【1987年10月中旬】
陽射しがすっかり秋の気配を帯びた頃。神社には静かな空気が流れていた。老神職が亡くなったとの連絡が沢渡家に届いてから、数日が経過している。
この日は、亡き神職の娘さんが、社務所の縁側でお茶を入れてくれた。四十代半ばくらいの落ち着いた雰囲気のこの女性、久保田貴子さんは、少し日焼けした肌と、派手すぎない服装がよく似合っていた。
「父はほんとうに、いい顔で逝きました。お医者様も驚くほどに」
ゆっくりと語られる言葉に、後悔の色はなかった。よい送り方ができたのだろう。我が身と引き比べて、少し胸が痛んだ。
「病気がわかってから、ずっと覚悟はしていたようで。でも、エルリアさんの舞を見せてもらって……。とてもうれしそうで」
彼女は、柔らかく笑った。けれど、次の言葉には、戸惑いが滲んでいた。
「ただ……、困ったこともありまして。実は、この龍栖神社は、閉じる方向で話が進んでいたんです。父も納得していました。私は、よその家に嫁いでしまっていますから、継ぐ訳にもいきませんし」
言葉を切り、彼女は視線を境内の先、神楽台の方に向けた。
「でも、あの舞を見てしまったら、ね。こんな形で終わらせていいのかって、どうしても思ってしまって」
俺は頷いた。あの舞には、それだけの迫力があった。
「……で、悠真くんに相談なのです。あの、失礼になったらごめんなさい」
久保田さんが、慎重に言葉を選びながら続ける。
「茜音さんから、あなたが会社を運営していると聞きました。この神社をお譲りすることはできませんか?」
「既に売却話は進んでいたのですか?」
「ええ。宅地としての売却を前提に。……個人所有でしたので、売らないと相続税が工面できなさそうでして」
「売却が整うまでの資金が必要でしたら、融通させていただきますよ」
「あ、いえいえ、そうではなくって。相続税相当の額でかまいませんので、あなたの会社で買ってもらえないでしょうか?」
「それは……、どうしてです? 宅地にするなら、億単位の資産だと思われますが」
バブルが本格化する前にしても、中央線の駅から徒歩十分圏内である。
「幸い、夫は堅実な仕事をしていますし、子どもにも恵まれませんでしたし……。売却して得たお金は寄付しようと思っていたのです。うちの人は教育一筋で、あまりお金に関心がないのです。ただ、夫にあの巫女舞の話をしたら、どうにか残せないかとの話になりまして」
「なるほど……」
「もしかしたら、父の生前に宗教法人化していたらよかったのかもしれませんが、今となっては」
宗教法人であれば、確かに相続税も発生しなかったのだろう。
「不躾な質問ですが、評価額と相続税の額はお幾らくらいになりますか?」
「評価額が2億5千万円ほど、税額は1億3千万くらいになると聞いています。1億円でいかがでしょうか」
これは、あまりにも低すぎる提示である。こちらの負担にならないようにと考えてくれているのだろうけれど。
「それでは、筋が通りませんね。そして、現在、土地の価格が上がり始めています。数年でもっと額は上がると思われますが」
「お金の話ではないのです」
久保田さんが、窓外の境内の風景に柔らかな視線を投げる。ここで育ったのならば、愛着があるのだろう。
「条件次第で、お受けします。神社は存続させます」
「ありがとうございます。……どんな条件でしょう?」
少し心配そうである。
「税額相当分は、すぐにお渡しします。来年の確定申告時に納税が必要になるはずですので。残額分は、少し猶予をいただいて、1991年の春頃とさせていただきたいのです」
「でも、税額分だけで……」
「この龍栖神社を守ってきた一族なのですから、受け取っていただかないと。……そうですね、寄付されるとしても、少なくとも10年は経過してからとの約束をしていただければ」
「ですけど、神社の運営はお金になりません。あなたに負担をかけたいわけではないのです」
「問題ありません。土地はこれから数年は値上がりしますから、評価額はおそらく跳ね上がります。まあ、売る気はありませんけどね。……逆に、1991年には値上がりしてますから、その分も受け取っていただきたいのですけど」
「さすがにそれは勘弁してください。固定で……、いえ、値下がりしていたときだけ、その値段でお願いします」
「承知しました」
思わぬ形で、大きな買い物をすることになってしまったが、金額的にはシナリオに狂いが生じるほどではない。
ただ、神主さんはどうしよう? そして、忠司さんにはなんと言おうか。




