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【1989年6月】



 前世ではあまり意識していなかったのだが、中国で起こった天安門事件は、わりと大きく報道されていた。


 両次にわたる世界大戦の後、先行して復興した日本は、かつて侵攻した罪の意識からか、中国を積極的に支援してきた。この先の十年ほどで、各企業が競うように実施した中国への製造拠点の移転も、製造技術の伝播という意味で助力となるのだろう。


 三十年後の未来を知る俺からすれば、援助先だった中国に圧迫され、半ば怯える状態を余儀なくされる展開がはっきり見えている。だが、一介の高校生がそれを声高に叫んだところで、状況が覆るはずもない。


 実際、この時期には中国を「眠れる巨龍」として、半ば揶揄しつつ、同時に畏怖する表現が多用されていたので、まったく意外な展開ではなかったのだろう。


 前世での最後の頃には、一人っ子政策からの少子化で、やや将来が見通せなくなっていたようでもあった。そして、長い中国の歴史の中では、中央に陰りが生じれば地方に群雄が割拠するのは必然に近い流れでもある。俺の死後、あの世界ではどうなっていったのか。


 そして、戦車の前に若者が立ち塞がり、停車させる映像は今世でも繰り返し流れていた。ただ、一度は急停車した戦車が、少し後退して脇を走り抜けていったのも、前世のとおりだった。


「よく轢かれなかったわねえ」


 ばあちゃんが感心したように声を上げる。


「運転している方も、若者だったのかもね」


 この映像は、謀略説も存在していたはずだ。少なくとも数百人、もしかしたらいくつか上の桁の死者が出た事件の翌日だけに、無理もないだろう。


「これは、叛乱なのですか?」


 エルリアの面持ちは、やや硬いものとなっている。


「民主化運動、となるのかな。独裁に近い体制に、多くの学生が改善を求めたんだ。実際になにが起きたのかは不明だけど、虐殺に近い状態で、少なくとも数百人規模で殺されているらしい」


「この世界でも、そんなことが……。」


 でも、と言うからには、エルリアのいた世界でも為政者と抵抗者のせめぎ合いは激しかったのかもしれない。


「つい四十年前までは、世界大戦と呼ばれる大きな戦いが行われていたわけだからね。日本はわりと落ち着いているけど、世界全体に目を転じれば、凄惨な状況の地域は多い。残念ながらね」


 目を瞑って祈りのような言葉を呟いているエルリアは、何を思い浮かべているのだろう。


 この後の日本は、失われた三十年などと断罪されるが、社会が比較的安定していたことは評価すべきなのだろう。


 テレビ画面の話題は、就任したばかりの小野首相の女性スキャンダルへと移り変わっていた。


 消費税を導入した竹上首相は、リクルーティング事件の影響もあって支持率が低迷し、4月下旬に内閣が総辞職する事態に陥っている。その後の総裁人事が混迷し、ようやく就任したばかりであった。


 小野首相は、前世では在任期間の短さで知られた首相である。この人物をトップに据えた状態で参議院選挙を戦った事理民本党は、参議院で過半数割れの大敗を喫し、政治の季節……、いや、混迷の時代が訪れようとしていた。


 テレビを消したところで、玄関からあいさつが聞こえてきた。さほど大きくもないのによく通る、創始会の忠司さんの声である。


 迎え入れた客間には、引き続き鈍器やら熊の置物やらが並んでいる。


「順調ですか?」


 なにが、とは明示しなかったが、意図は伝わったようだ。創始会は、バブル景気で盛り上がる世界に乗り出しているはずだ。


「いや……、まさに金が金を生む展開ですな」


「そこまでですか」


「いくつかダミー会社を作って動いておりますが、どこも不動産取引のプレイヤーだと認められるや、手持ちの土地を担保にする形での融資話が幾つも届いています」


 いわゆる土地転がしが繰り返され、地上げ屋がダンプカーで民家や店舗に突っ込む、なんてニュースが世に流れている。俺としても、土地価格が天井となる時期は把握していない。確か株よりは後だったように思うが、いずれにしても最高潮に近いはずだ。


「……しつこいですが、年明けまでには手仕舞いを。一気に崩壊はしないでしょうが、どんどん売りづらくなるかと」


「もう、坊っちゃんの言葉を疑っている人間はいません。創始会は、身の丈を超える力を得ました。親父が仕切りに出なければ、まずいくらいに」


 知らないうちに、内部で何かがあったのかもしれない。……正直、本気で知りたくない。


 咳払いをした忠司さんが、少し身を乗り出してきた。


「今日、寄らせてもらったのは、沢渡商会についてです。実は、融資話が来ています」


「ん?  土地には手を出していないんだけどなあ」


「龍栖神社の敷地を購入されたでしょう? それを察知されたものと思われます」


「あれは、土地が目当てじゃなかったんだけどなあ……。どこの金融機関から? ノンバンクとかですか?」


「武蔵信金です」


 まさかのメインバンクからだった。


「融資はなしで、という条件での口座開設だったような」


「あちらが望めば、話は別なんでしょうな。その経緯があるためか、担当者はだいぶ心苦しそうでした。上から求められているのでしょうな」


「借りるのは構わないけど……、株も、もうだいぶ上がってるからなあ」


「時価で十二億ほどになっています」


 なんだか現実感がない数字となっている。


「で、いくら借りてくれって?」


「五億だそうです」


 神社の土地が値上がりして三億だとして、株の状況も把握しているためなのだろう。


「不動産での担保以上に借りてくれって? 信用金庫ってのは、事業向けの資金限定で、担保を取って貸し出していくものかと思っていたけどな」


「神社の土地もそうですが、保有株の時価の額を踏まえてなのでしょう。資金力がある者は、株と土地に先を争って金を突っ込んでいます。ノンバンクなど、ボロ儲けしている金融機関もありますのでな。このご時世では、規律ばかりを言い立ててはいられないのでしょう」


「ははあ。いいのか、それで。……まあ、うちにとっては、形を変えた信用取引みたいなもんだと考えればいいのか」


 信用取引とは、所有株式を担保にして、証券会社から借金をして自己資金以上の投資をすることである。借り手が信用金庫であっても、それを株につっこむのであれば、構造的には変わりはない。


「どうされますか?」


「今からでも金利分以上は取れるだろうし、受けましょう。法人設立時に世話になってるから、実績にしてもらえれば」


「恩を売っておくのがよろしいでしょうな」


 小規模信金にとっての、バブル期の融資五億円がどれほどのものかはわからないが、依頼を受けておくのは、今後に向けて役立ってくれるだろう。


「ところで、子どもへの食事提供は継続されているのですかな?」


「うん。こもれび食堂と名付けた食事会を定期的に、一方で日常的に立ち寄った子らに居場所と食事の提供をしている」


「なるほど……。託児所のようなものですか」


「未認可、私設のね」


「運営はうまくいってるんですかい?」


「年長の女の子二人が模範を示して、しかも協力的でね。助かってるよ」


「万事問題なし、と?」


 窺うような視線を向けられると、降参するしかない。


「さすがに、トラブルが皆無とは言わないよ。放置子……というのかな。親に一切構われていない子が入り浸るというのは、何度かあった」


「どう対応するんです?」


「引き取っちゃいたいのはやまやまなんだけど、そうもいかないからね。泊めないようにしつつ、ずっと来ている場合には行政に相談してる」


「警察ではなく?」


「地域課、少年課も何度か顔を出してるけど、市役所の方が中心になってる」


「目をつけられている感じですかい?」


「いや、むしろ、破綻している家庭のあぶり出しをしてる、みたいな感覚だと思う。……児童相談所が出てくるときもあるけど、市役所の地域福祉課が見てるみたいで」


 明確な児童虐待はともかく、ネグレクトなどの概念はまだ普及していない状態にある。いずれにしても、一次窓口は市役所となるのが普通だった。


「まあ、役所とつるんでおくのはいいかもしれませんな」


 思考が任侠団体としてのそれとなっているが、言ってることは間違っていない。


「様子を見ていくかい?」


「いいえ。あっしみたいなのが混ざっては、怖がる子もいるでしょうから」


 そう言った忠司さんは、融資についての段取りを再確認して辞去していった。


 玄関の戸が閉じられるのを見届け、廊下を居間に移動していくと、子どもの笑声が漏れ聞こえてきた。任侠との打ち合わせと、後年で言うところの「こども食堂」的な取り組みとが同じ建物で行われている現状は、微笑ましくもある。


 居間に入ると、笑いあっていたのは紗良ちゃんと美羽ちゃんだった。この二人が朗らかな空気感を作っていてくれているから、他の子が安心して入ってこられているのだろう。


 エルリアは、桜庭さんからぬいぐるみの作り方を習っているようだ。彼女も、放課後のほとんどをここで過ごしていて、落ち着いた印象の醸成に貢献してくれている。食事を済ませていくことも多いのだが、食費を払うの払わないので押し問答が生じたこともあった。ただ、子ども扱いで無償なのは譲れないところである。


 そして、女子だけだと、年長組の男子が入ってきた場合にややこしい事態が生じかねない。久世や俺、それに夏目康隆もここで勉強や読書をして過ごす時間を作ってくれている。ただ、今のところ危険な場面は生じていなかった。


 男子でも、常連の子がひとりいた。ばあちゃんともエルリアとはほとんど話さず、ずっと机で自習をしている。最初は宿題を済ませるとぼうっとしていたのだが、置いてある新書を読むようになり、ちょっと上の学年向けの参考書にも手を伸ばすようになっていた。小金井の図書館はお世辞にも充実しているとは言えない状態なので、その代替的な状態なのかもしれない。また、晩ごはんも毎日のように食べているからには、程度は低いにしても放置され気味なのかもしれない。


 同級生の男子二人は、台所方面も手伝ってくれている。久世が意外に料理上手で、揚げ物までこなすのである。一方の夏目は下ごしらえ専門で、野菜などを丹念に仕込んでくれる場面も多くなっていた。


 食材については、近くの菜園からの差し入れもあり、また肉屋さんから挽き肉を廉価で分けてもらってもいて、栄養的なバランスは取れていそうだ。いざとなれば、沢渡商会から資金を回してもよいのだが、そこまでの話とはなっていなかった。


 

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