【1988年6月】
梅雨の湿気が教室の隅に澱んでいるような、重たさのある昼下がり。
昇降口の裏手にある植え込み付近で小さな騒ぎがあったと聞いたのは、昼休みが終わろうとしている頃合いだった。
そういった揉めごとは、いつの間にか同じクラスの市川透のところに情報が集まるようになっていた。今回も、別のクラスの女子が名指しで伝えに来た状態である。
「市川……、なんだか自治会の長みたいだな」
「勘弁してくれ。無役の一般生徒だってのに。……沢渡、一緒に行ってくれるか?」
「かまわんが……、金田の方が適役なんじゃないか?」
「明確な荒事かどうかわからないからな」
確かに、金田を小さな揉め事に投入すると、オーバーキルというか、事態を悪化させかねない面はありそうだ。
階段を駆け下りると、植え込みの陰で、二人の女子が上級生らしき数人に囲まれていた。半歩前に出て、毅然とした表情を浮かべているのはエルリアだった。さすがは悪役令嬢と言うべきか、いい姿勢で冷ややかな目線を相手にぶつけている。
守られているのは、どうやら一年生らしい。この辺りの嗅覚は、やはり実年齢に依存するのだろう。前世の後半には、仕事で遭遇する初見の相手を年長か年下か概ね判別できるようになっていたし。
一方で、囲んでいる面々は服装や態度の大きさから三年生だと見て取れた。
泣き出しそうになりながら、ぬいぐるみらしきものを握りしめている少女にちらりと目線を向けて、エルリアが声を響かせる。
「あなたたち、恥ずかしくはありませんの?」
怒鳴るわけでもないが、静かに、けれど確実に相手を射抜くような響きがあった。
エルリアの気迫に押されたのか、あるいは市川が駆けつけたのが効いたのか、三年女子の集団は怒気を撒き散らしながら去っていった。
「エルリアさんだよね、無事かい?」
市川の言葉に、金髪の少女が頷く。
「わたくしはだいじょうぶですが、この方は小突かれたり威圧されたりで、参っておられるようです。念のために保健室へ連れて行こうと思いますの。……悠真、そこまでご一緒願えます?」
「ああ。行きがかり上、この市川も一緒でいいか?」
「ええ、もちろん」
保健室まで向かう間、エルリアは年下らしき少女をかばう動きは見せながらも、殊更に声を掛けることはしなかった。市川と俺もそれに倣って、少し距離を取ってついていった。
夕方に帰宅すると、昼下がりの校内でエルリアに守られた少女の姿があった。
正座してちゃぶ台の前に座っている。そこに、試食としてなのか、エルリアが味噌汁を置いた。
隣りに座っていたのは、遊びに来ていた美羽ちゃんである。
「その挽き肉豚汁、おいしいのよ」
「うん、ありがとう。……おいしい」
「でしょー」
えへへと笑う制服姿の女の子は、すっかりこの空間に馴染んでいる。こもれび食堂をこもれび食堂たらしめてくれているのは、この松本美羽ちゃんと、仲良しのもう一人、杉森紗良ちゃんの中一コンビの存在が大きい。
「あなたは、よくここに来ているの?」
「うん。お母さんが仕事で忙しいから、ここで過ごさせてもらう時間が多いかな。トミおばあちゃんも、悠真くんもエルちゃんもよくしてくれるし」
そこで、その人物は俺の存在に気づいたようだ。少し狼狽えたようだが、美羽ちゃんが手を振る様子に、少し安心したようだ。
戻ってきたエルリアが来訪者の隣に座り、様子を窺う。
「いかがですか? 無理に食べなくてもよろしいですのよ」
「おいしいです」
そう口にすると、俯いて、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「……あたしが、小さい頃に……、こんな場所が、あったら……」
嗚咽とともに、言葉が零れていった。美羽ちゃんが、彼女の肩にそっと手を置いた。
親に構ってもらえなかったのか、学校で孤立していたのか。詳しい事情こそわからないが、その心情は同席する皆に伝わったようだった。正対したエルリアが、彼女の手を握りしめる。
「この近くにお住まいなら、中学は翠中だったのでは?」
「いえ、東武蔵野中学校に通っていました」
東武蔵野中学校とは、近くにある私立の中学校である。この地域には、公立の小学校、中学校、高校に加えて、私立の東武蔵野中学があり、さらに少し先には法仏大学のキャンパスも存在している。
桜庭梨乃と名乗ったその少女は、ようやく落ち着いたようでトラブルの経緯を話してくれた。
上級生に絡まれていたのは、あの場で握りしめていた手製のぬいぐるみを見咎められて、バカにされていたらしい。ひどい話である。
その日以来、彼女は沢渡家に顔を出すようになっていった。




