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さよなら夏の日  作者: 浅見カフカ


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9/11

第9話 帰郷

燃やせる物は全て燃やした。

ガソリンをかけて基地の機密を焼き尽くした。

上官は命令だけ告げると早々に撤収......いや、逃げ出した。

数時間のうちにここ鹿屋航空基地は米軍機が降り立つだろう。

田崎も、もうここを発つ。

剣の手紙を、誠之助の名前を、嘉三郎の遺品を守らなくてはならない。

米軍に奪われてしまえば靖国で会った時に土下座をしても許されない。

いや、彼らは「ドジだな」と笑って許すだろう。

許さないのは田崎自身だ。

彼らの最期を伝えなくては生き残った自分の使命を果たさなくてはならない。

背嚢に詰め込んだ彼らの生の証を背負って基地を後にした。

最後に二度、三度振り返った。

頼りない細い煙が八月の青い空へ消えていった。


戦争に負けた......

勝つと思い込んでいた戦争に負けたという事実は一部に自棄やけを起こした集団を生み出した。

野盗だ。

一度田崎も襲われて、なんとか逃げることが出来た。

これが陛下の臣民の成れの果てだった。

敗戦の絶望からか、米兵への恐怖からか自殺や心中のあとも見掛けた。

無理もない。

鬼畜米英と教えられてきた連中が来るのだ。

つくづくむごい放送をしたものだ。

田崎はそんな事を思いながら呉を目指した。


門司まではなんとか辿り着くことが出来たが、そこから本州へ渡るのが難儀だった。

連絡船に乗れないのだ。

田崎は順番待ちの群れに身を寄せて門司でしばらくの足止めを食うことになった。


順番を待つ間、数人の赤ん坊と幾人かの傷病者が死んでいった。

蝿が止まりだらしなく口を開けた赤ん坊に自分の乳に必死で押し当てる母親の姿は流石に不憫で目を逸らした。


弱い国が負けた。

それは当然の帰結だ。

だが弱い者が死んでいい道理などない。

戦争を始めた軍部、政治家、貴族、財閥はまだのうのうと生きているはずだ。

国が戦争をやめた時から国民の凄惨な生存への戦いが始まったのだ。

ただどんなに怒りを募らせても田崎も単なる敗残兵だった。

この奔流に抗う術など無かった。


呉に辿り着いたのは鹿屋を発って三週間ほどしてだった。

その間に日本はミズーリ艦上で降伏文書に調印した。

途端に町を挙げての米軍歓迎には田崎も目を丸くした。

どの町も老若男女誰彼構わずだった。

もっともそれが屈辱を噛み殺してのものだとは承知している。

だがこれが皆が命を投げうって守ろうとしたものなのかと思わずにはいられなかった。


『坂上』の表札をようやく見つけた。

格子の戸を数回叩くと懐かしい顔があった。

あの日、鹿屋を訪ねて来た佳代子だった。

佳代子は目の前の田崎を訝しげに見て「どちら様でしょうか」と戸に半身を隠して尋ねた。

無理もない。

汗と埃で赤黒く煤けた上に頬が骸骨の様にこけてしまっている。

田崎の母親だって同じことを尋ねたかもしれない。

「嘉三郎くんの戦友の田崎です。一度鹿屋でお会いしましたね」

そう言うと佳代子は驚いて「お母さん、お母さん!!」と田崎を戸の外に置き去りにして行ってしまった。

割烹着の前掛けで手を拭きながら母親のセツが小走りでやって来た。

「すみません、不躾な娘で。こんな場所で立たせて待たせるなんて」

セツは呆れ声でそう言うと何度も頭を下げた。

「いいえ」

田崎はそう言うと背筋を伸ばし踵を揃えてセツに敬礼した。

「本日は嘉三郎くんから託された遺品をお持ちしました」

戦死の報せは既に届いていた。

「軍神様の御母堂じゃ」

「英霊のご家族じゃ」

近所の人達がそう労い讃えた数日後の降伏だった。

セツは玄関に正座をすると床に額がつくほどに頭を下げた。

「わざわざ遠路はるばる嘉三郎を送り届けて下っさってありがとうございます」

田崎は玄関の土間に膝まづくと「お母様、どうか顔を上げてください」と大慌てで言った。


和紙で束ねた嘉三郎の髪。

父、母、妹、弟への遺書。

お祖母さんへの遺書もあったが嘉三郎の戦死を知る前に逝去されたので仏壇に供えられた。

田崎は逗留を請われ、固辞したものの「嘉三郎の想い出を聞かせて欲しい」と言われて泊まることを決めた。

父親の留男は雨戸を薪にして風呂を沸かしてくれた。

(これから台風の季節なのに)

田崎は有難いやら申し訳ないやらで、せめてもの気遣いで嘉三郎との思い出は少し美化して話すことにした。

翌朝の出立のとき、セツが「お口に合えばいいですけど」と竹皮の包みを差し出した。

ぼた餅......いや、おはぎだった。

以前のような大きな物ではなく随分小ぶりのおはぎだった。

戦時下どころか更にものが無い状況で『息子の代わりにお前が飛べば良かった』と言われても仕方の無いこの状況で。

嘉三郎は本当に良い家族に恵まれたのだなと思った。

あとで聞いたがこの時のおはぎは佳代子のお手玉が化けたものだった。


田崎は一路、東を目指した。

次は剣の妻が居る東京だ。

呉駅から出ていた列車に乗った。

乗ったと言うか貨物列車に無賃乗車だった。

同じことをする人間が他にも大勢居た。

実のところ、駅員も車掌も見逃してくれていた。

もう多くの人が故郷に帰りたかった。

故郷の山に川に、大切な人たちに会いたかった。

そんな人達を引きずりおろす事は彼らには出来なかった。


(富士山だ)

ああ。嘉三郎達と見たのはつい数ヶ月前だったはずなのに、懐かしかった。

対面の座席に膝を付き合わせて、四人腰を掛けたあの日が瞼に浮かんだ。

「俺たちは死ぬことの本当の意味を分かっていたのかな」

瞼の向こうの嘉三郎に話し掛けた。

嘉三郎はそれには答えず静かに笑っていた。

(誠之助、お前なんて紙切れに書いた名前しか残ってないじゃないか)

「田崎くんが時々思い出してくれれば俺はずっと生きられるよ」

「死んだように生きる連中も居れば死んでも人の心に生き続ける奴もいるさ」

誠之助と剣の声が聞こえた。

「この国は再び世界の一等国になるよ。俺たちはこの国に命の種を撒いたんだ。育ててくれよ、田崎くん」

そう言うと三人は光の中へ歩いて行った。

「嘉三郎!!」

自分の叫び声で目が覚めた。

どこから眠っていたのだろう。

列車は小田原を過ぎていた。


やがて列車は高島の貨物集積所に止まった。

かつての賑わいは無く、建物の多くが空襲で焼失していた。

降りて大きく伸びをすると田崎は歩き出した。

(明日には着くだろう)

剣の自宅の入谷はあの空襲で大きな被害を被った地域だった。

(問題は着いたあとか)

自宅をどう探すかが思案のしどころだった。


上野駅を目印に入谷へ歩いた。

陶器の欠片や釘、ガラス片、トタンの一部と道が道の体を成していない。

江戸時代から大正初期まではこの辺りは朝顔市が行われて大変賑わったと聞いたことがある。

田崎が生まれた頃にはそんな風物詩も失われてしまっていた。

そして今やここにあった市街地も失われ、無数のバラックがひしめいていた。

板切れを寄せ集めて作られた住居とはとても呼べないものや、とても冬は越せなさそうなものまで...

そこにはかつての帝都の面影は無かった。

田崎は周囲の人達に坂田剣の家を尋ねて回った。

ようやく手掛かりを得たのは陽もだいぶ傾いた頃だった。

「剣さんとこね、あんな乳飲み子抱えて可哀想に。奥さん、言問橋の方に行くって言ってたよ。どっちの実家か知らないけれど、両親がそこに逃げてきたらしくてねぇ」

田崎は何かよく分からないものを煮込んでいた女性に礼を言うと言問橋へ向かった。

食べ物の匂いはしなかったがきっとあれが夕食なのだろう。

ここでもまたこの国の現実を思い知らされた気がして身震いがした。


一日の終わりに、それもこのような地獄の底でこんな報せを受けたら彼女はどのような気持ちだろうか...

ようやく見つけた言問橋の集落。

そこで田崎は剣の細君ツルさんに会った。

一瞬言葉を飲んだ。

この世界にあって一輪の花を見つけたような...とても美しい女性だった。

そんな女性が赤ん坊を抱えたまま、差し出された遺品を受け取って立ち尽くしていた。

そして剣の手紙を読み終えると「主人の...主人の言葉を届けて頂きありがとうございます。そうですね、この子は桜子と名付けることにします」と言って「桜子」と赤ん坊に呼び掛けた。

そして深く息をつくと田崎に向かってこう話し始めた。

「今、私の目の前に居らっしゃるのが田崎さん、あなた様で本当に感謝しています。きっともう二度と会うことのない人でしょうから。ですから私は私の本心を話すことが出来ます。嫌な女だと、心根の醜い人間だときっと思うでしょう。でも二度と会わないあなた様だから話すことが出来ます」

田崎は平静を装ってはいたが狼狽していた。

(罵られるのだろうか)

(それが彼女の一時の慰みになるのなら)

「あの人が、剣が生きていてくれるのならこの国が滅びようと私は構わなかった。剣さえ居れば焦土の街でも瓦礫の都市でもいいえ、たとえ地獄でも良かった。桜子の頭を撫でてずっとずっと長生きして孫を抱いて、凛々しい顔が台無しになるくらいに目尻を下げて笑うの。剣さえ——剣さえ生きていてくれたらもう何も......」

最後は何と言ったかは聞き取れなかった。

この人の心根が醜いなどとは思えなかった。

いや、思うわけなどない。


靖国で会おう

日本男児して潔く

死して英霊たらん


今、田崎は価値観が混乱していた。

確かに戦場で死ぬことは恐れてはいなかった。

誠之助のことも嘉三郎のことも剣のことも誇らしく思っている。

そして生きながらえたことを恥じている自分もいる。

なのに何だろう。

故郷の父や母や弟や姉、妹を思うと急に恐ろしくなってきた。

目の前で本心を吐露するツルさんの姿に自分はなんと恐ろしいことをしてきたのだろうと全身の血液が熱を喪っていくのを感じた。

同時に気が遠くなっていった。


気が付いたのは翌朝だった。

夕焼けは朝焼けに変わっていた。

まだふらつく頭で身体を起こすとツルさんが土下座をして謝罪をした。

いや、ツルさんだけではなくご両親もあらん限りの謝罪の言葉を述べて土下座をしていた。

田崎もすっかり驚いてしまって「こちらこそご迷惑をお掛けして申し訳ありません」と土下座をした。

皆で地面にひれ伏している様子を見かねた周囲の人が「ほら、赤ん坊がむずかってるよ」と助け舟をくれた。

田崎はツルさんとご両親に改めて礼を言った。

「私は昨日ツルさんに命をもらいました。私は戦友たちを見送ってむざむざ敗残兵として生きながらえました。散華の瞬間を見届けた友も居ました。そんな私が何故生きているのか......戦友たちを家族のもとに送り届けたら靖国に行こうと思っていました。ええ、それが私たちの約束でしたから。でも、昨日のツルさんの言葉に急に怖くなったのです。臆病者とそしりを受けても生きたいと思ってしまった。願ってしまいました。ツルさんは昨日、私に命をくれました。ですからお礼を言うのは私の方なのです」

田崎はそう言って深くお辞儀をした。

なんだか身体が軽くなった気がした。

言問橋のバラックを後にした田崎は(故郷へ帰ろう。島根に帰ろう)そう思った。

「お前も一緒だ」

そう呟いて誠之助の名が書かれた紙を大切に折りたたんだ。


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