切り蹴りつけた。
鈍い衝撃音。
足先の鈍痛。
それでも、怒りは収まらない。
怒りの矛先は、もう自分自身に向いている。
「俺、は……」
拳を固める。
けれど、次の瞬間。
力が抜けた。
拳は、ただ虚空を掴むように、だらりと下がる。
瞳に光はなく、焦点も定まっていない。
「……そうかよ。壊す、男……なんだな、俺は」
その言葉を自分で口にした瞬間、ロアンはふっと笑った。
おかしくもないのに、笑いたくもないのに。
嘲笑にも似た、乾いた笑い。
ああ――しっくりきてしまった。
彼女が言ったからじゃない。
どんなに否定しても、自分の手が壊したという事実が消えないからだ。
『守る』なんて言葉、もう二度と口にしてはいけない気がしていた。
寝台を蹴り飛ばした音を聞き、番兵が駆け込む。
「ロアン様!? どうされましたか!」
兵の声は緊張していた。
暴れたのかと身構えているのだろう。
しかしロアンは、ふらりと顔を向けた。
そして、狂気でもなく、怒りでもなく、ただ何かが壊れきった人間のように――笑った。
「……なんでも、ねぇよ。なあ、本当に――なぁんにも、ねぇんだよ」
その笑みがあまりに虚ろで、兵は無意識に身を引いた。
ロアンはもう正気という名の境界線の向こう側に落ちていた。
その時だった。
遠く、遠く――聞こえるはずのない音が、確かにロアンの耳に届いた気がした。
カン……カン……カン。
卒業パーティーの終わりを告げる、学園の鐘。
「……ああ、終わったのか」
ロアンはどこか安堵したように呟いた。
まるで自分が、その煌びやかな世界とは最初から無縁だったかのように。
「そっか。……俺の、終わりでもあるんだな」
体から力が抜け、ロアンは再び寝台へ倒れ込む。
グレイスの光は遠く、もう二度と手を伸ばすことすら許されない。
ただ一つ、彼の中に残った言葉は。
『あなたは壊す男だ』
その烙印だけだった。
地下牢の静寂の中、ロアンのかすかな笑い声だけが、いつまでも消えずに響いていた。
◆
地下牢の前に、ロアンの父と母が立つ。
息子を見つめる瞳は、悲しみと諦めで濁っていた。
「……あれはもう、騎士にはなれぬ。心が折れたのではない。歪んだのだ。壊すことを望んでしまっている」
現騎士団長であるロアンの父は、誰よりもその事実を理解していた。
「ロアン。お前は……本当に、壊れてしまったのか」
それでも確認のために問えば、鉄格子の向こうで、ロアンは片膝を抱えて座ったまま答える。
「壊れた? 違うな……。父さん、俺、気付いたんだよ」
ゆっくりと顔を上げ、笑いながら言った。
「俺さ……もっと壊したいんだよ。もっと……もっと……!」
狂気を押し殺したような声ではない、純粋な願望の声だった。
その瞬間、父の顔色が変わる。
「……処刑、するしかあるまい」
母の顔が青ざめる。
「そんな、あなた……!」
「これを表に出せば、守るべき民達が危険に晒される」
「ですが、まだ、時間をかければあの子は可能性が」
「あると思うのか? この姿を見て。もはやこれは、獣だ。血を求め、目の前の全てを壊すことでしか、己を保てぬ」
「……あの腕を……あの技を持つ子を……処刑するのは……」
ここで父は拳を握り、深く息を吸う。
「あの怪力と戦闘技術。団でも十年に一度の逸材だった……あれほどの戦士をただ殺すのは――惜しすぎる」
一息置いて、決断した。
「……ロアンを戦場に送る。隣国との最前線へ。二度と戻れぬ、死地へ」
「あなた……!」
「いずれ死ぬ。だが――ロアンの力は、そこでなら生きる。戦場ならば壊すことが正義となる」
死地へと送られる。
それなのにロアンは、まるで水を得た魚のように、その事実ににたりと笑ってみせた。
◆
ロアンが送り込まれたのは、帰還者がほとんど存在しないと噂される激戦地帯。
そこは血と叫びが渦巻く、戦場という名の地獄。
しかし――。
その地獄で、ロアンは輝いた。
返り血を浴び、破れた鎧を纏い、敵陣の中央で笑いながら暴れまわる。
「ははっ! ほら来いよ……もっと壊させろよ!」
その姿は、もはや騎士ではなかった。
「足りねぇ……。ああ、足りねぇ足りねぇ足りねぇ、全然っ、足りねぇんだよっ!」
戦闘狂――壊すために存在する男。
敵は恐れ、仲間ですら近付けない。
だが、戦果は圧倒的。
一人で一軍を押し返すこともあった。
ロアンは生きていた。
壊れた心のまま、壊すべき敵だけがいる世界で。
◆
ある日の夕暮れ。
血の海に立ちながら、ロアンはふと空を見上げる。
「……グレイス。見てるか?」
返り血に染まった頬を笑みで歪める。
「俺、お前の言った通りの男になったよ。誰も守れないし……ただ壊すだけの、最低の獣だ」
だが、その声には悲しみも躊躇もなかった。
「……ははっ。でもな、グレイス。ここじゃ俺……必要とされてんだよ」
吹き荒れる風が、ロアンの髪を揺らす。
「壊すことしかできねぇ俺が……初めて、正しく呼吸できる場所なんだ」
守らなければいけないと、騎士であらねばいけないと、これまで己の本能を無意識に押し殺していた。
だが、ここではその必要がない。
ロアンはようやく、嘘偽らざる姿で立てている。
風に乗ってどこからかヒマワリの花びらが飛んでくる。
ロアンはそれを血のついた手で掴むと、ぎゅっと握り潰して捨てる。
そして彼は笑みを深め、再び戦場にその身を投じる。
己を解放し、本能のままに暴れ、血を浴び、全てを壊すために。




