第84話:蒼き鷹の見る夢 -抹消された悪夢-
「…リア、大丈夫? 立てる?」
「は、はい、なんとか…。」
ルーンの手を借りて、リアは何とかフラフラと立ち上がった。まだ体の随所が痺れたように動かないが、それでもなんとか、立ち上がり姿勢を立て直す事が出来た。目の前がクラクラするが、それが眩暈に寄るものなのか、体自体がふらついているからなのかはリアにも判断が付かない。
「リアの声を聞くの、凄く久しぶりだね。今日は筆談は良いの?」
「……はい、そんな余裕のある状況じゃないですし。今日は元々そのつもりでしたから。」
「そっか。それじゃあ、『あれ』はどうする?」
「『あれ』……? そ、そうだ、イリスは……。」
そこで初めて、リアはイリスの姿が近くに居ない事に気がついた。いきなりの展開に、まだ頭が付いていっていないのもあるが、ルーンが余りにもいつも通りなので、戦闘中だと言う事を忘却していた。
そして、慌てて辺りに視線を巡らせ……直ぐに、見付かった。
「はぁっ……ぐっ……はっ……はぁっ。」
「イリス……。」
先程の位置から十数メートル程離れた位置に、彼女は居た。胸の辺りを手で押さえ、なんとか呼吸を整えようと荒い息を吐いている。一体、何が起こったのか。リアはそんな状態のイリスを見て、続いて視線をルーンに戻した。
「あの、さっきの光は……ルーンが?」
「うん、でもちょっと手加減し過ぎたかな? 私としては、死ななきゃいいやってくらいの攻撃だったんだけど。」
「ふ、ふざっ……けるなっ……。」
「…………。」
リアもはっきりと見た訳ではないが、どうやらルーンがイリスに反撃した結果の様だった。先程まで余りにも圧倒的だと思っていたイリスが、今にも膝をつきそうな表情でルーンを睨みつけ、一方のルーンは涼しい顔でリアの落としたスケッチブックを拾い上げ、興味深げな瞳でパラパラと捲っていた。リアも、その光景が俄かに信じ難かった。……ルーンは、これ程強かったのか。
「はいっ、スケッチブック返すね。」
「あ、はい、ありがとうございます。」
「それでどうする? もう一撃くらいやっとく?」
「っ!?」
「ま、待って下さい!!」
ルーンがそう言った瞬間、周囲の空気が『歪んだ』。何も物理的に空間が歪んだわけではない。ただ、そう感じてしまうだけの膨大な魔力が、イリスの周りに一瞬で集まったのだ。そのあまりの大きさに、イリスの体が固まる。防御するにしても、全方位からこれだけの魔力の攻撃を受ければ、耐えられる筈もない。先程受けた無詠唱の魔法は、本当に手心を加えた一撃だったのだと、イリスは否応なく理解させられた。
「あ、貴方……一体……一体なんなのよ!?」
「それはこっちの台詞なんだけど? なんでリアに襲いかかってるの? 悪いけど、この子は私の大事な友達……親友なの。勝手に襲われちゃ困るんだよね。」
「友達? 親友? はっ、そんな姿を隠し、声を隠して生きてる奴が親友だなんて、貴方余程友達が少ないのね。」
「あー、うん、そだね。私友達なんてリアしか居ないし。ミシュナ達は友達って言うのとは違う気がするしね。」
「……あの、リンシェさんや、ムーシェさん達は……いえ、なんでもないです。」
ムーシェやリンシェの名前が友人として挙がらないのは可哀想な気がして、口に出した途端にルーンに凄く純粋な目で小首を傾げられてしまった。ちょっと酷い気もするが、ルーンは基本的にこういう子だ。悪気はなくても、実は元々とてもドライな子なのだ。この辺りは、最初からルーンに好かれていた司羽には想像も付かない部分なのではないかと、リアは内心思っていた。
「ふふっ、ふふふっ、良かったわね王女様。貴方みたいな人殺しにも、友人と呼んでくれる人が居て。」
「王女様……人殺し……?」
「……イリス、貴方は、何故そんなに変わってしまったのですか……。」
「黙れ、そうやって罪を逃れようとするな!!」
イリスが叫ぶと同時、突如リアの真上に魔力が収束する。完全に不意を突かれていた。先程と同じ、しかし更に威力が高い一撃がリアに向かって直接降り注ぐ。リアはそれに反応出来なかった、魔法障壁も完全に間に合わない。それでなくても、今のリアはイリスの魔法に抵抗出来るような状態ではない。……しかし、攻撃魔法の轟音はリアの下ではなく、少し離れた場所から鳴り響いた。
ゴォンッ
「がっ……あ……。」
「はいはい、ペナルティね。次やったら消し飛ばすから。」
「ルーン……貴方、こんなに強かったのですか? いつも見ているレベルと全然……。」
「そ、そう? まあ、そりゃあ普段から本気でやる必要もないし? このくらいなら元々出来たけど。」
リアが咄嗟に張った防御障壁が発動する前に、リアへ向けられた魔法は無効化され、それと同時にイリスの真上から全く同じ魔法が放たれていた。そしてそれは逆に不意を突かれたイリスへと直撃し、イリスは再び地に伏す事になった。リアにも、もう完全に理解が出来た。ルーンとイリスでは、格が違う。先程自分が味わっていた絶望感を今、イリスも味わっている事だろう。
「ぐっ、ぅぅっ……人、殺しめ……はぁっ、はぁっ……。」
「………。」
しかし地に伏したイリスの瞳には、諦めも、絶望も写ってはいなかった。ただひたすらに暗く、執念の様なものを感じさせる輝きが燃えている。……一体、自分はどれほどの恨みを抱かれているのかと、かつての友人を見ていて目を逸らしたくなる。元々イリスは、優しく、姉のような存在だったのだ。城から逃げ出した当初は、つい居るはずもない彼女の姿を探してしまうくらいに、リアはイリスが好きだった。
「イリス……なんでそんなに私を恨むのですか。貴方を置いて城から逃げたからですか? 貴方を探さなかったからですか? ……教えてください、イリス……。」
「……はっ、何よ、それ……フフフッ、アハハハッ……本当は分かってる癖にっ、……良く言うわ。」
「……っ、な、何を……。」
「私、言ってるじゃない……人、殺し……って。」
「まさか……貴女……全部知って……。」
イリスは、またゆっくりと立ち上がった。闘気は全く消えていない。殺気は未だ、リアを刺すようにその場に縛り付けていた。リアは、イリスの暗い視線に耐え切れなくなったように、視線を逸らす。それが如何に危険な事か分かっていても、そうせざるを得なかった。……そしてそれを見て、イリスは鼻で笑った。
「はっ、やっぱりね。気付いてないとでも思ってたんだ。」
「ちょっと、さっきからリアを人殺し呼ばわりしてるけど。私からしてみれば人殺しは貴女の方なんだよね。」
「ル、ルーン……。」
「部外者は黙っていて欲しいものね……王女様の親友だかなんだか知らないけど。ルーンさんだっけ? 貴女……何様の……つもり、で……。」
そこで、初めてイリスの顔色が変わった。圧倒的な実力差を見せつけられても揺らがなかった瞳が、驚愕に変わっていく。ルーンは、自分を見つめたまま固まってしまったイリスを、訝しげな表情で睨みつけた。
「何? 私の顔に何か?」
「……ルーン、ルーンですって……? 貴女、ルーンって名前なの?」
「そうだけど?」
「……次元魔法のルーン……まさか、貴女が……。」
「確かに、そういう風にも呼ばれてるけど。だから何?」
イリスの驚愕の表情は、既に消え失せていた。代わりに、口元に笑みを浮かべ、ルーンの顔を観察するようにジロジロと見ている。ルーンはそんなイリスに不快感を隠そうともせず、手首のリング型の魔導器に魔力を収束させた。脅しでは済まない圧倒的な質を持った魔力が、いともたやすくルーンの右手に集まっていく。
「ごめん、不快だから見ないでくれる?」
「………ふふっ、あはははははっ……そっか、貴女が次元魔法のルーンさんなんだ……。」
「だからそうだって言ってるでしょ? 何? 馬鹿にしてるの?」
「アハッ、馬鹿だったのは私の方よ。貴女の写真くらい見ておけば良かったわ。そもそも、ルーンって名前で気付くべきだったのよね、フフフッ、馬鹿な私、本当に馬鹿、アハハハハハッ。」
「イ、イリス……一体何を……。」
ルーンの脅しも意に介さず、イリスはクスクスと楽しそうに笑う。ルーンには、その発言が意味不明だった。自分が次元魔法のルーンと呼ばれる存在だから一体何なのか。その名を聞いて萎縮する人は数多く見て来たが、こんな風に笑われたのは初めての事だった。だがどうやら、馬鹿にされている訳ではないらしい。そしてイリスは、今度は青い顔をしているリアの方へと、軽蔑の視線を送った。
「ふふっ、王女様……、いえフィリア。貴女、本当に最高に最低だわ。まさか、この子の親友だなんて……良くもそんな事が言えるわね。」
「っ……な、何を言っているのですか!! 私が、誰の親友になろうと貴女には関係ありません!!」
「……リア?」
今まで静かにしていたリアがいきなり声を荒げたのを聞いて、ルーンも驚いた様に目を丸くした。しかし、イリスはその反応を見て、更に可笑しそうに笑う。
「聴いてるわよ、ルーンさん。貴女、ご両親がいないんですってね。」
「……だから?」
「イリス!!」
「あらあら、フィリア、顔が真っ青じゃない。やっぱり、そうなのね……。」
「っ………。」
「……リア、どうしたの?」
イリスの言葉に、明らかにリアの様子が変わった。もう、イリスの中には確信があった。フィリアの態度を見れば分かる。いや、それがなくても分かってしまう。
「ちょっと貴女、リアに何を……。」
「ダーロン・サンクティス、そしてルアーナ。」
「………え?」
「ふふっ、やっぱり。やっぱり貴女が……、ルーンちゃんなんだ。」
「止めなさい、イリス!!」
突如リアのスケッチブックが巨大化し、中から黒いライオンのような獣が飛び出した。そしてそれはイリスへと飛びかかり、寸前で雲散霧消する。思わず唇を噛むリアを尻目に、イリスは余裕の態度でルーンへと向き直った。ルーンは、ただ、呆然とイリスの言葉を心の中で反芻している。
「なんで貴女がその名前を……。」
「ふふっ、知ってて当然ですよ。ねえ、フィリア……いえ、今はリアだったかしら? 名前まで変えて、随分と用心深い事。ルーンちゃんは何にも知らないのだから、そんな必要はなかったでしょうに。」
「ち、違う……私はそんなつもりで……。」
「リア……ねえ、どういう事? なんであの人が……。」
「お母さん達の名前を知ってるの?」
ルーンのそんなある種当たり前の疑問は、リアの顔を蒼白にさせた。ルーンの驚きと困惑と、何だか複雑な感情が入り混じった表情が、そして視線が、リアへと突き刺さる。それを見ていたイリスが、そんな二人を見て、クスリと笑みを深めた。
「……そ、それは……。」
「リア、どういう事? なんで何も言わないの?」
「ふふっ、言えないわよねえ。」
「…………。」
「本当、何処までも酷い女。じゃあ、私が代わりに言ってあげる。」
「っ……。」
イリスの言葉に、リアの肩が震える。そんなリアを、イリスは軽蔑の視線で見つめながら、ただ、笑う。ルーンは真っ青なリアの顔を見ながら、それでも、イリスの方へと視線を移した。
「ごめん、リア。お母さん達の事なら、私知りたい。」
「……や、やめて………聞かないで……ルーン……。」
「……私、事故で死んだって事しか知らないから。だから……。」
「ふふっ、当然よ、知りたいって思うわ。大切な自分の家族が、どうして死んだのか……誰に殺されたのか。」
「………え?」
その一言は、その場の空気、ルーンの表情を凍りつかせた。そしてリアは俯いたまま、その小さくなった体を抱くように震えている。まるで、死刑宣告を待つ死刑囚の様に、顔に絶望を張り付かせて。
「………え、何、殺……された? 何言ってるの? だって事故だって……。」
「ええ、だって公けに出来ないもの。あれは、存在しない筈の戦争だから。だから、関係者や親族には事故扱いで報告された。……貴女のご両親もね。」
「……じゃあ、その戦争でお母さん達は……。」
「惜しいわ、でも違うのよね。……そうでしょう、ジューン国の王女様?」
「…………。」
そう言って話をイリスが振っても、リアは俯いたまま動かなかった。しかし、その言葉と視線はルーンに情報を与えるには充分過ぎた。
「………ジューン国の、王女? え、まさか、リアが?」
「ええ、そして私は傍使えだったの。そして、貴女の御両親と私の父親は外国から来た研究技術者。母親は、元々ジューン国の傍使えとして働いていたけどね。だから、貴女の御両親の事は良く知ってる。そこのフィリアもね。私の父親は結婚してからも研究者として働いていたから、貴女の御両親とも仲が良かったのよ。特に父親の娘馬鹿同士、馬が合ったみたいね。」
「……ジューン国の事は知ってる。私のお母さんとお父さんの仕事先だったから。でも、まさかリアがそこの王女様だったなんて……。」
「娘の写真……つまり、ルーンちゃんの写真はその時に見せてもらったわ。こうして成長してみると、ルアーナさんの面影があるわね。あの人も大概美人だったけど、ダーロンさんの血が入ってまさか進化するとはね……。ルアーナさんが、将来は私を超えるって言ってたのは伊達じゃないわ。」
「……そっか、本当みたいだね。」
「ええ。フィリアも私と一緒に良くしてもらっていてね。随分と懐いていたわ。」
その会話の端々から、ルーンはその話が間違いなく真実だと読み取っていた。だが、今はそんな事はどうでもいい。ルーンが知りたいのは、昔の仕事場でのエピソードなどではない。
「それで、結局どういう事なの? 戦争で死んじゃった訳じゃないんでしょ? 殺されたって、一体どういう事?」
「あの頃、戦争状態に突入したジューン国は海外から来た研究者を帰国不能にしたわ。研究者だけじゃない、旅行者や商人まで片っ端からスパイ活動の防止だって事でね。……そして、その中には私の父親や貴女の両親も居た。拉致同然の扱いだったわ。行動は監視されて、外部への連絡すら不可能になった。」
「スパイ活動……? でも、貴女の父親は。」
「ええ、もう長年仕えていて、結婚もしているわ。結果も出してる。でもね、そこの王女様の父親は……頭の狂った国王は私達を疑ったのよ。」
苦虫を噛み潰したような表情で、イリスはリアを睨んだ。信頼していた者からの裏切りにも等しい疑い。そして、それでは終わらないのだとイリスの表情が語っていた。
「扱いは最悪だった。そして戦争もかなり負けが込んで、敵が城目前まで迫っていた時に敵から通信があった。相手国……共和国の武装解除宣告だったわ。もう勝てる戦争じゃなかった。明らかに兵も技術も負けていて、降伏するのが遅すぎるくらいのタイミングだったの。でも、あの国王はそれを飲まなかった。ちっぽけなプライド、かつての強国の栄光とやらにしがみついて。あろうことか、非戦闘員すら戦争に導入し始めた。」
「……もしかして、リアを人殺しって言うのって……父親のせいってこと?」
「……いいえ、これはあくまでもフィリアの父親のやった事よ。あの国王も大概狂ってたけど、こいつは、もっと邪悪な事をやったのよ。そうよね?」
「……私は……私はっ……。」
「あの時、外国人を含め非戦闘員も限界だった。だから一部で逃げ出す算段をしていたのよ。降伏派の兵士も巻き込んで、その計画は秘密裏に行われていた。その中には、フィリアの姿もあったわ。王妃の頼みで一緒に逃げることになってたの。」
それは、きっと仕方のない事だ。もう負ける戦争、しかもあらゆる人員を投入しての総力戦。きっと戦場は地獄絵図だっただろう。一方的な虐殺といっても良いかもしれない。トップが許さないなら、なんとか団結して逃げ出すことが皆の最後の希望だったのだろう。
「そして、その予定の日……私達の計画は国王に完全に知られていた。……ねえ、なんでだと思う?」
「っ……あ、あれは……私は、そんなつもりじゃ……。」
「言い訳は見苦しいのよ。貴女が王妃に泣きついて一緒に逃げようなんて言うから、それを聞かれたんじゃない。そのせいで……、そのせいで何人の人が反逆罪で殺されたと思う? 少なくとも私の両親は殺されたわ、貴方のせいでね!! 裏切り者の中には王妃とフィリアの名も入れられたわ。……そして、ルーンちゃんに取ってはここからが本題よ。言い逃れは、絶対に出来ないわよねえ?」
「っ、やめて!! それだけはルーンに……言わないで……お願い、私、償うから……貴女にも、ルーンにも償うから!! ルーン、お願い聞かないで……私、なんだって償うから……だからっ!!」
「り、リア……?」
明らかにこれまでの様子と変わったリアに、ルーンも息を飲んだ。縋るように叫び続けるリアの様子は鬼気迫って居て、髪を振り乱してルーンにしがみついた。蒼白の表情の上、目からは涙が零れおちていた。でも、それでもイリスは決して口をつぐむ事はなかった。
「あの日、国王はフィリアにある条件を提示したわ。母親と自分の罪を取り消す為の贖罪方法……自分達のジューン国への忠誠を確かめる為の最後通告。」
「最後……通告?」
「やめて……お願いやめてっ!!」
ルーンもまた、自分の両親の話に対して耳を塞ぐ事が出来なかった。リアの叫びの中、リアにとって最後通告が、言い渡される。
「こいつは罪を逃れるために、貴女の両親に毒を盛ったのよ。」
「っ!?」
「嫌っ……あああっ、嫌あああああああああああああああっ!!!」
夕暮れの公園に、少女の悲鳴が響き渡る。一人の少女の憎悪と、一人の少女の困惑が、悲鳴と共に夜の闇へと溶け込んでいった……。