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#34 治らない右肩

 ベッドに身を預け、部屋を出るフィリアを見送った。


 閉じられた扉の向こう側からは何の音もせず、窓から差し込んでくる茜色の光だけが、取り残された自分を照らしている。


 その光とは裏腹に、肌を撫でる空気は体の芯を通り抜けるように冷たく、思わず布団を引き寄せ、頭からかぶった。


 こもった息が熱を帯び、わずかに顔に返ってくる。


 布団の中の閉塞的な空間はすぐに息苦しさへと変わり、数分も経たないうちに頭を出してしまう。


 肺が新鮮な空気を求めて、自分の意思とは関係なく深く息を吸い込んだ。



 * ――――――



 呼吸が落ち着いた頃、フィリアが戻ってきた。彼女は小さい鍋のような器を乗せたトレーを両手に持っている。


 器を平行に保ちながらゆっくりとすり足で、部屋の入口近くにある台の上まで運ぶ。


「ふぅ……。」


 両手をぷるぷると振るわせ、一息ついた後、ベッドの近くにあるチェストからランプを遠くへ避難させ、彼女は入口からトレーを慎重に運び、チェストに置いた。

 椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろす。

 その一連の動作は、器の中身を一滴もこぼさないという強い意思に満ちていた。


 トレーに乗った小さい鍋の蓋を開けると、湯気がふわっと立ちのぼり、フィリアの頬をやわらかく包み込む。


 鍋の中は俺の体調に合わせて少なめに調整されたパンがゆで、湯気と一緒にほんのり甘い香りが漂う。


 彼女はスプーンですくった熱い中身に、唇をわずかに開いて優しく息を吹きかけた。甘く温い空気がこちらに流れ込んできて、胸の奥がくすぐったくなる。


 程なくして、スプーンが俺の口元まで運ばれる。


「アルトくん。あーんして」


 スプーンを片手に、まっすぐ俺のことを見つめるフィリア。


 差し出されたパン粥の湯気に当てられたのか、はたまた看病される羞恥心か、俺の意思とは関係なく頬が紅潮に染まってゆく。


「いっ……いや、その……。自分で食べれるから!」


 俺はフィリアの手からスプーンを受け取り、口に流し込んだ。湯気の割には舌を刺す熱さも無く、控えめな味が喉の奥まで静かに沁みていく。


「あったかい。身体に染み渡るよ」


 思わず口からこぼれた感想を聞いたフィリアは、ふっと安堵のような息を吐く。その横で、俺はパン粥をゆっくりと味わう。


「これ、フィリアが作ってくれたんだな」


 胸の奥まで温もりが広がり、痛みで弱っていた心がゆっくりと癒されていく。




「美味しかった。ありがとう」


 俺がパン粥を平らげると、フィリアはトレーを片づけ、チェストの上にランプを戻す。再び椅子に座ると、新しいタオルを濡らし、俺の額の上に優しくのせた。


「アルトくん。元気になったら、また一緒に頑張ろうね」


「ああ。そのためにも、早く治すよ」


 穏やかに時間が流れていくその空間の中で、俺たちを包み込む光が、窓から差し込む茜色から、ランプの黄色に変わっていった。



 * ――――――



 眠っているうちに、夜の光はゆっくりと溶け、窓から明るい光が差し込み、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

 覚えているのは夜の光が付き始めるまでで、これだけでも俺が長い間床に臥せていたことがわかる。


 ベッドから体を起こすと、服が肌に張り付き、寝汗の冷たさが背筋を走った。

 昨夜の温もりが嘘のように、朝の空気は容赦なく現実を突きつけてくる。


 ――お風呂に入りたい。


 隣を見るとそこにフィリアとティアナの姿はなく、別の世界に飛ばされたような感覚に陥る。


 俺は宿の鍵を左手に持ち、右肩をかばいながら浴場へと足を運んだ。




 入浴を済ませ、部屋へと戻ると、フィリアが部屋に戻っていた。


「体調はどう?」


 眉を下げ、覗き込むようにして俺のことを窺う。


「なんとか歩けるほどにはなったけど、まだ右肩が痛むよ」


 俺の言葉に、フィリアの視線がまっすぐ俺を捉えた。ただの心配ではない――踏み込む覚悟を決めた光だった。


「あの、アルトくん。治療院に行こう?」


 治療院か……。行きたいのは山々だが、俺はカノンの日記のためにお金を稼がなくてはいけない。


「それだと、お金が――」


 フィリアは小さく息を吐いた。それは諦めでも呆れでもなく、どうすれば俺が動くかを探るような静かな吐息だった。


「はぁ……。そういうと思ったよ。アルトくんは。日記もすごく大事なのはわかるけど、自分の身体をもっと大事にして」


 肩を落とし、ため息をつくフィリアを見て、今置かれている状況を再確認させられた。


 日記のために働くべきだと頭ではわかっている。けれど、その前に立ちはだかるフィリアの言葉が、俺の理屈を押し返してくる。


 フィリアは俺のためを思って言ってくれているのだ。それを無下にするのは仲間としての資格を問われるだろう。


 そもそも、俺に選択権などなかったのだ。


「ごめん。やっぱり行くよ」


 そう告げると、フィリアは待ってましたと言わんばかりに、目の前の荷物を背負って扉まで向かってきた。




 宿から出た俺は、外の光や喧騒に当てられた。

 子どもたちの元気な声や、店から漂う花の香り。


 体調が戻らない俺を無視するように、町の時間はせわしなく動く。


 隣にはフィリアがいて、治癒院の場所がわからない俺のために指を差しながら歩いていた。


 歩くたびに振動が右肩に伝わってきて、そのたびにずきりとした痛みが襲う。それでも、フィリアが歩幅を合わせてくれるおかげで、並んで歩けている。


 そのさりげない気遣いに、胸の奥が温かくなった。



 * ――――――



 治癒院に到着し、扉を開けると、両手を広げたくらいの小さな前室が現れた。数歩先には、薄いガラスの引き戸が立っている。


 外気を遮るために二重扉の構造にしているのか。


 俺は次の扉を開けると、上から「チリン」と鈴の音が鳴った。

 建物の中はひらけていて、座席が複数用意されている。ここが待合室になっているのだろう。


 入口のすぐ横には受付があり、ほのかに漂う薬のような匂いは、体調が回復するのではという期待を持たせてくれる。


「こんにちは、本日はどうされましたか」


 その声はあまり刺々しくなく、けどはっきりとした口調だった。俺は声がした方を向くと、白くて長い服を身にまとった女性が、受付のカウンター越しにこちらへと視線を送っていた。


 俺は今の状況を説明し、変色した右肩を見せると、その女性は驚いた表情を浮かべる。


「すぐ案内しますので、このまま少々お待ちください」




 ものの一分もしないうちに、診察室から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。


 これでようやく、自分の身に何が起こっているのかわかるのか。


 フィリアに目を配ると、彼女は俺に目を合わせる。


「アルトくん、一緒にいた方がいい?」


「いや、一人で大丈夫だ」


 俺はフィリアに背を向け、案内されるがまま診察室へと足を運ぶ。




 診察室の中に入ると、白くて長い服を着た男が座っていた。横にある机の上には、大量の本が無造作に散らばっていて、妙に圧迫感がある。


 この人が俺を診てくれる医者だろうか。


 身体は治るのだろうか。その期待と不安で、手のひらにじわりと汗がにじむ。無言でこちらを見据える医者の視線がさらに緊張感を高めていて、胸の鼓動が一拍ごとに強く響いた。


「早速ですが、右肩を見せてください」


 俺は医者に言われるがまま服をめくり、変色した右肩を見せた。すると、医者は机から小さな杖を出し、白色の魔法陣を描き始めた。


「――アナライズ」


 突如、描かれた魔法陣から四角い半透明のウインドウが浮かび上がる。ウインドウ越しに、医者の杖が小刻みに揺れているのがわかる。


「外傷により感染症を引き起こしています。ここ最近、大けがをされた覚えはありませんか?」


 医者の言葉に、俺は記憶を巡らせた。


 ――ワイバーン戦のとき、右肩に攻撃を受けている。


 俺は思い当たるそれを医者に伝えると、ゆっくりと腕を組み始めた。


「ふむ……。これを完治するには、最低30日はかかりそうです」


 30日――つまり、カノンの日記に届かない。


 胸の奥が急に冷たくなり、息を吸い込む力すら一瞬止まった。肩から全身の力が抜け、世界が音を失ったように感じた。




 診察室から戻り、フィリアが声をかけてくれたような気がしたが、返答する余裕はなかった。



次の更新は 12月30日 の予定です。

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