第94話:対等な選択
『私、一緒に居たい。行かないで、何処にも行かないで、ずっと一緒に居て……?』
縋るように、媚びるように、あの日の私が啜り泣く。二人っきりの部屋の中で、私は初めて素直に気持ちを告げた。
『一緒に行こう、これからも一緒に居よう? お母さんにも私から言うから!!』
あの時の私の気持ちは、ずっとずっと忘れない。必死だった、でも同時に信じていた。彼は私の言う事をきっと聞いてくれる。
『私、貴方が好き。誰よりも好き。だから一緒に向こうに……。』
ずっとずっと忘れない。あの時の私の気持ちを、私を見つめる彼の眼を、そして……憎むべき私の敵も。
『緊急……時十……王国……布告……。』
『………じゃ、ない。』
『っ……。』
ラジオから流れる人の声が、彼の意識と視線を私から引き剥がす。私の一生で初めての告白は、ソレによって彼の心から雲散霧消してしまう。
『さよなら。……シュナに宜しく。』
『ぁっ……。』
何の返事もなく、何の躊躇いもなく、私の想いは捨てられた。見向きもされずに、私は負けた。手を伸ばした時には、彼は居ない。
……そして私は、また負けたのだ。
「……嫌な夢。あの日に似てる夢……吐きそう……。」
眼を覚ますと、朝だった。カーテンの向こう側から日の光が差し込み、ミシュナの目覚めたばかりの顔に光を当てる。でも分かる事はそれだけだ。昨日は一日泣いていた様な気もするし、一日眠っていた様な気もする。そもそも今はいつだろう。あれから何日が経ったのか、その感覚も希薄だ。
「……体……重いわ。」
だが、それを確かめる気力も今のミシュナにはない。無気力状態……そんな言葉が頭に浮かぶが、それを脱しようとも思えないのだ。こんな感覚は、そう、10年前のあの時以来になる。あの日に良く似た、嫌な夢を見たからか。……いや、そうじゃない。
「また……繰り返しちゃった……。」
何がいけなかったのだろう。自分の何が足りなかったのだろう。望みはたった一つで、その為ならばどんな事だって出来ると思っていた。もう二度とあんな思いはしたくないと思って、自分の出来る事はしてきたつもりだった。なのに全部、意味のない事だったのかも知れない。
「……自分を磨いても、司羽を知っても……私はまた同じことをしてるのね……。」
そう、同じことだ。これはあの日の繰り返し、自分ではどうしようもない事を突き付けられただけ。無力感を味わったあの日の様に、また負けただけ。いや、私は最初から負ける事も分かっていた筈なのに……。
「…………。」
いや、もうそんな事はどうでもいい。考えることすら億劫で仕方ない。体が汗でじっとりして気持ち悪いのに、それよりも動くことに嫌悪感を感じる。自分が動けば、何かが変わってしまう様な気がしたから。でもその結果何も変わらないのも怖い。何もしたくないし、何も考えたくない。……このままで良い、このままずっと彼と一緒に居られれば……私はそれで……。
コンコンッ
「…………。」
ノックの音が鳴る。誰だろうか、司羽が帰ってきたのだろうか。それともトワが心配して見に来たのか。何にしろ……今は合わせる顔がない。誰かに会うのが怖くて……自分の姿を誰にも見られたくない。しかしそんなミシュナの思考とは裏腹に、部屋の扉は部屋主の意思を無視して開かれた。
「ミシュナ、入るよ。」
「………ルーン。」
ノックの意味すらも無視して入ってきたのはミシュナが予想した二人のどちらでもなかった。ルーンが入ってきても、ミシュナはドアの方向に振り向こうともせずにベッドの中で無視を決め込む。ルーンだとしても、特に何か話したい訳でもない。……彼女が入ってきたことに対する多少の驚きはあったが、それだけだ。
「ミシュナ、そんなに寝てばっかりいたら体壊すよ……?」
「…………。」
「だんまりか……もう、らしくないよミシュナ。」
そう言って、部屋に入ってきたルーンはミシュナのベッドに近付いて腰掛けた。何をしに来たのだろうか、心配をして見に来ただけ……と言う可能性もあるが、今のミシュナは誰とも会う気も話す気力もない。しかし、強引に来られたらそういう訳にもいかない。
「……今は誰とも会いたくないのよ。」
「ふーん、司羽とも?」
「………司羽とも……よ。」
「へえ……本当、重症だね。」
顔を見なくてもミシュナには分かる。きっとルーンは今呆れた顔をしている筈だ。ミシュナの言葉の中にある矛盾に、ミシュナの弱りきった態度に呆れている。
「私に……何を言いに来たの?」
「別に、ちょっと様子を見に来ただけだよ。トワが心配してたし、何でもリアの家族の内の一人がすっごくミシュナの事気にしてたみたいだから。」
「………そう。」
トワともう一人……恐らくナナの事だろう。あの子は、まだ生命に触れ始めたばかりだ。そんな大切な時期にあんな大量殺戮を目にしてしまっては心が不安定になってしまってもおかしくはない。だが彼女は自分の事よりもミシュナの事が心配堪らないのだろう。ナナはそういう子だ、優しくて……きっと心はミシュナよりもずっと強い。……でも、今はそんな大事な妹分達の事でさえ、ミシュナの心を揺らしはしなかった。
「……悪いけど、大丈夫だって言っておいて。あの子達とも……会いたくないわ。」
「私はミシュナがそういうならそれで良いけどね、いつまでそうしてるつもりなの?」
「………分からないわ、そんな事。」
「……………。」
それは本当の事だった。ミシュナでさえも分からない。昔司羽と離れ離れになった時、あの時はどれほど時間が掛かっただろうか。……いや、結局の所、再開するまでの間ずっと忘れることが出来なかったのだから、それはもう考えるだけ無駄なのだろう。時間が全てを解決してくれる程、時間というものは万能ではない。
「……それだけかしら? なら、もう放っておいて……私、誰とも話したくないのよ。」
「本当に? 私に言いたいことあるんじゃないの?」
「………ないわよ、そんな事。」
「ふーん、私はあるんだけどね。」
「様子を見に来ただけって言ってたじゃない……。」
「うん、気が変わったの。重症だったけど、思ったより元気そうだし。」
「……勝手ね。」
正直、ミシュナは鬱陶しいと思っていた。何故、放っておいてくれないのか。別にルーンに対して何か言う事なんてない。最低限の受け答えをして、それで御終いだと思っていたのに。
「勝手って言われても仕方ないけどね。私、元々誰かに気を使ったりするの苦手だし、好きじゃないし。」
「……ええ、知ってるわ。貴女はそういう人だもの。天真爛漫も程々にして欲しいものね。」
「うわぁ、ミシュナもご機嫌斜めだね。無理矢理話しかけてる私のせいなのかも知れないけどさ。」
「分かってるなら放っておいて欲しいんだけど。私本当に貴女と話したい気分じゃないし、話すこともないわよ。」
「だから、私にはあるんだって。」
「じゃあさっさとそれを話して出てってよ。貴女が出て行かないなら私が……。」
「……ふーん、でも此処にいないと司羽来てくれないよ?」
そのルーンの一言に、ミシュナは発言を止めて閉口した。……正直、会話自体が嫌だというのもあってミシュナは今かなり機嫌が悪い。この会話をさっさと終わらせて一人になりたいと思っていた。でもそれ以上に、今のルーンの発言には神経を逆撫でされた。
「……何が言いたいのよ。私は『誰とも』会う気がないって言ってるの。司羽だって今は関係ないのよ。さっきも言った筈だけど?」
「そう? 聞いたような気もするけど、忘れちゃった。それで……どうする? 出て行くの? 態々家を調べてまで司羽は来てくれないと思うけど?」
「……貴女……私に喧嘩を売っているの?」
体が熱い、全身がだるいはずなのに、それよりも胸の底から苛立ちが募ってくる。ミシュナはベッドから無理矢理に体を起こすと、目の前でベッドに座っているルーンに刺す様な視線を向けた。一方のルーンもまた、ミシュナに対しての視線は冷たかった。軽蔑や、侮蔑の色さえ浮かんでいるようにミシュナには思えて、二人の視線は至近距離で激しくぶつかり合う。今日初めて、二人の視線が交わされた。
「私はただ聞いてるだけじゃない。本当に良いのかって。ミシュナが一言構わないって言えば済むことでしょう?」
「だから言ってるじゃない。私は誰とも会う気はないって、いい加減しつこいわよ。」
「ミシュナからは会う気はない……でも、司羽からは会いに来て欲しいんでしょう? 自分の事を気にして欲しいんだ。心配して欲しくて、自分と会う為の口実を司羽の方から作って欲しいだけじゃない。そういうの、小さい子供みたいだよ。」
「っ……なんですってっ……!! いい加減にしてよ!! 子供はルーンの方じゃない、私に何の興味があるのか恨みがあるのか知らないけど、一人相撲で勝手に私に突っかかって来ないでよ!!」
「ほら、図星。言い当てられたからって難癖付けないでよ。ミシュナに対して別に興味も恨みもないよ。私はただ、事実を言っているだけだって、ミシュナも分かってるでしょ?」
視線だけではなく言葉も激しく攻撃的なり、二人の間の敵意の様な感情は膨れ上がっていく。二人の表情も言葉を交わす度に険しくなっていくばかりだ。
「図星ですって? 貴女に私の何が分かるって言うの。司羽の隣に収まって、ただ幸せになってるだけの貴女に私の事が分かる訳ないわ。知った風な口を利くのは止めて!! 貴女なんて……司羽の何も知らない癖に!! 司羽が将来辛い思いをしても、貴女なんかじゃ司羽を幸せには出来ないわ!!」
「何それ、もしかして私が司羽と愛し合ってるのが気に入らないの? 私が居なければミシュナが司羽の恋人になれたって? 冗談じゃない!! 私は私の力で司羽と一緒になったんだよ。確かにミシュナには借りがあるけど、それとこれとは話が別だよっ!!」
「本音を言えば最初から気に入らなかったのよ。何も知らない貴女に司羽を任せるのも本当は嫌で嫌で仕方なかった!! 貴女なんて寂しいからって司羽に擦り寄って、自分の体で司羽の事を縛り上げただけじゃない!! あの時、本当に愛情があったのかすら疑わしいわ。」
「なっ……!? そんなの負け犬の戯言にしか聞こえないよ!! ミシュナが嫌でも、司羽が私を選んでくれたんだから私が恋人なの。体で縛ったからなんなの? ファーストキスも、処女だって、女なら誰でも持ってる武器じゃない。私が本気になった司羽に対して全力で使って何が悪いの!? ミシュナの言う愛情がどんなに綺麗な物かは知らないけど、たった一人の大切な人に対してそれくらい必死になって迫るのだって立派な愛情でしょう?」
段々と話の焦点もミシュナの心情の事から逸れ、生々しい話題や、別の話へと脱線していった。しかし、相変わらず二人の口論の熱は冷めることを知らず、逆にヒートアップしていく。
「愛情って言うけど、ルーンは結局司羽の気持ちの事なんて何も考えてないじゃない!! いつだって我儘ばっかりで、その代わりに司羽に対しては従順なのかも知れないけど、それだって未来の事を何も考えてない!! 司羽は本当はあんなに悲しい事が出来る人じゃないのよ!! 貴女も彼女だって言うなら少しくらい司羽の幸せを考えたらどうなの!?」
「余計なお節介だよ、私と司羽の関係はこれくらいで丁度バランスが取れてるの!! 二人で話す時にも、ちゃんと未来の事を考えて話だってしてる。大体私に司羽の事が分かってないって言うミシュナこそ本当に司羽の事が分かってるの? 私はちゃんと司羽の事を考えて行動してる、司羽が本当に望むことも、本当に必要なことも私なりに分かってる!! ミシュナは勝手に私に期待しただけでしょ。私は司羽の事を止めればそれで幸せになれるなんて思ってない!!」
「じゃあ貴女はあのままで良いって言うの!? いつまでも司羽に従順なだけの女じゃ、昔の貴女と何も変わらないわ!! 貴女まで一緒になって司羽に同調したら、誰も司羽を止められなくなるじゃない!! 誰かが止めてあげなくちゃ、司羽がいつか受け止めきれなくなる時が来るわ!! 私は別に他の人間が死のうが生きようがどうだって良いわよ。でも司羽はそうじゃないの、一番傍にいる私達がなんとかしないと司羽が潰れちゃうわ、私はそれだけは許さないからっ!!」
「ミシュナのやり方こそ駄目だったじゃない!! 私が司羽に従順って言うけど、私は自分の意思で司羽と同じ道を歩いてるんだよ、勘違いしないでっ!! 大体そのやり方で私まで司羽を否定したら、司羽は一人ぼっちになっちゃうんだって、分かってないのはミシュナの方だよ!! 私だって他の奴らなんて知った事じゃない。司羽を一人にする以上の罪なんて存在しないんだから。私は司羽が誰に否定されても、もしも将来司羽自身が否定しても、私だけは味方でいる!! 司羽が苦しい時も、非難される様な罪を犯す時も、絶対に離れない。どんな道でも孤独感なんて感じさせない。死ぬ時も、幸せになる時も、私だけはずっと隣に居るって決めたの!!」
「不幸になるなら司羽を巻き込まないで!! そんなんじゃルーンに司羽を任せるなんて無理よ!!」
「司羽はミシュナのものじゃないでしょう!! そもそも不幸になんてしないよ、私と幸せな家庭を築く予定があるんだから!!」
「……はぁっ、はぁっ。」
「……はぁっ、ふぅっ。」
依然二人は睨みあったまま、今にもお互いに掴みかかりそうな様相で対峙していた。一歩も引かずに言い合っていた二人の内、呼吸を整えて、先に視線を逸したのはミシュナだった。
「……なんでっ……貴女が本気で止めてくれれば……司羽も止まったかも知れないのに……なんで止めてくれないのっ……。」
「………ごめん、ミシュナ。」
「……もう……嫌よっ……司羽が怖い顔するの……嫌っ……。」
先程の口論の時とは正反対に力なく俯いたミシュナは、体を小さく震わせ、怯えるような口調で呟いた。震える声で、諦観が混じった暗い瞳から、ぽつりと雫が頬を伝っていく。
「……ごめんね、私には出来ないよ。私はいつだって司羽の傍で、味方で居たい。そのお願いを聞いたら、私が司羽と、私の想いを裏切る事になるから……誰のお願いでも、絶対に出来ない。」
「……分かっ……てるわ。知ってるわよ、貴女がどれくらい司羽を愛してるか……どんな気持ちで司羽を手伝ったのか……全部分かってる……。でも、私じゃ……私じゃ駄目なのよっ!!」
「……………。」
ミシュナは拳を握りしめて、絞り出すように言った。膝を引き、そこに顔を埋めるようにしたミシュナの表情は、長い黒髪に隠れてルーンからは見えない。ルーンだって、ミシュナの想いがどれほどのものか、分からない訳はなかった。これ程に強く想って、自分では駄目だと身を切るように認めて、誰かに縋ってでも一人の人を愛し続けるなんて、献身などと言う言葉では全く足りない。
「なんで私じゃ駄目なの……いつまで司羽の心を縛るの……。もう居ない人間が司羽をいつまでも独占しないでよ。私の声はいつだって届かないのに、私は傍に居たいだけなのに……私の方が司羽を愛しているのにっ!! なんで私じゃ駄目なのよっ!!」
「……ミシュナ、それって……。」
「……嫌いよっ、戦争も、平和も嫌いっ。街も、国も、それを作る人間も嫌いっ。何もかも全部消えたら、司羽は私の傍に居てくれるのに、誰も殺さないで済むのに……。」
「……ミシュナは、知ってるんだよね。司羽の昔の事。」
「……ええ、少しの間だけど……一緒に住んでいたから。」
それはミシュナにとって一番大切な時期の記憶だ。忘れるはずがない思い出。この10年で何度も思い返した、ミシュナの想いを支えてきた時間。
「でも何もかも知ってる訳じゃないわ。……お母さん、大事な所は全然教えてくれないもの。でも大体は分かってる。司羽が、ある人との約束に縛られてるって事……その中でも、平和に関する約束は一番に優先される司羽の大事な約束だって事……それくらいよ。」
「……約束……そっか。」
「私は……私はそれに負けたのっ……!! 勇気を出しても、駄目だった。今回だってそう、私の声なんて司羽には届かなかった!! なんで……私じゃ駄目なの? なんでいつも司羽の大事な場所には誰かがいるの!? 司羽の為に頑張ったのに……もしまた会える時は振り向いて貰おうって……そう想って願い続けて……なのになんで……ルーンの願いは届いて私の願いは届かないの……なんで、ずっと願ってたのは……私なのに……。」
その言葉は今までミシュナが溜め込み続けていた全てだった。最初に司羽に会った時、既にミシュナの居たい場所には誰かが居た。再び会えた時、その傍にはルーンが居た。もう一度拒絶される事が怖かったのは本当だった。でもそれ以上に司羽の一番傍に居たかったのに。まるで想いと覚悟の差を見せつけるように、ルーンがそこに立っていた。最初の頃はルーンの持っている想いが恋心でないと分かっていた。けれど萎縮してしまったのだ。自分ではいくら願っても出来ない事を壮絶な想いで成し遂げ、隣に立ったルーンの存在に。そしていつしかルーンが司羽に惹かれ、司羽もそれに応えて愛し合って、ミシュナはルーンの想いを踏み躙るような事は出来なくて……結局、二人の背中を押すような真似をして本当の願いを自ら仕舞いこんでしまった。その結果、結局ミシュナはまた同じ道を辿ってしまう。
「どうすれば良かったのよ……どうすれば司羽の傍に居られたの? どうすれば司羽に想いが届いたの? ……私とルーンじゃ……そんなに違うの……?」
「そんな事ないよミシュナ、ちゃんとミシュナの想いは司羽に届いてる。」
「……そんなの嘘よ。私は何も出来なかった。ううん、しようともしなかっただけよね。ルーンと私じゃ違うんだって分かってる。司羽の中の約束に負けて、ルーンにも完敗で……勇気出したけど、また負けちゃった。もう疲れちゃった……どうして良いか分からないのよ。」
「……嘘じゃないよ、本当にちゃんと司羽に届いてる。それに言ったよね、ミシュナと私は本当に似た者同士だって。私との違いなんて、本当はないんだよ。」
「なんで……そう言えるの?」
「……覚えてる? ミシュナが気付いてないだけで、私はミシュナに助けられてるって言ったよね。凄く……凄く大きな借りがあるの。」
「……そんな事、言ってたわね。」
確かに言われたことがある。ミシュナに心当たりはないし、ルーンと司羽を後押しした事でもないらしいから本当に何の事だか分からないけれど。でも、だからなんだと言うのだろうか。
「……私ね、ミシュナにずっと隠してた事があるの。」
「……今更、何を隠されようと……。」
ミシュナがそう言って膝から顔を上げて、ルーンの方に顔を傾けると……ルーンは眼を閉じて、片手を胸に当てていた。静かに呼吸を整え、そして。
私の声を聴いて―――――
私の愛を聴いて―――――
遥か遠い場所にいる貴方に―――――
せめてこの歌が届きますように―――――
「っ……!?」
ミシュナの体が震える。それは、聞こえるはずのない歌だった。
私の声を抱いて―――――
私の愛を抱いて―――――
もう会う事の出来ない貴方に―――――
どうかこの歌が響きますように―――――
「………なんで……。」
あまりの驚きに無意識に呟く程だった。この歌は……間違いなく、自分の歌だ。
忘れられていますか―――――
覚えてくれていますか―――――
遠い世界の果てまでも―――――
私の声は届いていますか―――――
「……………。」
何故ルーンが……と考えても答えが見つからない。昔からあの場所で歌い続けた歌である事には違いない、盗み聞きをしていたのかも知れないが……一体いつ聞かれたのだろうか。
忘れないでください―――――
覚えていてください―――――
どれだけの時を経ようとも―――――
私は貴方の為だけに歌います―――――
私は貴方の事を―――――
そこまで歌って、ルーンは眼を開けた。目の前で驚愕の表情で自分を見るミシュナを見て、自分の考えが間違いでなかった事に満足しながら。
貴方の事を、愛しています―――――
―――――
――――――
―――――――
「……………。」
「……なんで……貴女がその歌を……。」
ルーンの独唱が終わり、部屋に静けさが戻った。驚愕に目を見開いたミシュナと、静かに穏やかな瞳で見つめるルーンの視線が交差する。
「それに、最後のそのフレーズ……私一度……いいえ、二度しか……。」
『私は貴方の事を想っています』それがこの歌の本来の最後のフレーズの筈だ。『貴方の事を愛しています』と歌ったのはたったの二回だけ。一度は司羽に直接この歌を歌った時だが、あれは星読祭の準備をした最終日の筈だ。ルーンはトワとユーリアと一緒に次元港に居た。……でも、もう一回は絶対に有り得ない。だってその時ルーンは……。
「私がどうしてこれを歌えるのか気になる? 気になって色々調べてみたんだけど、この歌は検索しても全く出てこなかった。ミシュナが作った歌なんだよね? ……司羽の為に。」
「……そうよ、私が作ったの。なんで歌えるの? だって私……その最後のフレーズを歌ったのって、貴女が……。」
「私が司羽を召喚した日……だよね?」
ルーンの言葉にミシュナは胸の奥が掴まれるような感覚がした。あの日の事は、何故か良く覚えているのだ。他人から見れば普段通りの平凡な一日だったが、ミシュナにとっては少し特別な事もあった。
「……そうよ。聞いた話じゃその筈よ。あの日はスイートピーが良く咲いて、司羽の事を思い出して。だからあの場所で歌ったの。最後のフレーズも、もう一度司羽に会いたくてたった一回変えただけ……それなのに……。」
「そっか。じゃあやっぱり、ミシュナの気持ちは届いてたんだよ。」
「………何を言ってるの……ルーン。」
ミシュナは未だに混乱していた。ルーンが歌を知っている事もそうだが、何故歌った日まで知っているのか。司羽を呼び出したと言う森から、ミシュナの歌った大樹まではかなり距離もある。そんな大魔法の前に散歩など行っている余裕はないはずだ。
「……ルーン、それ、何処で……。」
「……聴こえて来たんだよ、魔法の最中に。」
「………っ……。」
そのルーンの発言は、ミシュナを再び驚愕させ、完全に言葉を奪い去った。
「あの魔法ね、本当は失敗だったんだ。」
その時の事を思い出したように、ルーンは苦笑した。
「範囲が広すぎて、かつ私の家族になって欲しいなんていう選別があって、その上で使い魔みたいな主従契約も嫌で。ただの召喚魔法とは難易度の格が違うと覚悟はしてたけど……実際やってみたら、そういう次元の話じゃなかった。何か越えられない壁が最初から出来てるような、そんな感じがした。大きな力に流されて、修正しようとしても上手くいかなくて、魔力も底をついて……そんな時、この歌が聞こえたの。」
「……本当に、私の歌が……。」
「……凄く不思議だったよ。歌が聞こえ始めてから、大きな壁に扉がいきなり現れたみたいだった。最初に私がやろうとしてた方法とも少し違って、魔力だってもうないはずなのに、いつの間にか全部魔法が完成してた。私が呆然としてる間に歌が終わって……目の前に、司羽が居た。」
ルーンはそう言って、その時の情景を思い出していた。成功した事に実感が沸かず、ルーンはパニック状態になって自分の状態や魔法の状態、司羽の生死などを急いで確認した。そして、あらかじめ決めておいた召喚風の台本通りに司羽へと隠れんぼ勝負を持ちかけたのだ。今思えば、司羽が気絶していなかったらかなり恥ずかしい場面を見られていた事になる。
「正直、未だに色々と疑問の残る魔法だよ。司羽が気絶するって、それだけで異常な事だって今なら分かるし。流石に司羽はあの時からかなり冷静だったけど、今でもあの魔法についてはちゃんと分かってないみたい。何となく、どういう物か予想はついているみたいだけど。」
「……ルーン、聞いてもいいかしら。」
「……うん。」
「それって、全部、本当の事なの? そんな事が……本当に……。」
「……そうだよ、これが私が隠してた本当のあの日の出来事。司羽がね、気を失う前に小さい女の子を見たって言ってたんだ。それを聞いてハッキリ分かったの。私以外の誰かが、一緒に司羽を呼んだんだって。あの歌を歌っていた誰かが、私の家族への憧れを乗っ取るくらいの強い想いで、司羽を無理矢理ターゲットにした。そんな事が出来そうな人は、私は一人しか知らない……ミシュナしか。」
「……ぁ……わ、私の……歌……届いて……いたの……? ……ちゃんと……司羽にっ……。」
ぽろぽろと、いつの間にか再び涙が溢れていた。胸の奥で、ずっと何かを押さえつけていた重りが外れたような感覚だった。まるで夢を見ているような、ふわふわと、心が自分で掴めない。先程まで、苦しくて仕方がなかった筈なのに。
「……てたっ……つか、ばに……とどいて……たっ。」
「……ごめん、私、ずっと言えなかったの。あの歌を聞いた時からずっと……ずっと怖くて。私じゃ勝てないって、ミシュナって気付いてからずっと……この事が分かって、対等になったら……直ぐに司羽を取られるって……ごめん、なさい……ミシュナ……。」
「……ルーン……同じ、だから……私も怖くて……言えなかった、から……司羽の、ことも……ぜんぶっ。」
「ごめんなさいっ……凄く、苦しい想いをさせて……!! 一緒に呼んで……同じ人を好きになったのに……私ばっかり……。私だって……ずっとおかしくなりそうだったのに……ミシュナがそんなに悩んでたの、全然分からなかった……。」
「そんなの良いのっ!! ……ルーンの気持ち……私も、分かるから……ルーンが本気で、司羽を愛してるのだって……ちゃんと知ってるから……。」
「……ごめんなさいっ、ミシュナ……。」
「……私は、ありがとうっ、ルーン……。」
全て吐き出して安心してしまったのか、ルーンの眼からも涙が落ちた。いつも何処かで、二人共怖がっていたのだ。それは負い目であったり、大切な人を無くすかもしれないと言う恐怖。だから近くても、何処か遠いような距離感を二人共感じていて、それ故に最後の一歩を踏み出すことが出来なかった。だがきっと、これで全てが対等に戻ったはずだ。ルーンと一緒に、立ち向かうべきものがミシュナの目にはハッキリと見えていた。……その為には、絶対にやり遂げなければいけない事がある。
「……ルーン、お願いがあるの。」
「何?」
ルーンにそう切り出したミシュナの目はまだ潤んでいたが、先程までの暗い影はもう何処にもなかった。ずっと抱え込んでいた負い目は、もう何処にもなくなった。
「私に、司羽の四日目を頂戴。夜までには帰るわ。だから……。」
「うん……夜は三人で、星読みしよっか。」
「……絶対に、約束する。私も全力で……全部を賭けて……司羽に伝える。もう逃げないわ、私の声が届かないなんて諦めたりしない。」
「うん、分かってる。ミシュナならそう言うって思ってたから。だから、ずっと私はミシュナが怖かったんだもん。」
「ええ……ルーンに、沢山自信を貰ったもの。私の持っているもの全部で、今度こそ負けない。司羽を縛っている物を押しのけて、司羽の中の居場所を空けてもらうんだから。」
日の光が、カーテンの向こう側から強くミシュナを照らした。十年越しに、やっと重い楔が外れる音がする。あの時、心に打ち込まれた冷たい感触が、暖かいものによって溶かされていく。
本当に伝えたかったことを全て、もう一度司羽の心へと届けるために。