72.ロアン編:『誇りの凋落』 その3
身体が重力に引かれ、一直線に落下していく感覚。
時間にして僅か一瞬。
それでもグレイスに恐怖はなかった。
落下地点にあるのは、練習場の柔らかい砂地。
どんな状況下でも剣を振るえるようにと、この訓練場には様々な足場が用意されている。そのうちの一つだ。
塔の下にこの砂地があることをグレイスは予め確認していた。
グレイスは、ロアンをあえて激昂させた。
突き落とされることも想定内。
だが、死ぬつもりもなかった。
とはいえ、この高さから落ちれば重傷は免れない。
それは覚悟の上だった。
グレイスは受け身の形を取り、衝撃に備えたが――。
着地した瞬間、グレイスは強く背中を打ち、かはっと肺から息が漏れる。
同時に足を変な方向に曲げてしまったためか、そちらもズキリと痛む。
しかし、思っていた以上の痛みも苦しみもなかった。
衝撃で頭が上手く回らず、倒れたままぼんやりと理由を考えていたグレイスだが、手に触れた感触が砂ではないことに気づく。
続いて彼女の耳に入ってきた、下にいた生徒達の声。
「あぶねぇ! 間に合ってよかったわ!」
「マットかき集めてきた甲斐があったな」
その声に、グレイスの口元がほんのわずかだけ弧を描く。
……それは、本当に偶然だった。
グレイスが落されそうになっているのを見て、生徒達が自主的に、練習用の衝撃吸収マットを運び出してくれたようだ。
「大丈夫か!?」
「しっかりしろ!」
複数の影が、グレイスを取り囲むように覗き込んできた。
体を起こそうとすると、足首に走る痛みに顔をしかめる。
やはり着地の際に足を怪我したようだ。
その他にも息はまだ苦しく胸の痛む。もしかしたら肋骨の一、二本は折れている可能性がある。腕には擦りむいた傷がついている。
だが、想定よりはるかに軽い。
「無理に起き上がらないほうが……!」
「保健医呼んでくる!」
慌ただしく動き出す生徒達を見ながら、グレイスはゆっくり呼吸を整えた。
ちゃんと見ててくれたのだ。
ロアンを崩壊へと追いやるための役者は、きちんと機能してくれた。
塔の上では、掴み合う男達の怒鳴り声が響いている。
ロアンが取り押さえられる気配が地上からでも分かった。
しばらくして、塔の階段から複数の足音が急速に近づいてくる。
グレイスは、上半身を生徒達に支えられてその場に座ったまま、静かに視線をそちらへ向けた。
塔と外を繋ぐドアが開く。
ロアンは二人の男子生徒に両腕を掴まれている。
ロアンは力も強く、体も大きい。
周りの生徒はここで練習していた騎士候補たちだが、そんな彼らですら、必死の力で押さえているのが分かる。
しかし、ロアンの怪力は彼らの想像を軽く超えていた。
「離せっ! グレイスは……グレイスは無事なのか!」
グレイスを目にした途端、ロアンは怒号とともに拘束を一瞬で振りほどき、彼女の方へと突進する。
周囲にいた生徒達が、壁のように立ちはだかる。
「待て!」
「彼女に近づくな!」
しかしロアンが伸ばした腕が、前にいた男子生徒二人を弾き飛ばす。
「どけぇっ、邪魔だぁっ!」
まるで軽い荷物を払いのけるような、無意識の凶暴性が現れていた。
倒れ込む生徒、悲鳴、ざわめく視線。
けれどロアンはそんなものは一切見えていない。
「グレイス! 怪我はないか!? なあ、大丈夫だよな、おい、何とか言えよ!」
ロアンの声が震えていた。
怒りでも、焦りでもない。
ただ必死さだけが滲んでいる。
グレイスは、痛む足を抑えながら、彼を真っすぐ見つめた。
そして、ロアンにしか聞こえないほど小さく呟いた。
「……守るって、言ったのに」
グレイスの小さな囁きがロアンの耳に届いた瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。
「これ、は、……俺が……?」
ロアンは呆然としたまま、グレイスの腫れあがった足首、苦しそうに上下する胸元、擦りむき血のにじむ腕を見つめる。
続いて、周囲を見渡す。
そこには――。
グレイスを守ろうとして地面に転がされた、男子生徒が二人。
怯えた顔で距離をとる女子生徒達。
ロアンを拘束しようと走ってくる複数の生徒。
彼らの視線は、一つとして守る騎士を見る眼ではなかった。
その全てが、敵を見るような、拒絶の色を帯びていた。
「違う……! 落としたのは、偶然で。それに……そいつらだってただ、どいてほしかっただけで、力なんて入れてねぇ。なのに……なんで……なんで俺を……そんな目で……」
ロアンの声は震えていた。
怒りでも憤りでもない。
ただ、理解が追いつかない子どものようなか細い声。
「お、おい見たか? さっきの……あれ……」
「グレイスさんを持ち上げて落として、更に生徒まで……!?」
「あれどう見たって自分の意志だったよね?」
「力入れてないって……あんなにあの二人吹っ飛んでいったのに」
「グレイスさん、実はロアンさんが怖いって前に誰かに相談してたらしいよ。本当だったんだね」
「それ聞いたことある」
「……それに守るって言いながら、他の生徒を追い払ってたよね」
「私も実際にそれされたことある。すごく怖かった……」
「やべぇよ……あいつ……あいつは……」
囁くようなひそひそ声。
しかし、ロアンには全部聞こえていた。
守るどころか、自分が危害を加える側として扱われていること。
彼の顔から、血の気が音もなく引いていく。
「やめろ……違う……違うんだ……俺は……!」
ロアンはふらりと後ずさる。
それを見ながら、グレイスは心の中で呟く。
……全部、思い通りになった。
この状況がただの偶然ではないことは、グレイス自身が一番分かっていた。
グレイスを気に掛ける生徒達からの言葉を受けて尚、彼女は三人を悪く言うことはなかった。
常に彼らを庇い、彼らの期待に応えようとする健気なグレイス。
だが、ロアンだけは違った。
――その名はかつて、グレイス一度だけ、唯一名前を出し、不安を口にした人物。
すぐに自分で否定し、笑って誤魔化したその言葉は、この瞬間、彼自身の行動によって真実として回収されていく。
それが今、彼を包囲する恐怖の目につながっている。
「俺は……守りたかっただけで……! なんで……なんで、こんな……!」
ロアンの足元がぐらりと揺れた。
崩れ落ちる寸前の男の姿だった。
そしてグレイスは、最後に囁いた。
彼だけに、聞こえる声で。
「だから言ったでしょう? ――あなたは誰も守れない。その腕は壊すためにある。あなたは『全てを壊す男だ』って」
その瞬間、確かにロアンの心が折れた音がした。
ロアンの琥珀色の瞳が、濁り、闇へと染まっていく。
「急いで拘束しろっ」
男子生徒達が再度腕を掴み、今度こそロアンをグレイスから力ずくで引き離す。
ロアンは抵抗しなかった。
その気力すら残っていないようだった。
腕が下がり、肩が落ち、顔に影が覆う。
「……俺は……守るために……生きてきたのに……」
その声は、もう誰にも届かないほど弱かった。
「連れて行きます! こっちへ!」
去っていくロアンの背中を見つめる。
グレイスは、駆け寄ってきて体を支えてくれる生徒達に、自分の体を預けた。
ロアンは引きずられるようにして連行されていく。
その姿はもう騎士とはとても呼べない。
誇りを抜き取られ、空洞になった男の背中だった。




