【1987年9月上旬】
夏休みが明けた途端、妙な空気が学校中に漂っていた。噂がさざ波のように広がっており、周囲からの視線や廊下でのひそひそ声が、それを物語っていた。
どうやら、かつて俺の家で起きたあの事件……、父の襲来、そして母の死が、生徒たちの耳に届いたらしい。
翠中の出身者は久世の他にも幾人かいたわけで、むしろ夏まで話題にならなかったことを驚くべきかもしれない。夏休みの様々な交流によって、表に出た流れなのだとも想像できる。
もっとも、俺はこの件はもう、どうでもいいと思っていた。
過去のことをどう言われたところで、今の俺が揺らぐわけではない。エルリアと、ばあちゃんと、この地で積み重ねてきた時間は、確かなものである。
ただ、矛先が向かったのは、エルリアだった。
ある日の放課後、彼女が女子数人に呼び出され、囲まれたそうだ。その場を収めたのは、クラスメートの金田龍二だという。
その話を知らせてくれたのは、市川だった。妙に迂遠さのある伝え方だったが、彼なりの配慮だったのだろう。
「エルリアさんに、気をつけるように頼んでおいてくれ。……彼女のこと、誤解している連中がいるみたいだから」
市川の言葉には少しきつさがあった。
放課後、エルリアから経緯を聞き取った上で、一緒に金田の席へと向かった。
「……なんだよ、わざわざ」
「この度は、救援をありがとうございました。あなたが介入してくれなければ、暴力沙汰になっていたと思われます。助かりました」
エルリアの丁寧な口調に、金田は面食らった様子だった。
「しかも、てっきり暴力的に制止するのかと思ったら、紳士的な態度でしたし」
続いた言葉に、さすがに苦笑が漏れる。
「がさつな俺でも、さすがにいきなり手は上げないって。まあ、あんたのことをからかっていた俺が言うのも、説得力ないかもだけど、……事件の被害者を疎ましく思うってのは、いくらなんでも間違っているよな。しかも、外国人や家族の職業への偏見への根拠のない中傷もあったようだし」
「……はい」
そう応じるエルリアは、少し遠くを見ているようだった。俺の母さんのことを思い浮かべているのか、あるいは元の世界についてか。
「なにかあったら、言ってくれ。……力になれるかは、わかんねえけどさ」
「ありがとうございます」
「……お前も、いいやつだよな」
俺がそう言うと、金田は顔を赤くして、そっぽを向いた。
「うっせーよ、そういうの、柄じゃねーんだよ」
エルリアは、ふふっと微笑んだ。その笑顔は、いつになく柔らかな印象だった。




