【1986年5月】
【1986年5月上旬】
この年の春天……、春の天皇賞が、まずは大勝負となる。記憶に残っている万馬券は、養護施設の事務室で観戦に付き合わされていたこの時期の大レースに限定される。前世の記憶通りにクシロキングとメグロトーマスで決まってくれれば、億単位の資金が転がり込んでくるはずだ。
今回は、創始会サイドにて三百万円の一点勝負が、しっかりと馬券として購入されたことは確認済みだった。多少は相乗りしているようだが、オッズを破綻させるほどの額でなければ問題はない、
観戦は、テレビで行うことになった。鳴海さんも、お茶菓子持参で合流している。
おそらく、鳴海さんと俺は緊張感を隠せてはいなかっただろう。そんな二人を、ばあちゃんとエルリアはどこかほのぼのとした風情で見ているようだ。出走馬のファンで、応援しているとでも思っているのかも。少なくとも、大勝負をしているとは悟られていなさそうだ。
そして、中継が始まった。すぐに目当てのレースが始まるわけではないのは、もう二人とも理解しているようだ。
緊張感の中で時間が過ぎ、ファンファーレが鳴り響いた。春の天皇賞は、クラシック路線の菊花賞と共に、スピード化していく近代競馬の中に取り残された、マラソン的なレースである。初めて長距離に挑む馬も多く、紛れが起こりやすい面はあった。
二度目の第四コーナーを回り、白熱の勝負が待つ直線に入る。最後の数十メートルで、クシロキングがすっと抜け出す。四分の三馬身差で、メグロトーマスが続いた。
払い戻しは、一万四千円あまり。三百万円が、四億二千万円ほどになった。
「……取っちまったな」
鳴海さんの口調は静かだったが、それだけに重く受け止めているのが感じられた。
武者震いと呼ぶべき震えが来た。腕をつねって抑え込む。
ただ、この儲けは、おおっぴらには俺の表の金にはできない。学生・未成年の馬券購入は禁止されている。それでも没収はされないかもしれないが、税務申告も必要となる。どう対応するかは、これまで未調整だった。
「坊っちゃん……、すごい額になっちまったが、どうします?」
鳴海さんは、穏やかな声音で問い掛けを投げてきた。坊っちゃん呼びに戻っているが、気にしている場合でもない。俺は、正面からその視線を受け止める。
「未成年だから、俺が買ったことにはできないね。……創始会で預かってもらえる?」
「四億まるごとですかい?」
「元手だけ、戻してもらっていいかな。残りは必要に応じて、引き出すか投資代行してもらうかの相談をさせてもらって、資金管理のフィーは進呈する、って感じでどうだろう」
任侠組織に属する人物が、腕を組んで数秒黙りこむ。やがて、苦笑を浮かべて頷いた。
「坊っちゃんは、やっぱり大したもんですな。オヤジが目をつけるのは、無理もない。……わかりました。こっちで責任持って保管します。ヤスにも伝えておきやしょう」
「頼みます」
「……しかし、場末の任侠組織にこれだけの額の運用を任すとは豪気ですな」
「本気で頼りにさせてもらうよ」
鳴海さんは少し真面目な表情に戻り、言った。
「坊っちゃん。これからも、競馬で勝負を続けるおつもりで?」
「競馬は、そろそろ打ち止めかな。今後は、別の手法を取りたいと思ってる。いいかな?」
「毒を喰らわば皿までです。とことん付き合わせてもらいましょう」
そう言ってくれると、安心である。実際は現状でも、種銭の確保段階に過ぎないのだが、それを告げる必要もないだろう。まあ、さらに進めば、体制整備も含めた別の展開もあるかもしれないが。
【1986年5月中旬】
今日の振る舞いご飯は、豚の挽肉を使った豚汁と、おにぎりである。俺が前世で作ったときには、三種のリケンの顆粒だしを複合させるお手軽レシピだったが、今回はばあちゃんが取ってくれた昆布と煮干しに、煮込んだ野菜と豚肉のだしを重ねた贅沢な仕上がりとなった。
近所の子ども達が遊びに来て、おやつやご飯を食べていくのは日常の風景になりつつある。日曜日のこの日は、六人が連れ立っての遊びがてらの訪問となっていた。
「おいしーい!」
「このおつゆは、なんて料理ですか?」
勢いが良い美羽嬢と、おしとやかな風情の紗良嬢が、頻度からも親密度からも2トップ的な状態にある。
「挽き肉豚汁、かなあ。普通は小間切れとかを使うんだけど」
「いいお味です」
「うん、おいしい。すごくおいしい」
他の子達も、食欲旺盛である。
給仕役として参加しているエルリアは、微笑ましくそんな様子を眺めている。元の世界では貴族として、市井の子ども達との触れあいなどそうはなかっただろうに、すっかり馴染んでいるようである。いや、修道院の炊き出しに絡んでいたのだったか。
「たくさん食べてくれてうれしいわ」
支度をほぼ終えたばあちゃんも、目を細めている。
「定着してくれているのはなによりだね。……ただ、最初に来ていた男の子、最近はあまり見ないね。和人くんだったか」
応じる声には、やや暗い調子が混じっていた。
「実は、あの子は親許を離れることになったみたいなの」
「そうなんだ」
胸の奥が、ぎゅっと詰まった。前世のあのとき、同じように「知らない場所」に連れて行かれた日の光景が、匂いまで蘇る。
「お母さんがどこか行っちゃったみたいでね。放浪しているところを保護されたそうよ。うちに逃げ込んで来てくれてよかったのだけれど」
ずっと面倒を見るわけにはいかなかったにしても、落ち着き先が決まるまで、穏やかな時間を過ごしてもらうことくらいはできたろう。
「警察絡みですか?」
「とりあえずは、お役所の方が動いたみたい」
かつて、かなりの勢いでロールキャベツを食べていたのは、よほど空腹だったんだろう。
親許を離れるからには、児童養護施設に入るという流れになるのかもしれない。施設によって当たり外れはあるわけだが、穏やかに暮らしてほしいものである。
あの日の俺には、自分の運命は変えられなかった。けれど今の俺なら、もしかしたら今後の誰かの運命を少しはましなものにできるかもしれない。その方策を、模索していくとしよう。




