【1986年4月上旬】
春の香りが、小金井の街をすっかり包んでいた。
始業式の朝には桜はすでに散っていたが、若葉の眩しさが新しい季節の訪れを告げている。
俺……、沢渡悠真は、事件の後、少しだけ休んでいた時期もあったが、無事に三年生に進級した。そして同じく、エルリア・リンドラントも、小金井翠中学の三年生として転入することになった。
彼女を学校生活に送り出すにあたっては、元気になったばあちゃんが張り切っていた。紺色のセーラー服に身を包んだエルリアを見た時には、「可愛らしい」と何度も呟いては目を細めていた。
異世界人であるらしい彼女は戸惑いを見せていたものの、どこか誇らしげでもあった。鏡の前で、セーラー襟の角度を整える仕草には、わずかに緊張も混ざっているようでもある。
「美しい服ですのね。ちょっと頼りない素材にも思えますが」
「でも、似合ってるよ。ここに現れたときのドレス姿より、こっちの制服の方がなんだか親しみが湧くな」
「……そういうものですの? これが、郷に入っては郷に従えというやつですのね」
少し違う気もするが、満足そうだからよしとしよう。
登校して教室に入ると、室内の空気は落ち着きと浮つきの混じったものだった。翠中は、三年への進級時には持ち上がり制を採っていて、クラス替えはなかった。
俺の父親と母親に関わる事件については、当初こそだいぶ噂を呼んだようだが、すでに季節が巡ってだいぶ影響度は下がっていた。そこも含めて、二年次から特段の変化はない。日常というものは、意外としぶといのだろう。
だからこそ、金髪碧眼で巻き髪の美少女が先生に連れられて教室に入ってきたときの空気の変化は、凄まじいものだった。
「えっ、誰? え、外国の子?」
「髪、くるくるだ……! すごっ……」
「いや、くるくる過ぎだろ」
「転校生? うちのクラスに? なんで?」
口々に囁きが漏れ、好奇の視線がエルリアに注がれる。
本人は、その圧力を受け流すように静かに立っていた。背筋は伸びているが、目線は虚空に向けられている。
「……エルリア=リンドラントと申します。よろしくお願いしますの」
あいさつもまた、最小限だった。その口調と言い回しだけでも、どこか浮世離れしている。
担任に促されて、空いていた後方の席へと導かれる。一時間目が始まるまでの間、質問攻めをしようと生徒たちが近づいてきたが、エルリアは必要以上の反応を見せなかった。
昼になっても、エルリアを包む人の輪が形づくられていた。
「すげえ人気だな……、あの子。転校生っていうのは、ああいう感じが普通なのかな。どうですか、元転校生の悠真氏としては?」
そう声をかけてきたのは、前の席に腰を下ろした久世だった。
「キャラが違いすぎるから、同列に論じるのは無理があるだろ。しかし、あれだけ囲まれて平然としてるのは……」
「肝が据わってるよな。見た目も中身も、俺らとは次元が違いすぎる」
苦笑まじりに頷いた、そのときだった。
「えーと……、沢渡くん?」
呼びかけられて振り向くと、エルリアがつかつかと俺の机に近づいてきていた。そして、小さな包みをそっと差し出してきた。
「……これ、渡しそびれましたの。お弁当。おばあさまが、貴方の分も作ってくださったので」
瞬間、教室の空気の流れが一瞬止まった気がした。周囲の視線が、俺に集中する。
「ああ、ありがとう」
黙礼を投げて、無表情で戻っていく。
「えっ……?」
「なに、今の……」
「あいつと……、知り合いなの? 沢渡だっけ?」
囁きが広がるなかで、久世すらも軽く目を見張ってこちらを見ていた。
俺は受け取った包みをそっと開き、中に入っていたのが、落ち着いた色合いの和風弁当であることを確認した。
教室中に、沈黙とざわめきとが入り混じる中で、久世が小さく呟いた。
「……これは、また波風が立ちそうだな」
「まあ、なるようになるさ」
俺は弁当をつつき始めながら、静かに答えた。
始業式も含めた年度初日の登校から戻ると、近隣にやってきた知己があいさつに訪れた。
鳴海忠司というその人物は、俺と少なからぬ縁のある任侠組織、創始会の構成員である。神後の親分の側近のひとりで、昨秋に俺のもとに競馬の配当金を届けにきた人物となる。
その鳴海さんが、小金井に腰を据えることになった。エルリアの出自の書類の確保に加えて、沢渡家での居住継続についても、創始会の威光を背景に横車を押し通してくれていた。長野方面で調達された書類によって、彼女は小金井市に転入してきた形となった。この時代には、外国人は住民票の対象とはなっておらず、外国人登録法での扱いとなる。
とはいえ、鳴海さんはひとつ屋根の下に同居するわけではなく、近隣に部屋を借りて顔を出す、との形らしい。駅から離れた古いアパート。外から見れば、ただの独身会社員の部屋だ。
「なんだか……、警戒されてるみたいですね、俺」
そう呟くと、対面してソファーに腰掛けていた鳴海さんが、ふっと笑った。
「坊っちゃんにはなにかがあると、オヤジは考えているのでしょうな」
「なにかって……?」
「それは、ご自身がわかってるんじゃありませんか?」
答えになっているようで、なっていない。だが、訪客の表情に悪意はなかった。どちらかといえば、困った弟分を見守るような温かみすら感じる。
「やっぱり、馬券の連続的中で目をつけられた?」
「さあ、それもあるでしょうが。……坊っちゃんが、ただの子どもでないのは確かです」
鳴海さんの言葉は、やけに静かで確信に満ちた響きだった。そりゃあ、そうだ。なにせ二周目なのだから。
それを抜きにしても、任侠と付き合いがあって、父と母が殺人事件に関与した中学生は、特殊な存在だろう。頷いて、言葉を続ける。
「先日のような事態はそうはないでしょうが、なにかあったら、いつでもお声掛けください。うちの者が動けるよう、段取りはつけてあります」
そう言って、その人物は辞去していった。創始会の構成員が近場にいるというのは、心強くもあり、緊張感を伴う事態でもあった。
この町で俺はなにかを始めることになるのだろうか。まだ、明確な答えはなかった。
エルリアがこの地で生きていくための立場を固めたことで、局面が動いたのは間違いない。夕餉の準備を進めながら、俺は静かに思った。
なるようになるさ、と。




