第73話:Remember sweetpea
「…………。」
「…………。」
二人は森林浴のコースをゆっくりと、特に何を話すでもなく、歩き続けた。それは気不味い沈黙では決してない、寧ろ言葉の必要性を問うような空間だった。
「……すぅ……。」
その道すがらに司羽は大きく息を吸い込んだ。夕暮れに照らされたその深紅の森は、司羽を自然と穏やかな気持ちにさせてくれる。仕事の疲れや準備が無事に引き継げる事への安心感と共に、司羽の心を満たしてくれていた。
ふと、隣を見るとミシュナもまた歩きながら夕日に照らされた木々や草花を優しい表情で眺めていた。それは司羽もドキッとしてしまう可憐な表情だった。
「……ミシュ、ありがとな。」
「え? どうしたのよ、突然。」
今まで沈黙を守っていた司羽の口からいきなりそんな言葉が出て、ミシュナが問いかける。司羽も自然と出た言葉だったので、その理由に対して一瞬の思考を働かせる必要があった。
「……そうだな、多分色々理由はあるんだと思う。」
「もう、何よそれ。適当に言ったってこと?」
「んー……そういう事かもな。自然に口に出た。」
「ふふっ、変なの。」
考えがまとまらず、司羽がありのままを正直に話すと、ミシュナは呆れたような口調で返しつつも、穏やかな表情を崩さずに、微笑んだ。
「でも取り敢えず分かってるのは、短い期間だけど、俺と一緒に居てくれたことなのかな。」
「……そっか。」
普段なら、照臭くて出なかったかも知れない言葉だが、そんな些細な事も気にならないくらいに伝えたかった。一緒に警備の仕事をしてくれた事は勿論だ。今こうして一緒に歩いていることもそうだ。でもきっと、それだけではない筈だ。
そんな二人の交差する視線の間を、心地のいい風が通り抜ける。
「……いい風ね。」
「ああ……。」
言ってから恥ずかしくなって僅かに熱くなった顔を冷ますような風に、司羽はほっとしてしまう。二人共、自然と笑みが溢れた。そしてまた、示し合わせたように同時に道を歩き始める。先程よりも、間の距離を縮めながら。
「……そういえば、此処かな。」
「此処?」
「ああ、ここに来たばかりの頃にミシュの歌を聴いた場所。この辺りで聞こえたんだ……今思うと、この距離でよく聞こえたな。でもあれがなければこんなに親しくなることもなかったかも知れないし、巡り合わせって不思議だよな。」
此処からミシュナが歌っていた場所までは結構距離がある。確かに静かな場所だが、それでも驚きだ。
「…………。」
ミシュナの方を見ると、何かを決めかねるような、迷うような表情をしていた。その表情の意図は司羽には分からない。そして、
「あのね、司羽……。」
「ん?」
そしてその表情が、覚悟に変わる。
「あの場所に、行きましょう?」
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そこは、まるで聖域の様だった。夕暮れの日の光も夜の闇に溶け始め、辺りは暗闇になり始めていたと言うのに、そこだけは何故か僅かな日の光が集まったかの様に明るい。
司羽とミシュナの二人は、その中でも一際大きな巨木を見上げながら、触れるような距離で並び立っていた。
「……幻想的な場所だな。不思議な気分だ。ここだけ明るいなんて。」
「……ここは特別なの、私にとっても。」
司羽にも此処が特別な場所なのは分かる。司羽もまた、気術士である。この大きな木がどういう存在なのか、この場所にどんな影響を与えているのか。……だが、分かっていても幻想的な場所だと思う。暗闇の中だからこそ一際輝くその場所が、ミシュナにとってどんな意味を持っているのだろうか。
「こんなに綺麗な場所だったんだ。」
「私も、そう思うわ。まるで演出してくれているかの様で……。」
「………?」
その言葉の意味が司羽には分からなかった。演出とは、どういう事だろうか。そう思ってミシュナの方に視線を向けると、司羽の視線とミシュナの視線が交差した。
「…………。」
「…………。」
ミシュナの顔には、先程見た、覚悟を決めたような表情。だがそれと同時に穏やかな笑みを浮かべていた。喜びと不安を同時に抱えて、なお変化を望んで進む者の表情だった。
「……最後だって思ったけど、それじゃあ駄目なのよね。きっと、これでやっと私の歌も意味を持つ。十年越しに、やっと。」
言葉の意味は、司羽には分からなかった。でもそれが尊いものだのだと自然に感じられた。何より、この場所がミシュナの言葉に呼応しているのを司羽は感じていた。気術士であるからこそ分かる、土地と人との信頼関係。でもきっとそれだけではない。
「司羽、私の歌を聴いて欲しいの。」
「……良いのか?」
「ええ、私が司羽に聴いて欲しいの。歌も喜ぶわ。」
歌が喜ぶ、そう言ったミシュナの笑顔はとても魅力的だった。こんな表情を今まで見たことがあっただろうか。ミシュナの笑顔はいつでも誰かを慈しむ様なものだった。でも今の笑顔は無邪気で、年相応で、自分自身の為の笑顔だった。司羽にはそれが、何よりも魅力的に思う。だから、そんなミシュナが歌う歌を、是非聞きたい。
「ああ、聴かせてくれ。」
「喜んで。」
ミシュナが巨木の前に歩み出て、司羽に向かって振り返る。その瞬間、木々を照らす光がミシュナに集まったような気がした。……いや、気のせいではない。ミシュナは確かに、その場所に祝福されていた。巨木の下、照らし出されたミシュナが小さな小箱を取り出して、中の物を指に嵌める。それは、司羽にも見覚えのあるものだった。いつかミシュナに渡した、司羽からのプレゼント。
「それは……。」
司羽が聞こうとすると同時に、ミシュナが静かに息を吸い込んだ。そんな僅かな音が聞こえる程に静かな場所だった。……いや、そんな無粋な質問は後でいい、今はただ、この美しい少女の歌声を聴きたい。自分だけが聴いている、歌が喜ぶと言って笑ってくれたミシュナの歌を。
そしてミシュナの瞼が閉じ、胸の前で祈るように両手の指を絡ませる。二人きりのステージが始まった。
私の声を聴いて―――――
私の愛を聴いて―――――
遥か遠い場所にいる貴方に―――――
せめてこの歌が届きますように―――――
私の声を抱いて―――――
私の愛を抱いて―――――
もう会う事の出来ない貴方に―――――
どうかこの歌が響きますように―――――
忘れられていますか―――――
覚えてくれていますか―――――
遠い世界の果てまでも―――――
私の声は届いていますか―――――
忘れないでください―――――
覚えていてください―――――
どれだけの時を経ようとも―――――
私は貴方の為だけに歌います―――――
私は貴方の事を―――――
そこで、不意にフレーズが途切れた。
閉じられていたミシュナの瞼がゆっくりと開き、目の前で同じ様に瞳を閉じていた司羽をしっかりと見据える。誰よりも届けたい、どんな言葉よりも届けたい、十年越しのその言葉を、大切な宝物を捧げるように。歌に乗せればきっと、言えるから。
「貴方の事を愛しています。」
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歌が終わり、余韻の中で瞼を開いた司羽の前には、一人の少女の笑顔があった。巨木の下、幻想的な光に照らされ、少女はただただ司羽を見ていた。いつもの様に慈愛に満ちた、それでも何処か違う、そんな笑みで。
「……優しい歌だな。凄く落ち着く。」
それだけしか言えなかった。どんな言葉もその気持ちを言い表せず、ただただ余韻に浸ることしか出来ない。自分のためだけに歌われた歌に、水面を漂うような浮遊感を感じる。
「ありがとう、聴かせてくれて。」
「こちらこそありがとう、聴いてくれて。」
司羽は有名な評論家の様に言葉を並べることはしなかった。しかし、ミシュナの笑顔は何処か満足そう
に見えた。歌は、届けるべき人に届いて、初めて歌になる。だからミシュナの歌は、十年越しの今、きっと初めて歌になった。それがミシュナに深い満足感と幸福感を与えてくれた。
「……なんだか、凄く、懐かしい感じがした。初めて聞く歌なのにな。」
「……えっ?」
「なんでだろうな。分からないけど。」
それはミシュナにとって予想外の言葉だった。そもそもこの歌はこちら側に来てからミシュナが創った歌だった。
「何故かな……。」
その懐かしさの正体を司羽が思い出そうともう一度瞼を閉じると、ふわり、と風が懐かしい香りを二人に運んだ。
「えっ……。」
「……今のは……。」
その香りはミシュナをも驚かせた。甘い、ミシュナには慣れ親しんだ香り。何故此処で、そう思って辺りを見回す。
「あれ……か?」
「あれは……なんで此処に……。」
司羽がその香りの原因を見つけ、傍に近付く。見つけるのは簡単だった。その花が淡く光って見えたからだ。ミシュナと司羽と、本来咲いている筈のないその花だけが、闇の中に浮かんでいた。
「これは……そうだ、確か……。」
司羽の中で、一つの記憶が呼び起こされた。
「懐かしいな。まさかこっちにも咲いてるなんて。」
「……スイートピー。」
「そうそう、そんな名前だ。昔、ちょっと縁があった花だ。よく知ってるな。」
とくんっ、とミシュナの胸が鳴った。司羽が覚えている、ナナの話を聞いて分かってはいた。でも……、でもその事実はミシュナに取っては何よりも代え難い喜びで……。
「昔、まだ本当に小さい頃、俺と少しの間だけ、一緒に暮らした女の子が好きだったんだ。……その子も歌が好きだったな。」
司羽の口から出る言葉の全てがミシュナの心に溶け込んでくる。暖かく、じわりと広がっていく。
「何だか、懐かしさの理由が分かった気がするよ。ミシュナの歌を聴いて、頭の何処かであの頃の事を思い出したのかも。あの子の歌……、好きだったからかな。」
そして、その言葉で……決壊した。
「……うっ、ひぐっ……ぅぇぅっ……。」
「ん、どうした……ってええ!? どうしたんだミシュ!! どうかしたのか!!」
「なんっ、でもな……いっ。」
「いやいやっ、何でもないならなんで泣いてんだよ!!」
突然泣き出してしまったミシュナに、司羽は懐かしさに浸る暇もないままあたふたとし始めた。……思い出した、その子も確か滅茶苦茶泣き虫だった記憶がある。
ミシュナに何処か痛いのかと聞けばそういう訳でもないらしく、体調が悪いわけでもないらしい。どうする事も出来ないまま、司羽はミシュナが落ち着くのを待つしかなかった。
「ぐすっ……ごめん、落ち着いた。」
「本当にびっくりしたぞ……なんともないんだな?」
「うん……、大丈夫。」
まだ正直心配なのだが、本人がそう言うなら大丈夫なのだろうと司羽は無理矢理納得した。ミシュナもまた、気術士だ。自分の体調の事は一番分かっているだろうし、自分の体調が悪いならそれを矯正することも出来るはずだ。
「司羽、その女の子って……?」
「昔、色々あってさ。ちょっと辛い別れ方をして、それから会ってない。」
「……そうなんだ。」
辛い別れ方。その言葉にミシュナは心当たりが有りすぎた。それは決してちょっとじゃないと今ここで言ってやりたい。
「エーラに来ちまったし、もう会うこともないだろうけど……でも、あれで良かったんだろうな。」
「……本当にそう思ってる?」
「ん? まあな、俺にはやる事もあったし……それに付き合わせることは出来なかった。身体も丈夫になっただろうし、幸せになってくれていれば良いんだけどな。」
「………そっか。」
自分のことを覚えてくれていた。幸せを願ってくれていた。その喜びに胸が震え、高鳴る。でもそれと同時に、ずっと秘め続けた心が叫ぶ。自分の幸せは、まだ掴めていない。十年間もの間、自分の幸せはこの世界の何処にも居なかったのだから。
「きっと、幸せになろうとしてるはずよ。諦めずに、何度でも……諦められるものじゃないもの。」
「………? ああ、そうだな、そうだといいな。」
ミシュナの言い回しに、司羽は若干の疑問を抱きながらも、笑顔で過去の少女の幸せを願った。その顔を見ていると、今すぐに言ってしまいたい衝動に駆られる。……しかし、焦らなくてもいいのだ。何故なら、今の自分にはたっぷりと時間があり、また機会もあるのだから。
「今日は、もう帰りましょう。真っ暗だもの。」
「ああ、そうだな。ルーン達も心配してるかも知れない。」
「そういうことよ。ほら、急いだ急いだ。」
ミシュナは自然に司羽の手を取った。心が燃え上がるような心地で、司羽と視線を交わし、微笑む。さて、勝負の時はいつにしようか。そんなことを考えながら。
平和を願う者達の為の『星読み祭』が、近付いていた。