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【1986年4月中旬/下旬】




【1986年4月中旬】


 春の木漏れ日が、縁側に優しく射し込んできていた。


 台所ではエルリアが真剣な表情で玉子焼き用のフライパンを握り、だし巻き玉子に挑戦中である。彼女は、どうやら和風ロールキャベツにはまって以来、「巻く料理」に傾倒しているらしかった。親近感でもあるのだろうか。


「……もう少し、巻きが緩やかでいいと思うわよ。焦げ目をつけすぎないようにね」


 ばあちゃんの言葉に頷きながら、エルリアは手元の作業に集中していた。菜箸を使って次の層を丁寧に巻いていく。


 当初は食べる専門だった彼女が、今ではときどき教わりながらだしを取ったり、食材の下ごしらえをしたりするようになっている。


 そして今日は、海苔巻きも準備している。遊びに来る子どもたちに振る舞うためだった。


「これは……、なんて心躍るのでしょう! 自分の好みで具を選べるなんて」


 ばあちゃんの言う海苔巻きは、太巻き的なものとなっており、卵焼きやマグロのすきみ、キュウリなどを巻いていくことになる。具材にバリエーションがあれば、食べる側としても楽しいだろう。極端な場合は除くとして。


 と、玄関から呼び鈴の音が聞こえてきた。


「こんにちは……。悠真くん、ちょっといい?」


 現れたのは、桐島蒼衣さんだった。父親が襲来したあの日以来、時おりふらりと顔を見せてくれる存在になっていた。


「いらっしゃい。ちょうど、お昼だったんだ。もうすぐ、巻き寿司ができるから一緒にどう?」


「いいの? じゃあ、お言葉に甘えて」


 気負いのない笑みを浮かべながら上がり込んだ蒼衣は、座敷に座るとそっとエルリアに視線を向けた。


「事件の直後は、だいぶ憔悴していたようだけど、元気そうね」


「おかげさまで。ばあちゃんは元気すぎるみたいで」


「運ばれたときには、重傷だったとの話のようなんだけど」


 これまでは、俺らの精神的なケアを優先してくれていたのか、この件が話題に出たのは初めてとなる。隠し事はあまりしたくないが、どこまで話すべきかは悩ましい。


「不思議な現象が起きたのは間違いないです。おそらくエルリアが関係していますが、本人にもよくわからないみたいで」


「そう……。神様みたいな力を持っているなら、あなたのお母さんも蘇生させているわよね」


 胸の奥に小さな痛みが走る。言われるまでもなく、それは何度も自分に突きつけてきた問いだった。


「はい、そう思います」


 深く追求してこなかったのは、俺が言葉を選んでいることを察したためだろうか。


 居間にも、台所で女性二人の笑声が聞こえてきた。


「楽しげなのはよいことね。なにを作っているの?」


「太巻きです。たくさん作って、近所の子どもに振る舞おうとしていて」


「あら、太巻きなら、桐島家にも秘伝の技があるのよ。手伝わせてもらっても?」


「歓迎のはずです」


 蒼衣さんが髪をゴムで結んでいる間に、俺は台所に声をかけに向かった。


 そして、桐島家伝統の、中の部分にも海苔が巡らされた太巻きが披露される流れとなった。三者三様の海苔巻きは、子ども達に大歓迎された。




【1986年4月下旬】


 手洗いから教室に戻ろうとすると、廊下に並ぶ人だかりが視界に入って、俺は軽くため息をついた。


 これはもう、騒ぎというよりも、ちょっとしたイベント扱いである。訪客は、下級生中心になってきているようだ。


 前触れなく転入してきた金髪碧眼の少女。気品を感じさせる所作に、淡く巻かれたドリル状の髪。


 興味本位に覗きに来たくなるのも無理はないが……、教室の空気は落ち着かないものになっている。


 エルリア自身は好奇の視線を浴びても意に介する様子なく、淡々と対応している。いや、ただ静かに受け流しているとした方が近いかもしれない。


 人の間を縫って教室に入ろうとしたところで、ふと気配を感じた。


「すごい迫力よね。あのドリルみたいな縦ロールがまた……」


 振り向けば、そこには、やや小柄なセーラー服の少女がいた。初対面……、なわけではない人物だった。


「君は……、ゲーセンの」


 俺がそう呟くと、彼女は一瞬はにかむような表情を見せた。


「まあ、常連同士って感じよね。上級生だとは知らなかったけど」


「見物かい?」


 そう言いながら俺が教室の中を手で示すと、rukaは小さく頷いた。


「そりゃあ、あれだけ目立つとねえ。……実際に見ると、すごいなって思った。纏っている空気が違うもん。普通の転入生には見えない」


「それ、本人には言ってくれるなよ。噂されているらしい、ドリル云々も含めて、な」


「ん、わかった、気をつける。でもさ、ちょっと気になる存在よね」


 そう言って彼女は、俺に向き直る。


「改めまして、私は雨宮瑠夏。瑠璃色の「瑠」に、季節の「夏」よ」


「……俺は沢渡悠真」


 これまで名乗り合いこそしなかったが、それぞれの好みや技量を把握しているというのは妙な関係性である。そして、ただ馴れ馴れしいわけではない距離感の測り方は、彼女のプレイスタイルとも通じるところがありそうだ。


「よろしくね。ゆーま先輩?」


「ゲーセン仲間に先輩後輩もないだろ。悠真でいいよ」


「ん。あたしも瑠夏で」


 それだけ言い残して、ふいっと立ち去っていた。その立ち居振る舞いには、どこか野良猫めいた風情が漂っていた。




【1986年4月29日】


 チェルノブイリ原発での事故の続報が、今日も新聞の紙面を賑わせている。


 1986年4月26日、ウクライナにある原子力発電所で、メルトダウンによる爆発が生じた。現時点ではソビエト連邦の一部で、これがやがて来るソ連崩壊の一因ともなったのかもしれない。


 もちろん、俺にこの事象を止める術はなかった。手段の面でもそうだし、女神から言い渡されている禁則事項……、すなわち、「人的要因であれ、天災的なものであれ、人への加害を防いではならない」とのルールに抵触してしまう。


 ウクライナでの被害の状況は、鉄のカーテンがまだ存在していた時期だけに、はっきりとは把握されていない。


 そう考えれば、テレビカメラの前で水素爆発が生じた2011年の「副島県」での原発事故の方がセンセーショナルだったかもしれない。


 1986年のこの段階では日本の原発は絶対に安全で、事故などはありえないとの断言が繰り返されていた。そちら方面もまた、女神のルールによって防止のために動くことはできないわけだ。


 前世の記憶は、細かなところははっきりしない部分も出てきている。だが、派手な殺人事件や事故などがあれば、記憶が鮮明に甦るのも確かで、防いではいけないんだ、という理性と、忘れていたことへの自省と、それでも防ぎたかったという感情が混ざり合うのも確かだった。


 今は動けない。それは、あの冬の夜と同じだ。守りたくても、何もできない。


 俺は、テレビの前で難しい顔をしていたのだろう。エルリアが、落ち着いた声で話しかけてきた。


「この原子力発電所の事故は、そこまで深刻なものですの?」


「そうなんだ。原子力発電は、安定した電力の供給源となるものの、事故が起きてしまえば、周辺を激しく汚染し、被爆した人たちに継続した悪影響を及ぼす」


「まるで、龍のようですね。どうして、そんなものを……」


「世界を巻き込む大きな戦争があって、そこで原子力を兵器として使う研究がなされた。そして、実際に日本に……、広島と長崎に使用され、町が焼け野原になり、多くの人が犠牲になった。龍が暴れるよりも、ひどい状態だったかもしれない。その研究開発の成果を、平和利用したかったということなのかな」


 もう少し生々しい話もありそうだが、まずはこんなところまででよいだろうか。


「日本にも、原子力発電所はありますのよね。安全性はどうなのでしょうか」


「残念だが、危険なところが多い。海沿いにある原発は、津波が来れば危険な状態に陥る」


「津波……、海から大きな波が来る現象でしたか。この辺りは、だいじょうぶなんですの?」


「ここは、海よりもだいぶ高い土地だから、まずだいじょうぶ。ここまで津波が届くようなら、東京は壊滅しているから」


「全然だいじょうぶじゃないじゃありませんかっ」


「それだけの波は、まず考えられないってことだってば。地形的にもね」


 いまいち信用できない状態のようだったので、俺は地図帳を持ち出した。この時代には、地図のウェブサービスはまだ存在していないので、色合いで高低を表した地図を見せるしかなさそうだった。


「確かに、意外と高いんですのね」


「そうそう、新宿からこっちはまずだいじょうぶ。逆に言えば、そこから先は結構低地だな」


「なら、この日本の都が津波による水没の危機にあるのでは?」


「いや、ゼロメートル地帯と呼ばれる、海面より低い土地はともかく、他はおそらくだいじょうぶだって。東京湾は入り組んでいるけど、結構な広さがあるから」


「そうなんですの?」


 エルリアは、まだちょっと疑わしげである。津波の記録もないはずだが……、江戸時代に開発される前は、小さな川が幾筋も流れる低地だったとも聞くので、あまり重要視されていなかったのかもしれない。とはいえ、その後に三陸や東海地方でも大きな津波があったと考えれば、おそらくだいじょうぶなのだろう。



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