【1986年2月初旬】
腰を含めた不調が解消したばあちゃんは、これまでを取り返すように家事に勤しんでいた。料理を教われるのはうれしいのだけれど、やはり高齢なのでちょっと心配ではある。
この日は、台所で土鍋を愛おしげに眺めている。
「いい香りだね」
「おいしくできてるかな」
「うん、多分」
本日の献立は、ロールキャベツとなっている。トマト風味が基本だろうが、ばあちゃんの手にかかると、だしの効いたいい煮込みとなりそうだ。
エルリアは不在にしている。身分が確定したことで、自由に出歩けるようになったのだが、実際にはごく近所を散歩する程度であるようだ。おいおい、町の方も案内しなくては。買い物もそうだが、図書館にも出入りできるようにすべきだろう。
帰ってきた彼女は、手を洗うと厨房に顔を出した。
「よい香りですね」
「エルちゃん、おかえり。今日はロールキャベツなのよ。もうちょっと待っててね」
「キャベツですか。サラダはおいしいですよね」
上機嫌で戻っていくからには、楽しい散歩だったのだろう。献立については誤解があるようだが、まあ、実際に食べてもらうのが早そうだ。
夕食の席で、エルリアはロールキャベツが盛られた皿と対峙した。
「これは……、なんと芳醇な香り……」
エルリアは、湯気越しにそっと目を細め、まるで宝石でも見るかのように皿を覗き込んだ。どうやらあっさりと魅了されたようだ。
俺が作ると、わりとケチャップ重視のくどめの味付けになるのだが、ばあちゃんの手にかかると、だし風味が強いながらも肉とキャベツ、それにトマトの酸味も効いた複合的な味わいとなっていた。
なかなかの勢いで完食が為され、彼女はほんの少々の躊躇を漂わせながら顔を上げた。
「お肉とスープとを包み込むキャベツの包容力と言ったら。……もう一つ、いただいても?」
「もちろん。おかわりは大歓迎よ」
祖母は上機嫌で立ち上がると、台所へと向かった。その背中は、どこか得意げだった。
「……君が、食事の好悪について表に出すのは初めて見た気がする」
俺の言葉に、エルリアは少し目線を伏せた。
「それは……、振る舞われた食事を厭うのは貴族失格ですし、過度に好感を示すのは弱みを晒すことになりますし」
「貴族というのも、大変なんだな」
少し決まりが悪そうなのは、自省が効かなかったからなのだろうか。あるいは、先日の事件の経緯から、ばあちゃんとの距離が近づいたということなのかもしれない。それはそれで、健全なことなのだろう。
と、三毛猫が廊下からゆるやかな足取りで居間を横断していった。
「あら、シャルロット。お散歩中ですのね」
俺がミケと呼ぶ野良の個体は、シャルロットという名も持っているようだ。蒼衣さんにはみゃーちゃんと呼ばれていたが。
「ここを通り抜けて、ついでにおやつを食べるのが習慣になってるみたいだな」
推測通り、皿に供されている少量のカリカリを食べると、追加を要求する風でもなく、みゃあと鳴いた。
エルリアが近寄り、鼻に手を近づけて臭いを嗅がせてから見つめ合う。
「この子は、ロールキャベツは食べられますの?」
「うーん、食材的には食べられないこともないだろうけど、とりあえず熱さが問題かな」
「冷めると、トミさんのロールキャベツの真価は味わえないかもしれないですね。……この子は、沢渡家の一員にはしないのですか?」
どこか気後れが感じられるのは、自分の境遇に重ねているのだろうか。
「そうだなあ。野良猫は、地域で飼っている状態とも言えそうなので。独占してしまう形になるのは、あまりよくないのかも。……だいぶ先には、野良猫にとって住みづらい時代がやってくるけど、まだだいじょうぶだと思う」
「ですけど……、外歩きは危険も多いのではありませんの?」
「車に轢かれる、というのが主な危険かな。五日市街道が危険だろうけど、さすがにあちらまでは行動範囲に入ってないんじゃないかな」
実際には、年末年始やお盆の時期など、ゴミ収拾が止まる時期にはカラスとの生存競争が激しくなり、襲われる場合もあるとも聞く。特に、体調が万全でないと危険だろう。そういうタイミングでは、避難所的役割を果たすのもありかもしれない。
「猫さんたちには、安全に過ごしてほしいものです」
「……ただ、一方で、猫は年に二回、何頭かの仔を産むから、安全な状態で自由に繁殖させると、増えすぎるというのもあるしなあ」
不満そうな表情を浮かべたエルリアは、またミケと見つめ合った。
「シャルロット。あなたはここで住みたくはないですか?」
「にゃあ」
「こう言ってますけど」
「君は、猫の言葉がわかるのか?」
「わかるはずないじゃありませんの」
結構びっくりしたのだが、冗談だったようだ。
「まあ、この子の選択を尊重することになるだろう。ばあちゃんとしても、歓迎だろうし」
ぱたりと寝転がったミケが立ち上がり、去っていくのを二人で見送ったところで、おかわりの和風ロールキャベツが持ち込まれた
……ばあちゃんとしては、一部は翌日以降に回す腹づもりだったようなのだが、お代わりに次ぐお代わりで、あっさりと鍋は空になった。スープとしてもいい味なので、これはもう仕方のない展開である。
翌日、好評ぶりに気を良くしたばあちゃんが張り切り、黒豆を煮るときくらいにしか使わない寸胴鍋が動員された。
エルリアは歓喜して再び食欲を発揮したのだが、さすがに限界はある。
「さすがに、食べ切れなさそうですね……」
俺の言葉に、ばあちゃんはちょっと困り顔になっている。
「あの子は、好物はわらっちゃうほどたくさん食べる子だったのよ。だから、ついそのつもりで作っちゃって」
亡き母さんには、食べようと思えば量をこなせる、フードファイター的な一面があったということか。俺には、その素養は引き継がれてはいない。
「シャルロットと仲良しで、ここの庭によく遊びに来る子らに振る舞うのはいかがでしょうか?」
この頃の日本では、近所に住む子どもにお菓子やら食事を振る舞われることが、ごく自然な日常として許されていた。当然ながら、アレルギー持ちの子も存在していただろうし、犯罪被害への懸念も存在していたはずである。なのに、後の世の警戒感が存在しないのは、どうしてなのだろう?
食うや食わずで苦しんだ戦後から、雑な高度成長時代までの間は、人権意識を持つ余裕はなかったということなのかもしれない。
その日の夕方、ミケと遊ぼうとやって来た近所の子どもたちに、軽食代わりのロールキャベツが供された。
既に幾度か遊びに来ていた子らで、お菓子を振る舞う場面はあったため、その流れでさほどの抵抗はなかったようだ。
しかし……、この沢渡邸は凄惨な殺人事件の現場なのだが、彼らの親御さんに抵抗感はないのだろうか? まあ、古くからの地縁的な付き合いの中であれば、生き残った面々に問題はなく、追加の事件は起こらないと判断されているのかもしれない。襲撃事件の加害者であるやくざ者の父と、過剰防衛気味ながらも制止しようとして相討ちになった水商売で生計を立ててきた母。その二人の息子である俺を、危険視しないのなら、だが。
三人の子どもが縁側に腰を下ろし、お椀を手にした。
いただきます、と少し照れくさそうに手を合わせ、ロールキャベツを口にして……。
「うまい!」
思わずといった風情で声を上げたのは、痩せた体格の、少し年上に見える男の子だった。小学校高学年だろうか。
遠慮がちに食べるおとなしそうな女の子の隣では、明朗を絵に描いたような少女ががっつくように食べている。平日で給食があったはずだが、お腹が空いていたのだろうか。
「おかわりもあるわよ。あとはおにぎりでも作りましょうか。
いえ、そんな、と応じた控えめな少女の袖を、完食してスープまで飲み干した隣の子が掴んだ。囁きが交わされる。
「お言葉に甘えさせていただきます」
さすがに気になる展開なので、俺はちょっとだけ介入することにした。
「今からがっつり食べると、晩御飯に差し障るんじゃないのかい?」
「私は……、はい。これ以上は。美羽ちゃんは平気?」
「うん、お母さん帰ってくるのは遅いし」
「俺も平気」
少年がうれしげに続く。
「でしたら、二人の分をお願いできると」
話をまとめて微笑んだ少女は、自己紹介してくれたところによると、杉森紗良ちゃん。同じ小五の連れの女子は、松本美羽ちゃんというそうだ。男子は、和人くんで一個上らしいものの、特に交流はないらしい。
ロールキャベツとおにぎりが供され、二人が食欲を発揮する様子を、紗良ちゃんは微笑ましく眺めていた。
「うちに子どもが遊びに来るなんて、久しぶり。ちっちゃい頃は香澄も明るい子だったのよ」
少し涙ぐむ感じに、胸が痛くなる。両者の和解は、母さんが命を落とすまでに、どの程度進んだのだろうか。
……この日を境に、彼らはごく自然な形で連日のように沢渡家の縁側に顔を出すようになっていった。時には、他の子も連れて来ているそうだ。




