第68話:永遠の蜃気楼
「おーい、朝ご飯出来たよー」
「っげ、今日の担当はスー子か……大丈夫なのか?」
「なにおー!? 文句言うなら食うな!!」
(むぅ……ここは……どこじゃ?)
騒がしい風景、沢山の人々、蒸し暑い空気の中、窓から差す強い日差しが肌に痛い。目を開けた瞬間に広がった景色は、トワの見た事のない景色だった。
(………主は何処じゃ……? ミシュナは……何処に……?)
見慣れない景色にふと不安になって、自分が頼れる二人の姿を辺りに探してしまう。だが、首を振って辺りを見回しても二人の姿はなく、ここが何処なのかも分からない。どうやって自分はこんな所に来たのだろう。どうして此処に居るのだろう。それすらも分からなかった。
(建物の中……とにかく、主達を探すのじゃ)
そう思って、いつの間にか座っていた椅子から立ち上がる。見回して分かったことと言えば、此処が何かの建物の中だと言う事だけだ。
「あっれー? ところで神楽は何処にいるの?」
「神楽か、確かあいつなら朝早く街に出かけたよ。なんでもコーヒー牛乳を切らしたとかで騒ぎまわってたな」
「わざわざ買いに行く程の事なのかねぇ、そんなに美味いかアレ?」
「おいミケ、それは神楽の前で言うなよ? 一時間くらいは語られるぞ」
沢山の話し声と笑い声、その中をトワは歩いて行く。椅子から立ち上がって思ったが、なんだか皆身長が高いような気がする。少なくともトワと同じくらいの身長の人は誰もいなかった。そしてその事実が、何故かトワを余計に不安にさせていった。
(早く……主を………ミシュナを……)
不安だった。迷子になった子供の様に、知らない場所を恐る恐る歩いた。行き交う人にすれ違いながら、自分に向けられる視線から逃げる様に少し早歩きになったりもした。そして、『調理場』という張り紙の貼られたドアに辿り着く。トワは殆んど無意識の内に、その少し高い位置にあるドアノブに手をかけた。
カチャ
「………あっ」
扉を開けて中を見た瞬間に声が出た。人目を惹く、少し高めで結われた長く綺麗な黒髪、トントントンッと刻まれる軽やかな包丁のリズム、トワはそれらを知っていた。優しさと安心感を与えてくれるその空気は、トワが最も信頼している人物の物だ。
「ミシュナっ!!」
「んっ……?」
トンッ、と包丁の音が止まる。大きな声を出したせいか、その場の声や音も時が止まったかのように一斉に静かになった。そして周りからの視線が一斉にトワに向けられる中、ミシュナはそっとトワの方を振り返り……。
「……み、しゅな……?」
「……みしゅな? って、もしかして私の事?」
振り返った彼女は、ミシュナであってミシュナではなかった。雰囲気や容姿はミシュナそっくりだが、身長や体付きも、よく見れば全然違う。良く似ている、だが自分の知っているミシュナよりも、その女性はずっと成熟した大人であった。
(………ミシュナじゃない)
そう気付いたトワが心の中で落胆しつつも、訂正しようとその女性を見ると、彼女は何故かとても不機嫌そうだった。
「ううっ……私の名前、ちゃんと覚えてくれたと思ってたのに……」
「あ……えっと……」
「私はミシュナじゃなくてシュナよ? ほら言ってみて、シュ・ナ!!」
「シュナ……?」
シュナ? なんだか良くわからないが彼女はシュナと言うらしい。それに何故か自分の事を知っているようだ。もしかして、ミシュナの関係者だろうか? 確かにミシュナにそっくりな姿をしているし……それに、雰囲気も……。
「よろしい。……ほら、こんな所に居ないで行きなさい。そろそろ帰ってくる頃よ?」
「……帰って……?」
「ええ、出迎えてあげたら? きっと喜ぶわ」
「………うん……」
帰ってくる。誰が? 何処に? そんな事も分からなかったが、条件反射の様に自然な動作でトワは頷いてから、そのまま身を翻して部屋を後にした。司羽とミシュナを探さなくてはいけないのに、今はどうしても行かなければならなかった。そんな気がした。
(早く行かないと……早く……)
見知らぬ建物の中だと言うのに、足が勝手に動き出す。こっちが玄関だと何かが言っている。歩いていたのがいつの間にか小走りになり、迷いなく外に続く扉を見つけ出す。自分の肩よりも高い位置にあるドアノブ、それを手で掴んで、捻る。
ガチャ……キィ
「………暑い……」
外は凄い熱気だった。砂漠のような大地が拡がり、何処までも続いている。そして、その真ん中、トワの視線の先には、何か袋のような物を抱えた一つの人影があった。一歩ずつ近付いてくるその姿を見ると、何故だか、とても胸が苦しかった。
「あっ……」
少しでも早くお帰りを言う為に、自分からも一歩、また一歩と夢遊病のような足取りで近づく。そして、目の前で立ち止まったその人の顔を見上げて、お帰りとただ一言だけ……。
「お、おかえ………り……」
しかしその声は届かず、人影は消え去っていた。茫然と立ち尽くし、首を振って辺りを見渡してもその人影は無く、荒野が広がっているだけ。
「……なんで……なん、で……」
何故、人影が消えてしまったのか。何故、こんなに胸が苦しいのか。何故、自分はこんなに悲しいのか。何故、何故………何も、分からない。
「……いつか……きっと……」
「っ………」
ふわり、と。穏やかで、優しい温度がトワを包み込んだ。それが誰かが抱き締めて居てくれているからなのだと気付いた時には、トワはゆっくりと瞳を閉じて、その人物に縋り付いていた。じっと、委ねるように……全てを忘れさせてくれる、そんな優しい温もりに……。
「……み……しゅな……」
-----
-------
---------
「トワっ、トワっ!!」
「んっ……み、しゅな………?」
「トワ、大丈夫っ? 何処か痛いの!?」
「……痛、い……? 此処は……」
何かに包まれるような暖かさの中で眼蓋を開けると、目の前には心配そうな顔で体を揺さぶるミシュナの姿があった。辺りを見ても荒野はなく、立っていた筈の自分はベットで横になっている。
「……あれ……なんで……」
「トワ……どうしたの?」
「えっと……」
心配してくれているミシュナに問われて、トワは咄嗟に言葉に詰まってしまった。自分は今までミシュナと司羽を探していたはずだ。ここじゃない何処か暑い砂漠の様な場所だった。でも今自分は部屋のベッドで眠っていた。何故そんな事になっているのか、トワには分からなかった。
「う、む……よく、分からぬ……。童は……ミシュナと主を探していて……何処か、分からない場所に居たのじゃ」
「えっ、私を? それに何処か分からない場所って……」
トワは聞き返されて取り敢えず分かる限りの事を話したものの、それが余計にミシュナを混乱させてしまったかも知れなかった。だがそれ以外に伝えようがない、トワ自身もまだ混乱しているのだ。しかしそれを聞いたミシュナの方は、段々と状況が整理出来てきている様だった。
「……そう、怖い夢を見ていたのね」
「……夢……?」
「ええ、かなりうなされていたから怖い夢だったんでしょう……? ほら、凄い汗よ」
そう言われて自分の寝巻きを触ってみると、確かに凄い汗の量だった。ミシュナのあんなに心配そうな顔を見るのは初めてだし、余程うなされていたのだろう。
「あれが……夢……初めて見たのじゃ」
「そうなの……? でも、トワは夢魔だものね。寧ろ夢なんて普通は見ないのかしら……」
「……童は初めてじゃ……じゃが不思議な感じじゃ。童が夢を……」
トワが夢魔として誰かの夢を覗き見る事は今までにもあった。しかし、今回の様に自分で夢を見るなんて初めてのことだ。自分は夢を見ない、それは司羽の使い魔として魂契約する前からのトワの常識でもある。もしかしたら、最近夢の世界から長く離れていることによって何かしらの影響が出ているのかも知れないが。
「あんまり気にすることないわよ。体調がおかしい訳じゃないんでしょ?」
「うむ、それは大丈夫じゃ。それに、別に怖い夢と言う訳でも……なかったのじゃ」
「……そうなの?」
こくり、と頷いてからトワは上半身をベッドから起こした。
「独りぼっちで不安だったのじゃが……別に怖くはなかったのじゃ。あ、大人のミシュナみたいな人にも会えたのじゃ」
「えっ? お、大人の私みたいな人? 今の私じゃなくて?」
「そうじゃ、えっと、背が高くて、胸が大きくて………むっ、どうしたのじゃ?」
「……ああ、うん、なんでもないわ……」
トワが夢で会った人のことを思い出しつつミシュナの方に顔を向けると、ミシュナはなんだか渇いた笑みを浮かべて、その笑みを引きつらせている様だった。ミシュナもトワに悪気はないと分かっているのだが、胸にグサグサと何かが付き立つような感覚を覚えてしまう。相手が大人の自分だと言われて比較されると、直接今の自分のスタイルが幼児体型だと言われている気がしてしまって………トワに悪気がないのは分かっている、分かっているのだが……。
「その人、そんなにスタイル良いのに……私に似てたの?」
「むー……雰囲気と顔立ちはそっくりだったのじゃ。後ろ姿もそっくりで……名前もシュナって言ってそっくりだったのじゃ」
「……はっ? しゅ、しゅな?」
「うむ、ミシュナじゃと思って声をかけたら、名前が違うって怒られたのじゃ」
「そ、そう……」
トワは夢の中で出会ったシュナの風貌を思い出しては、ミシュナと比べていた。でもやっぱり外見や雰囲気は似ていても、何処か違うのだ。ミシュナには、ミシュナにしかない魅力があるような気がすると、トワは感じていた。
「………何か……したんじゃないでしょうね……」
「……む? どうかしたかの?」
「え? ああ、うん、なんでもないわ。でもそれ、司羽には言わない方がいいわね。余計な心配かけてもいけないし、一応私が調べておくから」
「……? 分かったのじゃ」
ミシュナはなにやら一瞬険しい顔をした様だったが、トワはそれを深く追求しなかった。ミシュナの言う事ならば、取り敢えず従っておいたほうがいいはずだ。トワがそう考えるくらいミシュナは信頼出来る人物だ。
「……さて、ちょっと早起きしちゃったし朝御飯の支度でもしましょうか? 昨日の様子だと、侍従さんは調子が出てないかも知れないし」
「うむ、了解したのじゃ!!」
「ふふっ、じゃあ着替えましょうか。汗で気持ち悪いでしょ?」
そう言ったミシュナは、まずトワの下着と着替えを棚とクローゼットから出してくれる。そんなミシュナの姿に、不思議と先程みたシュナの姿が重なって見えて……トワは自然と安らぎの様な物を感じていた。もしかしたら母親というのは、こういう感じなのかも知れないと想像出来た。
「………むぅっ」
「あら、どうかした?」
「このブラジャー……む、むねがちょっとキツいのじゃ」
「えっ、また!? この前変えたばかりじゃない………ズルい」
「そ、そんなこと言われても……困るのじゃ」
でもまだ、ミシュナは母親というよりは姉と言った方がしっくりくるかも知れないな、とトワは心の中で一人納得したのだった。




