第60話:一歩目への手引き
「おう、風呂上がったぞ。」
「分かったわ。トワ、行くわよ。」
「むう、ミシュナは先に行っていてくれ。今良いところなのじゃ。」
トワはそう言うと、目の前に広がった将棋の盤面を睨みつけた。対面では、悩むトワとは対照的にユーリアが余裕たっぷりに微笑んでいる。髪をタオルで拭きながら司羽が盤面を覗き込むと、成程、確かに良いところみたいだ。少し前に将棋の話をしたら、やってみたいとトワが言うので皆に教えてあげたのだが、最近は暇さえあればユーリアと一局打つのが日課になっている様だ。かなりハマリ込んでいる様で、二人共もう大分上達してきている。お手製の将棋セットを作ってしまう程だ。
「ふふっ、遠慮せずにお風呂でゆっくり次の手を考えても良いんですよー?」
「ぐむむぅ…………あ、王手、飛車取りじゃ。」
「えっ………? あ、ま、待った、待ったです!!」
「ふふんっ、駄目じゃ。待ったは無しなのじゃ。」
「うっ………し、仕方ありませんね。少し、時間を貰いましょう。」
どうやらトワがユーリアも気付いていない穴を見つけた様だ。先程までの余裕が一転、今度はユーリアが難しい顔をして盤面と睨めっこを始める。反面トワは得意気に胸を張ってニヤニヤと機嫌が良さそうに表情を緩めた。そんな二人を見て、ミシュナは溜息をつきながら苦笑した。
「………はあ、将棋も良いけど、二人共早めにお風呂に入りなさいよ?」
「うむ、分かったのじゃ。」
「はい、トワさんとの決着がつき次第、お湯を頂きますね。」
「そう、それじゃあ、私はお先に頂くわね。」
ミシュナはそう言うと、将棋に熱中する二人を置いて、一人着替えを持ってお風呂場の方へ歩いて行った。そんなミシュナの姿が見えなくなって、深々と溜息をつく者がその場に一人……。
「ふぅっ……。」
「司羽様、まだ仲直りしてないんですか?」
「あー、い、いや、口は聞いて貰えるようになったんだけど……未だに顔を逸らされるんだよなあ……はあっ……。」
「むう、ミシュナももう怒っておらんと思うのじゃがのお。主からのプレゼントも結構喜んでいた様子じゃったし………あ、あの主が焼いたクッキーは美味しかったのじゃ。」
「ああ、ありがとよ。まあ偶にはああいう慣れない事するのも良いかもな。……もう少し上手くなれば、許してもらえるんだろうか。」
司羽の肩を落としながらのそんな切実な呟きに、トワとユーリアは顔を見合わせて苦笑した。今回はそういう問題でもないのだろうが、自分達の主のこういう不器用さは彼女達には魅力の一つでもあった。
「本当に司羽様は女心が分かってませんねー。」
「じゃが、主はそれで良いのじゃ。ルーンにしても、そういう主が好きなのであろうし。……いや、寧ろルーンの場合は主であればなんでもいいのか……。」
「おい……随分言いたい放題言ってくれるな。」
「ふふっ、良いじゃないですか褒めてるんですから。」
「嘘つけ、トワはともかくユーリアの場合は完全に貶してただろうが。」
「えー、司羽様酷いですよー。」
司羽は嘯くユーリアをジト目で睨みつつ溜息を吐き出した。実際女心とやらが理解出来ていればここまで拗れなかったのだろうが、そんなものを女性と付き合い始めたばかりの司羽に理解しろというのは無茶な話だ。ただでさえエーラに来るまでは女っ気が少なかったのだから。
「とにかく司羽様は鈍すぎですよ。トワさんの言う通りミシュナさんはもう怒ってないと思います。余所余所しいのは別に怒ってのことじゃないと思いますよ? ミシュナさんは一つのことを何時までも怒っている様な方じゃありませんから。」
「妾もユーリアと同意見じゃ、ミシュナは怒る時は怒るがネチネチと怒ったりはせんぞ。確かにミシュナは主に厳しい時もあるが……。」
「………じゃあ、今の態度は何が理由なんだよ。俺も他には思い当たる節なんてないぞ?」
まあ司羽もトワとユーリアの意見には概ね同意だった。ミシュナは陰気な性格ではないし、他人を気遣える優しい女性である事は司羽も理解している。とはいえ、それが理由でないなら他にミシュナに避けられるような覚えはない。そんな司羽の心情を読み取ったのか、ユーリアは軽く溜息をついて指を立てた。
「そんなの決まってるじゃないですか。照れ隠しですよ、照れ隠し。」
「て、照れ隠しぃっ? ミシュがか?」
「そりゃあそうでしょう、旦那でも恋人でもない男性に裸を見られれば、女性であれば恥ずかしがって当然です。仮にそういう関係にあっても恥ずかしいものは恥ずかしいですしね。私の見立てですと、最初からミシュナさんは怒ってなんていないと思いますよ。ただ恥ずかしかっただけだと思います。嫌悪感を抱いてる様には見えませんでしたし。」
「む、むぅ……そうなのか。いや、理解は出来るんだけど、なんかミシュがって思うと実感沸かないな。全く警戒されてないし、男として見られてないと思ってたんだけど。」
「男として見られてないって……そんな訳ないじゃないですか。警戒されてないんじゃなくて、それだけミシュナさんに信頼されてるんですよ、司羽様は。」
確かに言われてみればそんな気もする。ミシュナは怒っている時程に人の眼を見て話すし、沢山文句も言うが決して司羽を避けたりはしなかった。だとすれば、今回のことはユーリアの言う通り……。
「ん……? でもトワは平気だったじゃんか。」
「そ、それはその……。」
「あー……そういえばトワさんの裸も見たんですよね。というか司羽様? その発言はかなーり最低ですよ?」
「あうっ……。」
ユーリアがそう言って司羽をジト目で睨むと同時に、対面に座っていたトワは真っ赤になって俯いてしまった。……成程、確かに今の言葉は大いに失言だった。トワも女の子なのだ、司羽との関係上我慢している部分もあったのかも知れない。
「………ああ、そうだな、悪かった。トワにもちゃんと謝らないといけなかったな。」
「い、いや、気にしないで良いのじゃ。妾も相手が主であるなら……その、嫌ではないし、いつか、そういう風になるって……か、覚悟もしておる!!」
「………ん?」
あれ、なんか反応がおかしくないか? って言うか覚悟って……え、そういう覚悟って事ですか? なんでそんな話になってるんだ?
「トワ、その……なんでそんな話に?」
「この前メールが言っておったのじゃ。ルーンもいつでも主の相手をする訳にはいかないじゃろうし、その時の為に……女として覚悟と知識は準備しておくべきじゃと……。」
「………あのアマ……。」
くそっ、最近妙にトワと仲が良いと思ったらそんな事を吹き込んでやがったのか。……さて、次の訓練では特別扱いしてやらなければならない様だな。
「ま、まあまあ司羽様。メールさんも悪気があって言ったわけではありませんし……。」
「……どうだかな、あいつは俺の事をなんだと思ってるんだ。トワもあいつの言う事なんか気にする必要はないからな。」
「ふ、ふむ……そうなのか?」
「そうなんだ。取り敢えず、この話はミシュには絶対にするなよ? 俺が一生冷ややかな目で見られることになるからな……。」
ミシュナは自分から振るならばともかく、こういう話を他人から振られる事にあまり耐性がない。トワの事は特に妹の様に可愛がっている節があるし、これ以上確執が広がれば、信用回復には多大な時間を要するだろう。
「ふふっ、司羽様はヘタレですね。私としては、ルーン様が許すのなら別に構わないと思うのですが、寧ろ男性でしたら喜びこそすれ拒否する理由はないのでは? ここは共和国や司羽様の居た場所ではないのですから。」
「そりゃあこっちの文化的にはそうかも知れないけどな、態々それに合わせて生きる必要もないだろう。それにトワはまだこっちの世界に来て間もないんだぞ? ミシュも良く言ってるけど、トワはちゃんとした知識を持つべきなんだよ。型にハマった生き方をする必要もない。」
「それはまあ……、道理ですね。なんだか使い魔に対する意見と言うよりは、娘に対するお父さんの言葉って感じですけど。」
「……ほっとけ。」
使い魔だなんだと言われても、トワはもう司羽に取っては家族同然なのだ。元より使い魔として何かをさせるつもりもなかったし、ミシュナに感化された部分も多くあるのかも知れないが、なんだか娘の様に思えてしまう部分も確かにある。
「ユーリアだってそうだぞ、あんまり頭を固くする必要もないんだ。」
「ふふっ、それは承知していますよ。今だって大分自由にさせて頂いていますし……とは言っても、司羽様の侍従として家事は分けてあげませんけどね。これはルーン様からの御命令でもありますので。」
「………はぁっ、なんか何もしないってのも落ち着かないんだよな。」
司羽の意図を察して先回りしたユーリアの微笑を受け止めながら、司羽は今の目下の悩みである最近手持ち無沙汰になる事について愚痴りながら、一息溜息をついた。お父さんの立場と言うのならば、これもそうなのかも知れない。皆が仕事をしているとハッキリ言って居場所がないのだ。
「仕方がないのじゃ、それが主の役目なのじゃから。」
「そういう事です。」
「何もしないのが役目……ねえ。魔材を探して売り払うのもいいけど、学園のない日くらい働きに出ちゃおうかなー。」
「ふふっ、その場合はちゃんと女の子の就業者も見ておいたほうがいいですよ、ルーン様が妬いちゃわないように。もし就業禁止令が出たら終わりですから。」
「………そ、それもそうだな……慎重を要するかも知れない。」
ユーリアの冗談めかした発言を本気で考慮して考える司羽に、トワもユーリアも思わず苦笑してしまった。そのままブツブツと何やら呟きながらリビングを後にして自室へと帰っていく司羽を見送り、二人は顔を見合わせた。
「主は真面目じゃの。妾だって、主が主でないのなら必要もない覚悟などせんと言うのに。……少し、鈍すぎるのじゃ。」
「まあまあ、司羽様はトワさんの心を大事になさっているのですよ。」
「それは妾も承知しておる。」
将棋の盤面に視線を落としながら言ったトワの顔は少し赤く染まっていた。嬉しそうに表情を緩めたまま、トワは手の中で将棋の駒を弄ぶ。そんなトワの様子にユーリアは思わず微笑んでしまった。
「不満なんですか?」
「むうっ……わ、妾は良い、どうあっても主の傍に居られるのじゃ。妾は主の使い魔なのじゃからな。」
赤い顔のまま若干視線を逸らしながらそう言ったトワの表情と言葉からは、不満と言うよりも何かを心配している様な雰囲気を感じた。そしてそれは、ユーリアにも心当たりのあるものだった。
「……ああ、なるほど、そういう事ですか。」
「……やはり、気付くか?」
「まあ今回のアレで気付きますよね、普通は。結構分かり易い反応してますし。」
二人はそう言って顔を見合わせると、二人揃って浴場の方へ視線を向けた。
「ルーンはどう思うか分からぬが、妾としてはあまり真面目な主で居て欲しくはないのじゃ。」
「真面目と言うよりもただ不器用な部分もあると思いますけどね、主に人間関係においては。……いつからです?」
「妾は夢喰いじゃ、元より人の感情の機微には聡い。確信したのは最近じゃがの。」
「……そうですか。」
これからどうなるにしろ、それは二人が口を出せる問題ではなくなる。トワもユーリアもそれは理解していた。何よりも当人がそれを望まないだろう。
「司羽様ももうちょっと女性に慣れるべきでしょうね。耐性を付ける意味でも、ルーン様の為にもなりますし。」
「うむ、妾もそれは思っておる。主は女心に疎すぎる。どうなるにせよ、このままというのは妾も苦しいのじゃ。」
ユーリアの溜息混じりの言葉に続いたのは、珍しいトワの司羽への非難だった。トワもユーリアも気付いてしまったからには、見て見ぬ振りはしても心苦しい部分はある。それが身近な人の話であるのだから尚の事だ。
「ルーン様は……やはり、気付いておられるのでしょうか。」
「うーむ、それは……どうかのお……。」
―――――
―――――――
―――――――――
ガララッ
「はぁっ……やっぱり顔を合わせられなかった……。」
長い黒髪を纏めて脱衣を済ませると、湯煙に巻かれながらミシュナは溜息をついた。トワが将棋に夢中になって一人になれたのは、もしかしたら良かったのかもしれない。こんな弱気な自分をトワに悟られるのはちょっと恥ずかしい。……あの子の前では頼れるお姉さんで居たいと思うのに、本当に情けないことだ。
「トワ程とは言わないから、あの子くらいあれば少しは自信も持てたのかなー……。」
「あの子くらいって、何の話?」
「そりゃあ胸の話………えっ?」
自分に質問する予想外の声に、ミシュナは思わず素っ頓狂な声が出た。そして一瞬の硬直の後に自分の胸に当てていた両手を反射的に体を隠す為に動かし、その声の方に顔を上げる。その先には、広い湯船に浸かってリラックスしたままこちらを見るルーンの姿があった。
「あ、貴女……なんでここに……。」
「なんでって、お風呂に入ってたから?」
「つ、司羽と一緒に上がったんじゃ……。」
「うーん、今日はちょっと長湯の気分だったからね。司羽とイチャイチャするのは上がってからでも出来るし。司羽ったらこの前の影響でお風呂でそういう気になれないみたいだから。」
ルーンは茫然とするミシュナの前でそう言ってクスクスと笑った。どうやら司羽との事で頭がいっぱいで、脱衣所にあるルーンの衣服に気がつかなかったらしい。まあ、これだけ広い風呂で女二人一緒になった所で、特に気にする事でもないはずなのだが。
「……そ、それは悪かったわね。」
「んーん? 私は別に気にしてないよ。元々司羽の背中を流してあげたいってのが一番の理由だし。ああいう事故が今まで起きてなかったのが不思議なくらいだしね。」
「そ、そう。そう言ってくれて良かったわ。」
とにかく、心を落ち着けよう。また司羽と鉢合わせた訳でもないのだし、ルーンが居たからなんだと言うのか。今の発言を聞かれてしまったのは正直恥ずかしいが、時間は巻き戻せないのだし、なんでもないフリをして髪を洗っていればその内ルーンも出て行くはずだ。
ミシュナは自分をそう納得させると、ルーンに背を向けて座りシャワーを手に取った。そしてそこに来てミシュナは、よくよく考えれば髪を洗う前に髪を纏める必要はなかったと思い至った。ルーンの衣服の事もあるし、どうやら随分周りが見えなくなっていた様だ。
「もう、しっかりしなきゃね………ひゃっ!?」
「うーん、気にする程じゃないと思うけどなあ。私達くらいなら普通だよ、普通。」
ムニムニッ
今日何度目かの溜息と同時、突如後ろから伸びてきた手に胸を触れられ、ミシュナは声をあげて飛び上がった。咄嗟に首だけ振り返えると、先程まで湯船に浸かっていたはずのルーンが後ろからミシュナを抱き竦める様な格好で手を伸ばしていた。
「やっ……ちょっ……っ……や、やめなさいっ!!」
「えっ? ああ、ごめんね。」
「ごっ、ごめんじゃないわよっ!? 一体何をするのよっ!?」
ミシュナはルーンの攻撃から逃げる為にその場で立ち上がると、涙目になりながらルーンに振り返って叫んだ。しかし素の表情のまま謝ったルーンは全く反省した様子もない。
「ミシュナちゃん、やっぱり気にする必要ないよ? 私もついこの前まではそのくらいだったし。ペッタンコじゃなくてちゃんとあるじゃない。」
「うぐっ……そ、それは……でも、周りと比べると……。」
「それはまあ、学園の周りの女の子は皆年上だもん。トワちゃんは……年上なのか下なのか分からないけど、特別じゃないかな。」
「……それは……そうかも知れないけど………って、そうじゃなくてっ!!」
真面目な顔になったルーンに諭され、いつの間にか論点をずらされてしまった事に気付くと、ミシュナは自分の体を手で隠し、真っ赤な顔のままルーンを睨みつけた。
「な、何のつもりよ。」
「ミシュナちゃんの背中を流してあげたいなーって思って。あ、先に髪の毛洗おっか。」
「結構よ。子供じゃあるまいし、自分で出来るわ。」
「そう言わずに、ねっ? 一緒に暮らしてる家族みたいなものじゃない。ほらほら、遠慮しないで。」
ルーンはそう言うと、ミシュナが先程した様にシャワーを手に取ってミシュナが座るのを促した。しかしミシュナはそんなルーンを警戒したまま動かない。一体今度は何を企んでいるのかと疑っているのが、その視線に如実に現れていた。
「ほら、早く。女同士なんだし、恥ずかしがる事ないでしょ?」
「……貴女だって、タオル巻いてるじゃない。」
「えっ? ああ、そういえばそうだね……うーん……。」
自分が巻いているタオルをミシュナに指摘されてルーンは少し悩んだが、やがて、そのタオルを取って横に置いた。
「本当は司羽以外に見せる趣味はないんだけど、まあミシュナちゃんならいいかな。確かに裸の付き合いにタオルは不要って言うし。ほらほら、早く座って。」
「………はぁっ、分かったわよ。私の負けね。」
諦める様子のないルーンに対しミシュナは溜息をつくと、自ら負けを認めてルーンの前に座った。ルーンはそんなミシュナの纏められた黒髪を解き、シャワーの温度を確かめながら一撫でする。
「本当に、綺麗な髪だね。」
「……あら、ありがと。でも貴女の髪だって綺麗だと思うわ。」
「ふふっ、そりゃあ女の命だもの。司羽にも優しく扱うように言ってるんだから。」
「それじゃあ、私の命を預けるんだから、ちゃんと頼むわよ?」
「任せなさいっ!!」
ミシュナが肩越しに振り返り冗談めかしてそう言うと、ルーンはウィンクをして即答した。そんなやり取りがなんだかおかしくて、二人は顔を見合わせたままクスリと笑い合ったのだった。
――――――
――――――――
――――――――――
「ふーっ、なんだか、久しぶりにリラックス出来てる気がするわ。」
「あははっ、なら良かった。最近のミシュナちゃん、ちょっと緊張しっぱなしだったもんね。」
「……あら、心配かけちゃったかしら。」
「うーん、心配って程でもないけどね。」
ミシュナの髪と体を洗い終え、再び髪を纏め直すと、二人は揃って湯船に浸かっていた。それから暫くの静寂が訪れ、ゆったりとした時間が流れる。
「…………。」
「……そういえば、初めてだよね。こうして二人でお風呂に入るのって。」
「……そうだったわね。随分長い間一緒に住んでるのに。」
「うん……なんだか不思議な感じ。」
ルーンと司羽とミシュナ、三人が一緒に暮らし始めてからもう半年以上が経過している。一緒に料理をしたり、買い物に行ったりする事は今までに何度もあったが、こうして同じ時間に湯船に浸かり話をする事は今までに一度もなかった。
「思い返せば懐かしいなー。私一人のこの家に司羽を呼んで、その司羽がミシュナちゃんを連れてきて、いつの間にか一緒に暮らすようになってた。」
「あはは……今思えば私、凄く非常識な事してるわよね。マスターの所で潰れた私を何度も司羽がこの屋敷に連れ帰ってくれて……暮らしやすくていつの間にか居着いちゃったわ。」
「でもそれから少し経ってトワちゃんが来てから、私と司羽が愛し合ってるのにトワちゃんがいると危ないからって、トワちゃんを預かってくれたのは正直凄く助かっちゃった。あの時の私は司羽の心を独占したくて仕方なかったから。」
「まあ、そのくらいは……ね。」
三人が一緒に暮らすようになってから、時間にすれば大した時間が経ったわけでもないのに、この半年間はとにかく濃密で、凄く昔の事の様に思えた。今思えば、トワが来た時はまだルーンと司羽は恋人関係にすらなっていなかったのだ。
「司羽としたあの隠れんぼが終わってからもずっと、私は司羽に傍に居て欲しくて必死になってた。そんな時にトワちゃんが来て、いよいよパニックになっちゃって……司羽とは恋人同士になれたけど、なんだか歪な関係だった様に思えるよ。いつも不安で仕方なかったもん、司羽が少し何処かに離れてるだけでおかしくなりそうだった。あのユーリアさんが来る前にあった入れ替え試験の時も、ミシュナちゃんには本当に迷惑を掛けちゃったよね。」
「……そういえば、そんな事もあったわね。あの程度迷惑だとは思わなかったけど、貴女が暴走し掛けた時は正直肝が冷えたわ。」
「ふふっ、私が司羽を待ってる間もミシュナちゃんがずっと気にかけてくれてたのにね。あの時の私は司羽以外がどうでも良くて、ミシュナちゃんのかけてくれた言葉も全然聞こえなかったんだよ。何か言っているのは分かるのに、頭の中がグチャグチャになって全然頭に入ってこないの。今でも思い出せないよ。」
確かにミシュナの記憶にあるルーンもそんな感じだったと思う。ずっと司羽のいる試験場の扉を見つめたまま動かず、ミシュナが寄り添っていた。何か言っても反応しなかった事もあり、心配で傍を離れられなかったくらいだ。
「それからユーリアさんが司羽の侍従として来て、屋敷に受け入れる事になって、そんな時も私を一番に心配してくれたのがミシュナちゃんだった。司羽の言葉は受け入れる事が当たり前みたいな考え方をしてた私にブレーキをかけようとしてくれた。リアの時もそう、呼び出された司羽に詰め寄って、深く聞けない私の代わりに私の事を案じてくれて……。」
「……そんな事は気にしないで良いのよ。私が気になっただけなんだから。」
あの時は随分と司羽と揉めた事を覚えている。今思い返せば、あれはただルーンの為に言った事ではないのかも知れない。自分でないのなら、司羽の相手としてルーンしか認めたくなかった事や、司羽が自分の知らない所で何かに巻き込まれる事がただ怖かった事が理由といえばその通りなのだから。
「気にするよ。あの時ミシュナちゃんが私と司羽にあのホテルでのデートを提案してくれなかったら私、司羽に愛されるだけの人形になってた。自分の意思では何も言えず、意見を求められれば司羽の望む答えを応えるだけの人形に……だから、本当に感謝してる。あの時司羽に本当の気持ちを言えたから、私は司羽の本当の恋人になれたの。」
「……そう、そう言って貰えるのなら私も提案したかいがあったわ。でもね、私が言わなくても貴女と司羽ならきっと上手く行ったわ。貴女の気持ちを司羽に言えたのは貴女の力、私があげたのはただのきっかけなんだもの。自分にもっと自信を持ちなさいよ。」
ミシュナが言ったのは本心だった。自分が提案せずともデートはいずれしただろう。ルーンが寂しがっている事も、あの時は司羽も忙しかったから気付けなかっただけで、落ち着いてからなら司羽だって気付いたはずだ。破局に繋がるような状況ではなかったし、自分がしたのは、ほんの僅かな手伝いでしかない。ルーンの今は、ルーンが勝ち取ったものだ。
「そんな事ないよ。私が言えたのはミシュナちゃんのお陰、ミシュナちゃん以外の誰かに言われてても、司羽が誘ってくれてても、私は言えなかったと思う。多分、だけどね。」
「もう、いくらなんでもそれは煽て過ぎよ。」
「うーん、本当にそんな事ないんだよ? だってあの時、何よりもミシュナちゃんの言葉が私を安心させてくれたから私は言えたの。私にとって一番不安で、一番怖かったミシュナちゃんが後押ししてくれたから。」
感謝していると言いつつ、一番不安で怖かったなどと言われても微妙な感じだ。だが何か怖がられるような事をしただろうか? ルーンとはそれなりに良好な関係を築いて来たと自負しているのだが……。
「御免なさい、私、何か怖がられる事したかしら?」
「うん、それはもう。毎日毎日怖くて怖くて、お陰で司羽が隣に居ないと眠れなくなっちゃったくらいだよ。トワちゃんよりも、ユーリアさんよりも、リアよりも誰よりも怖かった。私と一緒の時は見せない表情を司羽がする度に思ってたよ。ミシュナちゃんに……いつか取られるって。」
「……………。」
「私が司羽に甘える度にする、呆れ顔に隠れた寂しそうな表情。司羽と二人っきりでいる時の、いつもより遠慮のない笑顔。ミシュナちゃんが私の寂しさと不安に気付いたみたいに、私も気付いてたんだよ。だからあの時、司羽とのデートの為にホテルの招待券をくれた時に、ミシュナちゃんに言われた気がしたんだ……『貴女に任せるわ』ってね。」
そう言ってルーンは微笑んだ。ミシュナの方を真っ直ぐに見たまま、視線を僅かも逸らすことなく。そんなルーンの言葉にどう返して良いのか、ただその視線に応えて顔を向ける事すら出来ずに、ミシュナは押し黙った。そして長いようで短い沈黙の後、なんとかミシュナは一言だけ紡ぐことが出来た。
「……そんなの、貴女の勘違いよ。」
「司羽の事、好きなんでしょ?」
「す、好きじゃ……。」
「それ、私の顔見ながら言える?」
「あ……ぅ……っ。」
核心を突かれ、咄嗟に否定しようとした言葉もルーンの言葉に遮られた。ルーンの言葉は決して荒々しくはなかった。淡々と、だが優しく諭すような口調だった。そんなルーンの言葉に何か言い返そうとして、何も言えずに言葉に詰まってしまう。そんなミシュナを責める事もなく、ルーンはクスクスと笑いながらも、優し気な表情でミシュナを見ていた。
「ふふっ、ほーら思った通り。やっぱり、一緒だったんだね。」
「この事……司羽には……。」
「んっ? ああ、言ってないよ。私からは言うつもりないし、司羽も気付いてないみたい。」
「……そう、ならいいわ。」
ミシュナはそう応えながら、目の前が真っ暗になりそうだった。司羽を除けば、一番知られてはいけない人に知られてしまった。いや、もう随分前から勘付いていた様だが、確信を持たれてしまったと言うべきか。そして、自分以外の女が自分の恋人を好いていて、その上一緒に住んでいるなんてあまり良い気持ちはしないだろう。普通なら、直ぐに追い出されてもおかしくない。
「ねえ、聞いてもいいかな?」
「……何?」
「いつから好きなの? 私ミシュナちゃんの事は良く知ってるとは言えないけど、出会って間もない人の事、追いかけちゃうくらい好きになるような人だとは思えないんだよね。しかも、誰かの恋人になってからも尾を引いちゃうなんて、ね。」
ルーンの問いに、ミシュナは一瞬答えていいものか迷って……もう、隠すことになんの意味もない事に気付いた。
「好きになったのは……今から、十年くらい前からかしら。」
「十年前………そっか、なんか、色々と納得しちゃった。たまに私達の知らない言葉を司羽が言っても、ミシュナちゃんだけは分かってたから不思議だったの。」
「……信じるの?」
「信じない理由がないもん。」
ルーンという少女は、ミシュナが言っている意味が分からない様な人間ではない。ミシュナが言っているのは十年前、ミシュナが司羽と会っていると言う事。それはミシュナもまた、こちらで生まれた人間ではないと言う事だ。
「ミシュナちゃんの使える気術っていうのも、やっぱりこっちの世界にはないものだもんね。」
「……気術は司羽に教えてもらったのよ。体の弱かった私も、気術が使えるようになればハンデがなくなるから。」
「そっか……ちょっと、羨ましいな。」
そう言ったルーンの口調もまた、優しかった。一体今のルーンはどんな気持ちなのだろう、司羽の事に興味のないフリをして今までずっと騙していたのだ。司羽から女性を遠ざけようとしたのもルーンの為だけじゃない、半分は自分の為である。この不安と恐怖は、ルーンが以前自分に感じていたものなのだろうか。
「……………。」
「でも、うん、そっか。やっぱり、ミシュナちゃんは司羽の事が好きだったんだね。」
「……ごめん……なさい。」
「え?」
「ごめんなさいっ!! 私、ずっと貴女を騙して……貴女を気遣ったのだって、全部自分の為なの。貴女が司羽を独占していれば、司羽は此処に居てくれる。そうすれば、私も傍に居られるって思って……。」
「……………。」
「私……もう、諦めるから……だから……許……して……っ。」
今、分かった。こんな風に大切な人が奪われる恐怖、ルーンは今までずっとそれに耐え続けてきたのだ。そして、それを与えていたのは自分だ。いつも二人の傍でルーンと司羽を支えるフリをしながら、一番ルーンに苦痛と恐怖を与えていたのは、他の誰でもない自分なのだ。
……ルーンはその恐怖に打ち勝った。そんな彼女に、全く、勝てる気がしない。元より、勝負にならない。
「……嘘つき。」
「っ……ご、ごめ……ん……なさい……もう、諦めるから……。」
「諦めるから、司羽の傍に居させて欲しいって、そう言うの?」
「……それは……。」
否定しなければならない。そんな事は許されない。これは今までルーンを騙してきた事の報いだ。……でも、違うと、一言否定を口にする事が出来ない。
「やっぱり、嘘つきだね。」
「……もう……好きだって、思わないから……。」
「……ミシュナちゃん。」
ルーンの声が直ぐ傍で聞こえたその時、ミシュナの頬にルーンの手が掛かり、無理矢理ルーンとミシュナの顔を向かい合わされた。ルーンの両手がミシュナの頬を包み、真っ直ぐな視線を向けながら、先程と変わらない様子で微笑んでいた。
「もうそんな嘘はいいよ。」
「そんな、私……もう、嘘なんて……。」
「ううん嘘。ミシュナちゃんは諦めたり出来ないもん……私と同じだよ。どんなに怖くても、非難されても、一緒に居たいって思っちゃう貴女は絶対に諦められない。何度も何度も諦めようって思っても、諦められずにいるはずだよ。今みたいに泣いてでも、私に縋ってでも、貴女は絶対に司羽から離れたり出来ない。」
「……………。」
全部、見抜かれている。今までに何度も諦めようと思った事も、離れなくちゃと思った事も。それはルーンが言う様に自分が同じだからなのか、それとも女の勘と言うものなのだろうか。
「私にも分かるよ、貴女が私の為に必死に我慢してくれた事。私から取り上げる事だって出来たかも知れないのに、私と司羽の事をずっと応援してくれた。私がどんな気持ちで司羽を呼んだのか、ミシュナちゃんは一番に考えてくれたんだよね。」
「そんな……違うわ、私は自分の為に……司羽の傍に居る為にそうしたのよ……。」
「嘘つきの言う事は信じないよ。特にミシュナちゃんは、自分の気持ちに嘘をついちゃう困ったさんだもんね。今のミシュナちゃんはあの時の私と同じだよ。怖くて、不安で、自分の気持ちに蓋をして、そんな自分が本当の自分だと勘違いしてるだけの嘘つき。……だから、今度は私の番だよ。」
「……何を、言ってるの……貴女の番って……。」
ルーンの意図が理解出来ずに困惑するミシュナに、ルーンは変わらない表情で微笑みながら言った。
「んーまずは……あ、そろそろ、星詠み祭があるの知ってるよね?」
「えっ? え、ええ……確か今年は、ウチの国でやるのよね。学院生も協力する事になってるって聞いたけど……。」
「うん。その筈なんだけど、私は次元港のポータル整備に参加するから学院生の範囲では協力出来ないんだよね。」
「ああ、そうなの……確か泊りがけなのよね。」
星読み祭、エーラの各国で年毎に開催国を変えて行われる祭りの一つだ。他の国の国賓も招待されるので、次元港の警備なども大掛かりになり、その整備にも多大な時間を割くと言う話だ。もっとも、シュナは必要もない事を無駄に大掛かりにやると愚痴っていたが……。
「本来ホテルを取ってって言う事だったんだけど、私は司羽が一緒じゃないと眠れないから日帰りかな。まあそんな事はどうでも良いとして、問題は私が司羽と一緒に準備出来ないから不安なんだよね。」
「不安って……何が?」
「司羽に変な虫が付かないか不安なの。司羽は私みたいに問答無用で魔法で吹き飛ばしたりしないから、司羽の優しさに漬け込んで悪い女に騙されるかも知れないじゃない? だから、ミシュナちゃんに一緒に居てもらって欲しいの。」
「……そういう事。」
なるほど、いきなり何を言い出すかと思えばそういう事か。つまりこれは交換条件というものなのだろう。一緒にいる代わりに、司羽を見張っていろと。今は司羽と顔を合わせ難いが、トワもいるのだし問題は……。
「ちなみに、トワちゃんとユーリアさんは私が連れて行くからね。」
「えっ、な、なんで?」
「元々、寂しくなった時の為に司羽と会話出来るトワちゃんだけ連れてくつもりだったんだけど、司羽がユーリアさんも一人に出来ないって言ってね。ほら、最近の司羽って心配性でしょ?」
「……トワは通信機じゃないのよ?」
「まあまあ、女一人で遠出なんてしたら司羽に心配かけちゃうでしょ? 元々私にトワちゃんを付けるつもりだったみたいだし。司羽ってああ見えて独占欲強いから。私も拘束されてるみたいで嬉しいし。」
なんだか、軽く惚気られた様で少し悔しい。いや、そんな事より……。
「……それだと、私と二人切りになるわよ?」
「え? うん、そうだよ?」
「そ、そうだよって……貴女はそれでいいの?」
「うん、別にいいけど。私も司羽と準備したかったけど、今回の事は前々から頼まれてた事で断れないし……。」
……これは、一体どういうつもりなのだろうか。自分はずっとルーンを騙し続けて来たというのに……それを許してくれると言うのだろうか。悪い虫を追い払うどころか、司羽を奪おうとした女だと言うのに。
「何か勘違いしてるみたいだから言っておくけど、私は別に騙されたなんて思ってないよ。寧ろ、今が幸せだから感謝してるって言ったでしょ? 許してって言われても、私が許す事なんて何もないよ。司羽を好きになったのだって、十年前じゃ私が何か言える権利もないし。」
「……でも、本当に良いの? 私は貴女から司羽を取り上げるかも知れないわよ? 今回だけじゃない、これからも私が居たら……。」
「あははっ、無理だよそんなの。ミシュナちゃんは私から司羽を取って独り占め出来る子じゃないもん。そんな事したら私がおかしくなっちゃうって分かって、ずっと何も言わずに我慢してくれたミシュナちゃんが、今更そんな事出来るわけないよ。」
ルーンはそう言いながら本当に可笑しそうに笑った。司羽の事に関しては本当に潔癖で、誰よりも愛しているはずなのに、ルーンは何の心配もしていない様に見えた。
「……………。」
「さてと、私はそろそろ上がるね。あんまり遅くなると、司羽と愛し合う時間が減っちゃうし。まあ、まずは焦らず、司羽との誤解を解いた方がいいよ? 司羽ったらまだミシュナちゃんに怒られてるって思い込んでるから。」
ルーンは最後にそれだけ言うと、また花の様な笑顔を見せて立ち上がった。そしてそのまま湯船から上がろうとするルーンの手を、ミシュナは咄嗟に縋る様に掴んでしまった。
「ま、待って……。」
「……どうしたの?」
「どうして、どうして私にこんなに良くしてくれるの? 私が今までして来た事は、本当に自分の為にしたことなのよ……私に勇気がなかったから貴女を使っただけで……。」
ミシュナが言った事は間違いじゃなかった。もう一度突き放されるのが怖くて、自分は何も出来なかった。それでも司羽を留めておきたかったから、ルーンの手伝いをした。自分に嘘をついても、結局はそういう事なのだ。ルーンの言うような綺麗な気持ちだけじゃない。
「私も前に、同じような事を言ったんだけど覚えてるかな。ミシュナちゃんにホテルの招待券を貰った時だったかな、私もミシュナちゃんにこんなにしてもらう様な事してないって言ったの。ミシュナちゃん、それに対して私が知らないだけって言ったよね。」
「………ええ、覚えているわ。あの時は、司羽に合わせてくれたお礼って意味だったけど。」
「うん、やっぱりね。じゃあ私もそれと同じ言葉を返してあげる。ミシュナちゃんが知らないだけなんだよ、私もミシュナちゃんと同じなの。こうするだけの事を、ミシュナちゃんはしてるんだよ。」
「そんな、分からないわ、私……。」
「それで良いんだよ。きっと私達二人は本当に似た者同士なの。不器用で、怖がりで、一人じゃ勇気が出せない。ミシュナちゃんだってそうでしょ?」
「……………。」
はっきり言ってミシュナにはルーンが、不器用で、怖がりで、勇気がない様にはとても見えなかった。たった一人で司羽を呼び出して、自らの足で愛してもらう為の一歩を踏み出したのだ。だからそんなルーンに並ぶには、少なくともその一歩くらい踏み出せなくては話にならないだろう。……なら、もう迷うのはやめよう。こうして背中を押してくれるルーンに認められるように、ぶつかってみよう。ナナにも、シュナにも背中を押された。その上ルーンにまで押してもらったのなら、勇気が出せないじゃ情けないにも程があると言う物だ。
「ねえ、ルーン。」
「えっ……ミシュナちゃん……私の名前……。」
「ふふっ、子供みたいだけど悔しかったの。司羽に本当の名前を呼んでもらえる貴女が。私はこっちに来る時に名乗る名前を変えちゃったから。」
「………偽、偽名……だったの?」
ポカーンと茫然としてるルーンがなんだかおかしくて、ミシュナはついクスリと笑ってしまう。……名前を変えた理由を知ったら、ルーンは笑うだろうか。
「私の元の名前はミウって言うの。今ではもう、お母さんと司羽しか知らない名前よ。もしかしたら司羽は忘れちゃってるかも知れないけどね。」
「ミウ……ちゃん。」
「まあ、もう慣れちゃったしミシュナのままで良いわよ、それに呼び捨てで構わないしね。……この名前ね、司羽の国の字を当てると、美しい羽って意味の字になるの。読み方は違うけど司羽と同じ字が入ってて、それを司羽に指摘されてね、小さい頃はそれだけで嬉しかった。でも、もう司羽に会えないって思ったら悲しくて、吹っ切ろうと思って名前を変えたのよ。十年も前なのに、私は同じ事を考えて失敗してるの。結局はルーンの言う通りなのよ。私は吹っ切ろうと思って、十年前から一歩も前に進めなかった。何度も何度も失敗して今まで無理だったの。」
「あははっ、やっぱりそっか。ミシュナらしいね。」
「……もう、酷いわね。」
ルーンが笑いながらそう言うと、ミシュナもまた笑い返した。失敗した事を自分らしいと言われたのにも関わらず、ルーンにそう言われると、司羽への気持ちを認めてもらえたみたいでなんだか少し嬉しかった。
「ルーン、私司羽に振り向いてもらえるように頑張るわ。」
「……そっか、あ、でも私もミシュナに司羽を独占させる気はないからそれだけは覚えておいてね。私を除け者にして独占なんか許さないし、役所には私が第一妻で届けるからね。赤ちゃんは……まあ、出来たら仕方ないかな。」
「うっ……まあ、そのくらいなら……。気が早い様な気もするけど。」
しっかりと釘を打たれつつも、それくらいは仕方ないと納得する。元々もう独占するつもりもないし、出来るとも思っていない。正直ミシュナの倫理観的には一夫一妻が理想なのだが……もうそれを言っても仕方ないだろう。それにルーンと一緒なら、悪くないかなと思えた。
「気が早いかどうかはミシュナ次第だよ。それじゃあ、私は一足お先に愛されてるからね。」
「ええ。」
そう言ってルーンは先に湯船からあがると、タオルを拾ってそのまま立ち去ろうとする。そんなルーンの背中に、ミシュナはつい声を掛けてしまった。
「ルーン、その……沢山あり過ぎて、全部言い切れないけど………ありがとう。」
「……うん、こちらこそ、ありがとう。」
ルーンはミシュナの精一杯の言葉に、優しい微笑みと共にそう応えながら、ミシュナを残して去っていった。……今思えば、もしかしたらルーンはミシュナの背中を押すためにこうして此処に残っていてくれたのかも知れない。……そんな事を考えながら、ミシュナは自分の肩がどっと重くなり、安堵感に包まれるのを感じた。
「本当に……よかっ……た………っ……うっ……くっ……つか、ばっ……う、うっ……。」
安心して泣いてしまうなんて、まるで子供だ。こんな所をそろそろ来るかも知れないトワに見られるわけにはいかない。そう思っても涙も嗚咽も一向に止まらないまま、結局ミシュナはトワとユーリアが来るギリギリまで、一人湯船に浸かり続けた。