【1986年6月上旬】
学校でのエルリアは、さほど目立たずに状況把握に徹しているようで、当初の騒がしさは過ぎ去っていた。
生活面は級長が世話を焼いてくれる状態で、学業面は引き続き俺がフォローしている。分野によって久世に協力を求める場合もあった。
二年次からの持ち上がりということもあって、俺自身はクラスの中で目立たぬ状態となっている。一方で、多少は言葉を交わす相手もできていた。久世との絡みに加えて、エルリアとの関連性も補強材料になっているのかもしれない。
その日、昼休みの教室で、俺は弁当をつついていた。梅雨の晴れ間で少しねっとりした風が吹いていて、窓際のカーテンがゆるやかに揺れている。すると向かいの席に座った夏目康隆が、問い掛けを投げてきた。
「なあ、沢渡。……お前って、金の話とか、好きか?」
いきなりだが、言葉に特に嫌悪感がこもっているわけでもない。
「ん? まあ……、好きっていうより、必要だと思ってるかな」
「そっか」
曖昧な相槌を打ちながら、夏目は飲み終えた牛乳パックを指で押し潰している。この先、なにをどこまでするとしても、資金は必要である。三億円は、生きていくだけなら充分すぎる額だが。
少しためらった後で、言葉が続けられた。
「実は、うちの兄貴、ちょっと変わっててさ。浪人中なんだけど、ずっと投資っていうのかな、金の話に夢中なんだ。毎月、よくわからない経済誌とか買ってるみたいで」
「ほほう。それで?」
「いや、お前と兄貴、気が合うかもなって思ってさ。俺にはさっぱりだけど、沢渡もなんか不思議な感覚を持ってそうだろう?」
「いや、自覚はないけどな。まあ、そういう方面なら、ある程度なら話はできるかもしれない。……その兄さんが家族で浮いてるってことか?」
「ああ、親父と冷戦状態なんだよ。帝大に行くの行かないのって揉めていてな。俺は勉強はからっきしだから、兄貴の方が期待されてるはずなんだけど」
帝大というのは、日本の最高学府と呼ばれる場合も多い、東京にある国立大学である。
この夏目はわりと穏やかめな人物だけに、家庭のそんな状況は居心地が悪いのかもしれない。まあ、異物として投げ込まれるのは、別にかまわない。後日、訪問しようということで話はまとまった。
やや神経質そうな眼鏡の人物が、座布団を勧めてくれた。畳の匂いと、わずかな緊張感が漂う。部屋の空気は、勉強部屋というより小さな作戦室のようだった。
同級生の方の夏目は、部屋に案内までして退散している。視線の交わし方などからして、さほど兄弟仲が悪いようにも見えないのだが。
「夏目健吾だ。弟から話は聞いた。投資に興味があるんだって?」
「はい。……ただ、未成年では、難しいのでしょうけれど」
「敬語はいらんぞ。……未成年でも、保護者のOKがあれば、ある程度まではできるんだろうな。面倒な話だが。そうなると、将来の話か?」
「いや、法人を設立して、資金を運用できないかと」
健吾は目を細め、興味深そうに俺を見つめてきた。
「……法人化、ね。悪くない発想だ。ただ、今の制度だと株式会社を作るには一千万の資本金が必要になる。有限会社なら、三百万からだったかな」
「三百万は、ちょうど投資資金の頭出しとして確保してある」
そう言って、俺はカバンから封筒を出し、机の上に置いた。その勢いで、札束の端がわずかに覗いた。部屋の主は目を伏せることなく、それを見つめた。
「設立するとしたら、いつになる?」
「秋くらいには。……こちらも聞いていいかな?」
「なんなりと」
「投資でなにをしようとしているのか、を」
「力を得ようとしている。できれば、世の中を動かせるだけの」
「世の中を、どちらへ動かすと?」
この時代は、バブルの前夜で、戦後復興からの所得倍増を経て、オイルショックで一息ついたような状態にある。世界に目を向ければ、冷戦は続いており、全面核戦争や偶発核戦争への危惧から、世界滅亡の五分前、的な表現がされてもいた。
「もう少し、マシな方にさ」
現状を追認して、その範囲で甘い汁を吸いたいわけでも、過激な国家転覆主義者でもなさそうである。小金井に一戸建てを構えている家庭の雰囲気は、長男が多少孤立気味であっても、悪いものではなさそうだ。手札が皆無に等しいからには、俺はあっさりとベットすることに決めた。
「法人口座の運用をお願いできないかな。激しく運用するつもりはなく、基本的には指示通りにしてもらう形で。運用益の一部を報酬にするから、それを元手に、こちらの口座内で自分向けの投資をしてもOKという形で」
「へえ……、税金もそちら持ちでかい?」
「そのあたりはお任せで。法人から委託を受けて動く分には、未成年でも問題ないよね? 運用資金は、その封筒より二桁多い金額を想定してる。……どうだろう?」
「……君は、本当に中学生なのか?」
「ノーコメントで。金の出どころはともかく、法人には綺麗な形で入れるので」
健吾はふっと笑った。
「いいだろう。法人登記の手続きはそちらでやるか?」
「そのつもり。証券口座を開設した後の、運用窓口をお願いしたい。実際のスタートは、来年の早春くらいの想定で。……具体的には、新規上場株で」
にやりと笑うからには、意図は通じたようだ。こうして、浪人生との協調関係が築かれたのだった。




