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【1986年9月上旬】


 同級生である夏目の兄、健吾との話に出た通り、会社の設立の話がまとまろうとしていた。


 祖母が淹れてくれたほうじ茶からは、湯気がゆっくりと立ち上っている。


 名義上の代表は、ばあちゃんである沢渡トミ女史が立つことになる。俺は取締役として名を連ねることになった。


 会社の設立手続きについて、ばあちゃんに相談したところ、やってきたのはなぜか女子高生だった。西園寺利音と名乗ったその人物に年齢を問うと、まだ十五だという。まあ、今生の俺の年齢からすると一個上なんだけれど。


 セーラー服姿のその娘さんは、ばあちゃんの知り合いである弁護士の孫娘で、既に司法試験を目指して勉強中だそうだ。模試でも常に全国トップの成績となると、なかなかの才媛なのだろう。能力的には足りるのだろうが、どうしてこんな小さな会社の設立に関わるのかと訊ねると、現場を知りたいんです、ときっぱり応じられた。


 実際には、創始会の鳴海さんが関わってくることになる。まあ、弁護士が反社会的勢力と相対するのは、自然な流れなのだろう。


 今回は、祖母が住むこの家を創始会が三億円二千万で買い取り、その資金をそのまま会社の資本金とする計画だった。この家に三億余円はやりすぎなんじゃないかとの話はしたのだが、文化的価値を言い立てられてしまった。古いのは確かだが、そこまでの希少性はない……よな?


 その上で、好きに住んでくれというので、引っ越しをする必要もない。まあ、どこかのタイミングで買い戻しておいた方がよいのかもしれないが。


「利音ちゃん。ここに押印すればいいの?」


「はい、お願いします。……悠真さんも、こちらに」


 顧客扱いだからか、ていねいな扱いである。


「手数をかけて、申し訳ないです」


「いいえ。……事業内容に、株式投資と競馬とありますが、競馬というのは競走馬の所有ですか?」


「馬券の購入になります。問題ありますか?」


「問題は、特にありません」


 どこか不審そうなのは、無理もないだろう。事業内容のはっきりしない会社に三億余円を突っ込み、その金は反社会的勢力が出す形となる。もちろん、ばあちゃんの所有する不動産を売買する経由は、会社の設立には関係しないので、登記事項には出てこないけれど。


 創始会から出る資金は、俺の依頼で購入した馬券の払い戻しから出ているわけだが、創始会の誰かが購入しており、未成年者の俺が名義を借りた、と評してもよい状態である。この資金を、土地建物の売買を経由させて綺麗な金にする流れは、法的には黒寄りのグレーといったところか。


「今回の資金の流れはともかく、あくどい事をするつもりは無いので、その点はご安心を。あるいは、事業内容を随時お伝えするようにしましょうか?」


「できれば。祖母が少し心配していますので」


「わかりました。……まあ、しばらくは株式投資だけとなる見込みです」


 頷いた利音嬢は、書類の仕上げに意識を向けたようだった。商号は、有限会社沢渡商会となる予定である。


「……ばあちゃん、なんだか申し訳ない。思い出の残る家を手放す形になってしまって」


 俺の言葉に、沢渡家の女主人はにっこりと微笑んだ。


「いいのよ。私が残せるものは、もうそんなに多くないもの。だから、悠真の思う通りに利用してくれていいの。利用というのは、ちょっと語弊があるかもしれないけど」


「いや、利用なのは間違いないよ」


「でも、目的はあるんでしょう? わかるのよ。あの頃、戦地に向かった人たちの目を、私はよく見ていたもの。あなたも同じ顔をしているわ」


 その視線は、ふとエルリアへと向けられた。なにかを託すような、柔らかな眼差しだった。


 戦場に出るのとは違う気もするが、覚悟の重みからすれば近い話なのかもしれない。


 俺にとってこの人生は、アディショナルタイムというよりも、再試合に近いのかもしれない。


 前世でまったく爪痕を残せなかった身が、もう一度フィールドに立つわけだが……。まずは、戦うための武器を手に入れようというのが、今の段階だった。


 時はバブル前夜。間もなく世の中は浮き立ち、土地と株が価値を押し上げていくことになる。


 俺が狙うのは土地ではなく、株……、それも新規上場されるNTT株だった。


 上場直後の株を買い集めて、高騰したタイミングで売り抜ける。次への準備は、着々と進められていた。


「では、後は口座開設ですね。……実は、複数の金融機関に、打診段階で断られています」


「背後にいる存在を嗅ぎつけられましたか」


 思わず不信感を放出してしまったのか、あわあわと両手を振られてしまう。


「違うんです、祖母やわたしが漏らしたわけでは……」


「まあ、この土地屋敷を三億以上で売却する、という時点でそもそも怪しいでしょうからね。まして、あの事件の後ですから」


「実は、はい。……それで、ご相談なのですが、融資なしという条件でなら、受けてくれるところがありそうなんです。いかがでしょうか」


「あ、それでいいですよ。預金と資金の移動だけで。基本は、証券会社とのやり取りくらいですから」


「よかってですぅ。実は、近くで待機してもらってるんですけど、お呼びしてもよいですか?」


「もちろん」


「ただ……、うちの祖母が言うには、どうも組織内の主流……、本線から外れた立場の人らしいんです」


「本線……って、どこの銀行?」


「武蔵信金です」


「ものを知らなくて申し訳ないんだけど……、信用金庫の主流や本線って、どういうものなのかな?」


 小首を傾げると、年相応の感じが覗いた。


「それは、きっと、本店勤務かどうかとか、支店の序列や役職とかあるんじゃないですかね」


 俺は二度目の人生ではあるが、そういった事情には疎い。また、相手もまた、弁護士志望ではあるにしても女子高生で、社会人経験は無いはずだ。


「どうも、融資に対する考え方が、現体制と合わないようでして」


「厳しめに見る流派に属しているってことかな」


「そうみたいなんです」


「なら、今後しばらくはきついだろうなあ」


 これから、世はバブルに突入する。その兆候に満ちたご時世に、審査を厳格にしようなんて考え方は、主流派とはなりえないだろう。


 やってきたのは、銀縁眼鏡のくたびれた感じの男性だった。ただ、疲れた様子ではあるものの、実際にはまだ三十代かもしれない。


 この時代には、まだ顧客向けのネットバンキングなんてものは普及していないし、億単位の資金移動は手軽にできるものでもない。しばらくは、対面での手続きとなるのだろう。


 方向性を説明すると、眼鏡に右手を添えた信金マンは、少し安堵したようでもあった。


「それでは、当面の取引方針は証券口座との資金の往来となりますか」


「ええ。まずは全額を移動することになるかと。運用益が出るようなら、納税用の資金を戻すことになります」


「そうなることを期待しております」


 あまり期待はされていなさそうである。まあ、三億円を預けるとしても、すぐに証券口座に向かうのなら、あまりメリットもないのだろう。


 かくして銀縁メガネの角度を調整したその人物は、淡々と事務処理を始めたのだった。




 夕暮れ時。障子越しに西日が部屋を染める頃、俺は畳の上に寝転がりながら、録音済みのカセットテープを並べていた。この時代、記憶媒体としてはカセットテープがまだ有力である。ビデオは普及し始めた、くらいの段階となる。


 テープに貼り付けたラベルには、日付と内容を書き込んでいる。最新のものには「9月5日・中島みゆきのオールナイトヤマト」とあった。カセット一巻ごとに、過去の時間が詰まっているようで、思わず口元が緩んでしまう。この時代にはさほどの希少価値はなくとも、四十年経てば話は変わってくる。そう考えれば、様々なものを残していくべきなのかもしれない。


 特にテレビの録画は、文化的価値の面でも、検証の面でも重要性が高いと思うのだが……。この時点からは未来になるどこかの時点で、国立国会図書館による全テレビ放送アーカイブが計画された際には、事後検閲だとかで反対論が巻き起こったとか。正直、意味がよくわからない。


 カセットテープを透かして未来に思いを馳せていると、通りかかったエルリアがジトっとした視線を向けてきた。


「……なんですの、ニタニタと。気持ち悪いですわね」


「あのなあ……。せめて、もう少しオブラートに包んでくれ」


「オブラート……? で、その四角の道具は、それは音楽を収めるものでしたよね」


 そう言いながら、彼女は腰を落として凝視している。


「音楽に限らず、音を保存するためのものになる。ラジオのトークを、くり返し聞きたくてね。聞き返したいものは、君には無いのかい?」


「特に考えたことはありませんでしたが……。トミさんからは、一期一会という言葉を教わりました。ラジオは、そうではないのですか?」


「その瞬間が勝負なのは確かだけれど、深く理解するためには、くり返すのは有効だろう?」


「それはまあ、理解できますが……」


「ところで、なにか用だったのかい?」


「そうでした。シャリーにご飯を振る舞おうとしていたのでした」


 一挙動で立ち上がると、彼女はとすとすと歩いていった。



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