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68.セヴラン編:答えの出せない世界



 翌朝。


 学園は卒業パーティーの準備で沸き返っていた。

 華やかな会場設営の声、講堂から響く笑い声、飾り付けの紙花がゆれる気配――どれも浮き立つ空気に満ちている。

 

 だというのに、生徒会室だけは、まるで音が壁の外で死んでしまうようだった。

 

 扉を開けると、グレイスは一瞬息を飲んだ。


 机に向かい、硬直したまま動かないセヴランがいた。


 今日はグレイスに引き継ぎ作業を行う予定だった。  

 しかし、置かれている紙束はどれも白紙のまま。


 原因は分かっている。

 それでもグレイスは普段通り、セヴランに話しかける。


「おはようございます、セヴラン様」


 声をかけても、反応はない。

 灰色の瞳は紙の上に落ちたまま、焦点が合っているのかも分からない。


 そこへロアンが入ってくる。


「おう、グレイス! セヴランもおはよーっ!」


 しかし、セヴランの異変に気づいたのかロアンはすぐに眉をひそめた。


「おい、セヴラン? どーした暗い顔して。しかも……なんかこれ全部白紙じゃん」


 ロアンが軽い口調で話しかけても、セヴランにはまるで風に声をさらわれたかのように届かない。


「……なぁ、セヴラン。今日のお前変じゃないか?」


 沈黙。

 ただ、セヴランは紙を見ているだけ。


 が、次の瞬間、セヴランの生気のない声がそこに落ちた。


「……最適とは、何だ」


 ロアンの顔から笑みが抜け落ちる。


「……は? 何言って……」


 セヴランは続けようとするのに、言葉が途中で砕けた。


「これまでと、同じはずだ。なのに……判断が、下せない」

「判断……?」

「私は、誤っていない。昨日まではそう確信していた。だが……なぜだ、今日は、思考が嚙み合わない……」


 否定しようとしている。

 だが、その否定自身を、言葉が拒絶している。


「……」


 グレイスは何も言わず、ただその様子を静かに見つめた。

 

 セヴランが――壊れていく。


 感情を持つことで、初めて生まれた矛盾。

 その苦しみは、刃よりも鋭く、逃げ場のないもの。


 グレイスは昨日セヴランの正しさを――彼が唯一信じるものを壊した。


 半分折ったルキアとは違う。

 完全にセヴランは折れた。


 しかし、セヴランが壊れたとして、仮に原因を調べられたとしてもグレイスが罰せられることはない。


 事実だけを述べるなら、グレイスがセヴランからの告白を断り、振られた彼が立ち直れないほどにショックを受けている。

 ただ、それだけだ。


 グレイスはセヴランには、アレクの復讐のためにこの学園に来たことも伝えていない。

 罪悪感の欠片すら持たない彼には、伝える意味すらなかったからだ。


 もうセヴランにグレイスがすることは、何もない。

 

 彼は一人、静かに落ちていくだけだ。


 グレイスは尚も静かな瞳でセヴランを観察する。

 

 セヴランが胸元に触れた。

 そこにはもう何も挿されていない。

 指先が震えたのに、自分でもそれを理解できていないようだった。


「……誤差では……ないのか」


 自分でも意味が分かっていない言葉を、苦悶のように落としていく。

 

 紙は一枚も動いていない。

 白紙のまま、ただ、彼を映し続けている。

 何も書けない男を。


「……セヴラン、今日は休んだ方がよくないか?」


 ロアンが困惑した声で提案する。

 セヴランはそれを否定するように、首だけを振った。


「大丈夫でなくとも……私は、ここにいなければならない。今日は……グレイス嬢に、引き継ぎ資料を渡すと……約束した」

「だけどよー、今の状態じゃ……」

「だめだ、私が何をどう引き継がせるかを判断して……そうだ、私が自分で正しく判断しなければ。しかし私の判断は、本当に正しいか……いや、正しい、はずなんだ……」


 虚ろな瞳でぶつぶつと呟くセヴランを前に、ロアンが、ふっと視線をグレイスに向けてくる。


「……なあ、グレイス。今日のセヴランどう考えてもおかしいよな」


 グレイスは心配そうな顔を作り、小声で返す。


「心配だよね……疲れてて、ちゃんと、眠れてないのかな?」

「おかしいと言えば、ルキアもなんかちょっと変なんだよなー」

「え。そうなのー? ……全然気づかなかったよ。ルキア様も疲れてるんじゃない?」

「そっか……まぁ、そうだな。卒業前って色々あるし……」


 ロアンは、曖昧に笑ってみせると、少し声を落とした。


「なあ、グレイス。今日の放課後、話したいことがあるんだ。例の花火見た場所……分かるだろ? あそこに時間になったら来てくれないか」


 ――遂に来た。

 グレイスは無邪気に笑い、頷く。


「いいよっ! 放課後にね」

「おう。じゃあ、また後でな」


 ロアンは気分を変えようと明るく笑い、セヴランに声をかけながら机に座った。


 グレイスは静かに、セヴランの横顔を見た。


 白紙を前に、動けなくなった男。

 正しさを捨てられない男。

 そして、それゆえに壊れていく男。


 グレイスは、微笑みの奥で、心の中だけで呟いた。


 さようなら、セヴラン。


 そして――次は、あなた。


 グレイスはロアンに目を向ける。


 今日、グレイスは、彼の騎士としての誇りを粉々に崩す。

 人知れず崩れていく他の二人とは、違うやり方で。

 

 みんなの前で――己の誇りが崩壊する様を、その目に焼き付けてあげる。


 グレイスは、そう静かに宣告した。



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