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67.セヴラン編:『正しさの喪失』 その2



 その数冊のノートには――アレクが生徒会に在籍時の業務配分、時間、休息時間の有無、そして彼が記した異様に崩れた文字が残っていた。


「これは、生徒会が過去に扱った業務記録です。セヴラン様が彼に与えた仕事量と、彼の作業速度の変化、保健室の入退室記録、休息時間、日に日に増加する生徒会室に宿泊するための申請書と、それに伴う提出物の遅延……」

「これは、確かに彼の記録だ」


 セヴランはデータを確認し、これが事実だと認めた。


 このノートは隠されることもなく、生徒会室の棚に他の書類と一緒にしまわれていた。


 なぜなら彼らにはこれを隠す理由がないのだ。

 アレクへの業務量は正しいと考えているのだから。

 

 けれど冷静に見れば分かる。

 データは嘘をつかない。

 

 グレイスは続ける。


「客観的に見て、彼に課された業務は明らかに常識の範囲を超えています。私に与えられていたものと同等……いえ、それ以上の業務量です。その上で彼は、その全ての業務を完璧にこなしていました。そして」


 グレイスは、別のノートを取り出す。

 そこにあったのはその当時のセヴランやルキア、ロアンの業務記録だった。


「彼に執務のほとんどを振り分けたことにより、三人の業務量は目に見えて減っています。このことから考えると、あの生徒は約四人分の業務を行っていたことになります。ここから見えてくる事実は何でしょう」

「それは……」

「セヴラン様、いくら相手が優秀でも、数字と記録はあなたの過ちを示しています」


 なぜ正確無比で数値としてのデータを信用するセヴランが、このことに気づけなかったのか。


 簡単な話だ。

 セヴランは、本当の意味で原因を追究することをやめたのだ。

 

 アレクは彼にとって例外だから。

 セヴランが間違っているはずがないから。


 故に、こんな簡単なことにも気づかない。

 

 セヴランが、一歩だけ後退る。

 呼吸が浅くなる。

 グレイスは構わず、冷静に畳み掛ける。


「私は、あなたが正しいと言うためにこのデータを集めました。ですが結論は――『誤り』です」


 もしもグレイスがただの道具であったなら、このデータを持ち出されたとしても、セヴランは己の過失を認めないだろう。


 だがセヴランが認めた、彼の正当性を証明するグレイスがそう言うのだ。

 セヴランの顔に明らかな迷いが生じる。


「だが、私は……間違っていないはずだ。私は、常に最良を――」


 言葉が震える。

 それは理性の崩壊の兆候だ。


「でしたら、私の判断が間違っていますか? 私は間違いを選ぶ物差しなのでしょうか」


 セヴランの取れる選択肢は、二つ。


 自分が正しいと仮定した場合。

 そうすると、グレイスの決断は誤りとなる。

 つまり、グレイスを正しさを証明する物差しとして選んだ『セヴラン自身の判断が誤り』だということになる。


 ではグレイスが正しいと仮定した場合。

 過去に生徒に負荷を課したセヴラン自身の判断が不適切だということになる。

 つまりセヴランが『正しくない存在』だということの証明。


 ――そう、どちらを選んでも、セヴランが正しくないという結論になるのだ。


 そのことに気づいたらしいセヴランの膝が震えた。


 今の状況は、セヴランがこれまで一度も味わったことのない行き止まりなのだろう。


 もし、感情を知る前のセヴランであれば、グレイスを切り捨てればよかった。

 しかしそれができない。

 グレイスを、心情的に手放したくないのだ。

 まして彼は今、全ての正しさの判断をグレイスに委ねている。

 

 それほどに、セヴランはグレイスに執着している。


「……これは、論理の罠だ」


 セヴランの眉間に皺が寄る。

 おそらく今、理性の『再構築すれば答えに辿り着ける』と、感情の『この結論を受け入れたくない』という二つの声が葛藤している最中なのだろう。


 しばしの沈黙の後、絞り出すようにセヴランが呟く。


「君の言葉の選び方が巧妙すぎる。……前提条件の立て方が、どこかおかしいはずだ。仮定の置き方さえ正しければ、矛盾は解消できる。私は……必ず、正しい解を導けるはずだ」


 その必死な声には、もはや余裕も冷静さもない。

 グレイスは静かに首をかしげた。


「では、私が誤った前提を置いていると」

「……」


 セヴランは言葉を飲み込む。


 彼は知っている。

 グレイスが出した結論には、不要な感情が含まれていない。

 データを集め、整理し、もっとも合理的な結論だけを告げた。

 ――そのグレイスが、セヴランのアレクへの見極めを誤謬と言い切った。


 ここでグレイスの識別が間違っていると切り捨てるのは、たやすい。

 だが、それをしてしまえば、そんな物差しを選んだ自分の判断まで否定することになる。


 セヴランの喉が小さく鳴った。


「……君は、私の正確さを拓いてくれた存在だ。君は常に私の正しさを補完してくれた。そんな君が誤っているなど、ありえないはずだ」

「でしたらやはり、間違っているのはセヴラン様の方ですね」


 静かな断言。

 セヴランの視界が、一瞬白く弾けたように揺らぐ。


「……やめろ」


 かすれた声音が漏れる。


「その結論は、安易すぎる。……私は、長年、選び続けてきた。合理を選び、最適を選んできた。たった一つの例外的な事象で、それまでの積み重ねまで否定するのか」

「例外的。あなたは、そう呼ぶのですね……」


 グレイスは、そこで少しだけ目を伏せる。


「壊れた彼は、例外の一つに数えられる程度の存在だったのですか?」

「……」

「数字で見れば、彼はたった一つの点かもしれません。ですが、彼自身にとっては、それが人生の全てだったのではと考えます」


 淡々とした声。責める色は一滴もないのに、言葉だけが正確に刺さる。


「あなたが誤差と呼んだその一点が、彼の世界の全てを壊したんです。一人の人間の人生を奪ったあなたを、私は、上に立つべき人間ではないと判断しました」


 怒りでもない。悲しみでもない。

 名前のない、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた感情の塊が、セヴランの顔に浮かぶ。


「……待て」


 セヴランが一歩、グレイスに近づく。


「待ってくれ、グレイス。君を否定したいわけじゃない。だが、だとすると、私は――」


 自分で言いかけて、息を詰まらせる。


「……私は、間違っていたことになる」


 初めて、その言葉を自分に向けてしまった。


 口に出した途端、足元から世界が崩れていく錯覚に襲われたようだった。


 セヴランの呼吸が浅くなり、彼は苦しむように胸の上を押さえる。


 グレイスは、その様子をじっと見つめる。


 セヴランは今、はっきりと恐怖を抱いている。

 自分の内側にある計算できないものに、初めて真正面から触れてしまった男の顔。


 グレイスは静かに花を胸元から外した。


「セヴラン様」


 紫のアイリスを、両手で包み込むように持つ。


「私はセヴラン様のことを、ずっと正確無比な方だと思っていました。今でもそうであってほしいと願っています」


 セヴランの瞳が、縋るように揺れる。


「なら――」

「だからこそ、あの生徒のことも見過ごせません」


 淡々と、しかし迷いなく続ける。


「データを見ました。記録を集めました。その上で、私は『あなたが彼を壊した』と判定しました」


 セヴランの喉がひくりと動く。


「……私が、彼を?」

「はい」


 即答。


「意図があったかどうかは、ここで問題ではありません。結果として、あなたの判断が一人の人間を壊した。少なくとも、私にはそうとしか読み取れませんでした」

「それは……」

「これが、私があなたに下す評価です」


 グレイスは、紫のアイリスをそっと見つめる。


「私の言葉が誤りだというのなら、私は誤っている物差しということになります。その場合――」


 彼女は静かに笑った。


「私は、あなたの傍にいる資格はありません」


 その瞬間、セヴランの顔から一気に血の気が引いた。


「待て、それは――違う。君は、誤ってなどいない。君はこれまで、何度も私の視界を補ってくれた。君がいなければ、私は今ほど正しくあり得なかった。君は――君だけは、確かな秤だ」

「では、私が正しいのであれば」


 グレイスは、一歩だけ後ろに下がる。


「セヴラン様は、一人の人間の揺らぎを誤差として捉え、例外として切り捨て、壊した方になります」


 どちらも選べない。

 どちらを選んでも、自身の根幹が砕ける。


 セヴランは額に手を当て、必死に何かを組み立てようとする。


「……あれは本当に例外だった。稀有なケースだ。私が見誤ったのではなく、私以外の手が加えられた。前提となる情報が欠けていた。だから」

「情報が足りなかったから、壊したのは仕方がないと?」


 グレイスは、その言葉を静かに繰り返した。


「それを、あなたが口にされるのなら……私の方こそ、あなたの傍にはいられません」

「なぜだ」


 ほとんど縋るような声だった。


「君は、私の正しさを支えると言ったはずだ。……あの約束は、偽りだったのか」

「偽りではありません」


 即座に否定する。


「だからこそです」


 グレイスはゆっくりと、手の中の花を見つめた。


「あの生徒を、ただの誤差として処理したままのあなたの隣に立つことを、私は選べません」

「……」

「あなたが私を信じてくれたように、私も自分の決定を裏切れません」


 それは、どこまでも理性的な拒絶だった。

 恋情ではなく、復讐の激情でもなく、

 自分の判断と矛盾しないための選択。


「私は、セヴラン様の正当性を測る物差しです」


 グレイスは、はっきりと告げる。


「だからこそ、誤っていると思うものを正しいとは言えません。たとえあなたにどれだけ求められても」


 紫の瞳が、初めて真正面からセヴランの核を射抜く。


「私がここで目を逸らせば、私は私自身の決断を裏切ることになります。それは……私にはできません」


 セヴランが、よろめくように一歩近づいた。


「……なら、どうすればいい」


 声が震えている。


「君を失わずに済む方法があるなら教えてくれ。どうすれば、君は私の傍にいてくれる」


 その問いには、ひどく幼い色が混じっていた。


 グレイスは一瞬だけ目を伏せ――そして、決定的な一言を落とす。


「……あなたが、あの生徒にしたことを誤りだったと認められないかぎりは」


 セヴランの身体が、完全に固まった。


「それは、つまり」

「あなたは『正しくなかった』と、自分で認めることです」


 彼は息を呑む。

 それは、これまで積み上げてきた自分自身への信頼――自分はいつだって最適な答えを選んできた――その土台を、自らの手で崩す行為だ。


 セヴランは目を閉じる。


 ――彼女を残したいのであれば、過去の判断を誤りだと認める。

 ――過去の判断は正しいと認めれば、彼女はいなくなる。


 どちらを選んでも、どちらかの自分が死ぬ。

 それでも選ばなければならない。


 本当にグレイスを愛しているのなら、セヴランは前者を取っただろう。


 だが、彼は最後まで自身の正しさに固執し、己を捨てられない男なのだ。


 セヴランは長い沈黙の後、掠れた声で言った。


「……できない」


 グレイスは、ほんのわずかに目を細める。

 予想通りだったという顔で。


「……やはりそうなのですね」

「私は、私を信じてきた。私のこれまでが正しかったからこそ、ここまで来られた。……あれだけは、例外だ。私の判断そのものではなく、条件の齟齬が生んだ不幸な結果だ。そうでなければ……私は――」


 『正しくない人間』になってしまう。

 その言葉を、どうしても口にできないのだろう。


 唇を噛むセヴランを見つめ、グレイスは、そっとアイリスを見下ろした。


「……私の答えも決まりました」


 彼女は紫の花を胸から離し、机の上にそっと置く。


「セヴラン様。私があなたの傍にいれば、きっとこれからも、あなたの判断を支えることはできるでしょう。 感情を整理し、揺れを分析し、幸福を与え、最適な答えを一緒に探していくこともできると思います」


 静かに続ける。


「けれど、あの生徒を切り捨てたままのあなたの傍に立つ私は、私が一番嫌いな私です。だから――私はお断りします」


 穏やかで、温度のない声だった。


「あなたを支える未来を、私は選びません」


 セヴランは、理解するより先に、身体が動いていた。


 伸ばした手が、グレイスの腕を掴みかけ――寸前で止まる。

 指先が、空を掻く。


「待て、グレイス。君は、君だけは、私の正しさを信じてくれると……」

「信じていますよ」


 柔らかな微笑み。

 その笑みが、彼にとって何より残酷に見えただろう。


「だからこそ、あの日の判断はご自身の過失だったと、あなた自身で言ってほしかった」


 セヴランは、何も言えなくなる。

 己の中で、論理も、感情も、何もかもが絡まり合って動けないのだろう。


 これも、彼が感情を手に入れた故に導き出された結末。


「……さようなら、セヴラン様」


 グレイスは一礼し、扉の方へ歩き出す。

 その背中に、セヴランの震えた声が追いすがる。


「グレイス……! 行くな。君がいなければ、私は――」


 正しくあれない。


 そう言いたかったのだろう。

 しかし、言葉になることは、遂になかった。


 グレイスは振り返らない。

 ただ、扉に手をかけたまま、最後の一撃だけを置いていく。


「セヴラン様。あなたご自身が、不合理な存在にならないことを願っています」


 カチリ、と取手が回る音が、生徒会室に響く。

 生徒会室に、一輪の紫のアイリスと、膝から崩れ落ちたセヴランだけが取り残された。

 

 ――セヴランが考えている以上に、彼は物事の正しさを判別する時に、グレイスに依存していた。

 感情を知らず、己の判断のみで正しさを測っていた頃には戻れない。


 彼がそのことを本当の意味で知るのは、今からだ。


 これから先、セヴランは正しさに縋ろうとするほど、その正しさが砂のように指の間から零れ落ち、答えの出ない世界へと取り残されることになる。


 しかし、これはセヴラン自身が選んだ結末。

 彼は自分の意志で、最も必要とする存在を切り捨てたのだ。


 そして。

 彼の中の秤は、この日を境に、二度と真っ直ぐな水平を刻むことはなかった。



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