第53話:もう一つの恋語り(中編)
コンコン
「アレン、いるかしら?」
その日の夜更け、ネネはアレンの部屋を訪れていた。用事は言うまでもなく、アレン自身の事。そして自分の事についてであった。しかし、ノックして声をかけても一向に返事がない。時計を見ればもう十一時になるが、まさかもう眠ってしまったのだろうか。
「……まぁ、今日は訓練もあったし……。」
「ん、ネネの嬢ちゃん。アレンに用事か?」
「あ、ジナスさん。ちょっとアレンに話があって来たんですけど……もう寝ちゃってるみたいですね。」
「用事っていうと、例のことか。」
風呂上がりらしく、タオルで髪を拭いながら部屋に戻ってきたジナスにネネがそう言うと、ジナスはネネの用事を察した様だった。ちなみにアレンとジナスは同室だ。部屋の数的に、この家は基本相部屋となる。
「アレンなら多分部屋にはいないぞ。最近は帰ってくるのも遅いからな、何処かで剣でも振っているんじゃないか?」
「えっ……だって、今日はもうこんな時間ですし、訓練だってあったんですよ?」
「最近のあいつはいつもそんな感じだ。俺が眠るころまでには帰ってこない。司羽の訓練があろうとなかろうと、あいつは変わらんさ。」
「………ちょっと失礼します。」
ジナスの話を聞くと、ネネは一応の断りを入れてから部屋のドアを開いた。部屋の中には………誰もいない、もぬけの殻だ。どうやら、ジナスの言う通りらしい。
「……一体、何処に……。」
「………恐らく、いつも司羽が訓練に指定している場所だろう。どうもあそこは他よりも体に負荷が掛かるからな。今日だって、夕飯まではあそこだったんだろう?」
「………確かに、そうかも知れません。」
もしかして、最近アレンの姿が見えないと思った時は全部あそこに行っていたのだろうか? 朝から晩まで、皆と剣術の稽古をしている時以外、ずっと……。
「私、ちょっと行ってきます。」
「おいおい、流石にもうこんな時間だ。あの広い森の中じゃあ会える保証もないし、迷ったら困る。明日にした方がいいんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、私ももう慣れました。何度あの森を走り回ったと思ってるんですか。どうせアレンも、普段走っているルートを走っているんでしょう。」
「……まあ、確かにそうかも知れないな。」
ジナスがそれもそうかと頷くと、ネネは一礼して身を翻した。街の中というのなら危険だが、もうこの時間、獣の類も動いてはいないだろうし、夜の街を一人歩きするよりは安全だ。それに、ネネは伊達に侍従長をしている訳ではない。
「アレンもそうだが、あんまり遅くなるとナナが心配するぞ。」
「大丈夫ですよ、あの子はもう寝てます。」
それについては先程確認してきた。どうやらスイートピーとかいう花について調べていた様なのだが、全く情報が得られずに四苦八苦した末、諦めて寝てしまった様だ。いい傾向だとネネは思う。ナナには今まで趣味という趣味もなかったし、ああいう可愛らしい趣味はナナにとても似合っている。今度花壇を作るとか言っていたので、それは自分も手伝おう。だから、当面の心配事は後一つだけ。
「……全く、心配ばっかりかけるんだから。」
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「はぁっ、はぁっ……。」
明かり一つない夜の森を、一人、ただひたすらに駆け抜ける。
「はぁっ、はぁっ……。」
時間の感覚すら消え失せ、何かに追われる様な必死さすら感じられた。それは目的もなく、体が動かなくなるまで続くものだった。
「っ……くっ……。」
ズシャッ
あまりの視界の悪さに、木の根に足を取られ、転ぶ。単純に体力が無くなってきた事もあり、転ぶ回数も増えてきた。訓練で良く使うルートとは言え、その地形全てを把握など出来る訳もない。実戦に近い状態にする為に着た簡易な鎧すら、いつもの何十倍も重く感じる。
「体力を……使い果たす……。」
アレンは闇の中で、いつも言われていた言葉を確認する。年下の青年から指示されて訓練に励む事が、屈辱でない訳ではない。だが自分は負けたのだから、強くなる為には仕方のない事だと割り切っていた。今よりも強くなって……いずれ、越えればいい。強くなる事はその繰り返しである事を、若くして一国の騎士団長まで上り詰めたアレンは良く知っていた。だからこそ、強くなる為の努力は苦ではない。今までも続けてきた事なのだから。だが、
「………くそ。」
その悪態は、主であるリアの危機に、自分がその場にもいられなかった事に対してか。自分の部下のルークやマルサ以上に年下の青年に、総力を結集してもまるで敵わなかった事に対してか。自分達の中で最年少である、戦う力すら持たないナナが、自分の命を賭けた訓練をしている事に対してか。
……それら全てに、アレンは不甲斐ないと思ってしまう。そして何より、
「アレン、体壊すよ。ちょっと、休もう?」
「……休んだら……意味がない。」
騎士として護るべき存在に、こうまで心配を掛けてしまう自分が不甲斐ない。自分が気術の教えを請ったあの時、司羽が言った事は間違いではない。騎士としてのプライド以上に今は、この集団の要でもある事はアレンも自覚していた。そんな自分が周りに気を遣わせる等、あってはならない事だという事もまた、司羽に言われるまでもなく分かっている。忘れていた訳じゃない。だからこそ、それを指摘されても何も言い返せなかった。そして分かっているからと言って、訓練を投げ出す様な実力がない自分が腹立たしい。
「いいからちょっと休みなさい。起き上がるの禁止よ。まだ走ろうとするなら、下半身麻痺させるわよ?」
「…………。」
腰に挿した、小さい簡易の杖を抜くと、ネネは倒れているアレンに向けて脅した。そんな物を向けられたら疲れきっている今のアレンに抵抗する力はない。それに元より魔法に関してはネネの独壇場だ、リアの側使えとして幼い時より魔法の訓練を積んだネネには、魔法ではとても敵わない。王女の専属侍女とはそういう存在だ。アレンと同じく、ネネもまたリアに使えるべく才と努力を認められた存在である。
「あんたは無茶し過ぎなのよ。フィリア様に心配かけてどうするの、あんたは騎士様でしょうが。」
「………ああ。」
「ああ……って、本当に分かってるのかしら。」
「………分かっている……分かっているが……。」
「いいや、分かってないわ。アレンは決して弱くない。身内贔屓じゃない、ユーリアも……司羽さんも、そう言ってる。
それは嘘ではない。ユーリアもあの場にアレンが居ればリアを追い詰められなかったと言っていたし、司羽も同意見の様だった。そう、きっとそれは事実。だが、アレンはそれに対して何も感じない。
「……だから、なんだ。」
「なっ、だからなんだって、無茶な訓練する必要ないでしょって言ってるのっ!! あの時は運が悪かっただけで……アレンの実力が足りなかった訳じゃ……。」
「……運が悪くて……フィリア様は死ぬのか。」
「っ……な、なんでそうなるのよっ!! だからそうならない様にちゃんと備えて……。」
「……備えても、自分より強い相手に会ったら終わりだ。今回の相手は偶然、俺が居れば大丈夫なレベルだった。運悪く相手が強ければ、俺達は死ぬ。運悪く俺達が居なくてもフィリア様は死ぬ。ならば、訓練も必要だ。備えるばかりで何もしない理由にはならない。」
「それはっ………そうかも知れないけど。」
アレンの言葉に、ネネは言葉を詰まらせた。アレンの言いたい事は分かる。ネネ達も、それが分かっているからこそ司羽に頼り、訓練をつけて貰っている。ネネも、自分の言っている事が単なる我が儘だと分かっていた。
「それに、フィリア様の最低限の警備は俺がいなくとも出来るだろう。俺がいなくとも、まだ大丈夫だ。」
「そんなの分からないじゃない、敵がいつくるのか……どれくらいの強さなのか。」
「だからこそ、早い内に訓練を積むんだろう。後になればなるほど来る可能性は上がる。今直ぐにまた仕掛けてくる可能性は低いと司羽も言っていただろうが。本当に必要な時、弱いままではどうにもならん。」
リアに対し一傭兵団を雇って失敗したのだ。ガムシャラに派遣してくるのではなく、次は情報を整理してから改めて攻撃してくるだろうと言うのが司羽の意見であった。共和国側も馬鹿ではない、レジスタンスの動きは制限されるはずだ。
「それに今ならば学園での警備は司羽がいる。一番の不安要素が潰れているんだ。ならばその分、俺達は強くなる必要がある。いつまでも、あいつに頼る訳にはいかない。あいつは究極の所は部外者だ。」
「…………。」
「………おまえ達は甘い、ナナの事に憤る暇があるならあいつを見習え。命懸けでフィリア様を護ろうとしているんだ、俺よりも余程の忠臣だろう。……まだまだ護られるべき立場のナナが、一番努力をしている……このままではいけないんだ。」
ネネに対してそう言ったアレンの眼の色は、複雑な色を湛えていた様に見えた。護るべき者に護られる、このままではきっとそうなるだろう。ならば何の為の騎士だろうか。一体何が出来ようか。
アレンはそこまで言い放つと、身を起こして、何も言い返さないネネに顔を向けた。……しかし、そこに居たのはいつものネネではなかった。
「そっ……んなの……私も……分かっ……。」
「………なんで泣くんだ、お前は。」
「うるさいっ………ばかっ。」
眼を逸らしたネネのその表情からはいつもの気丈さは消え、ただ子供の様に泣いていた。アレンにとっては久々に見る、ネネの弱い表情。
「……お前が泣くのを見るのは、久しぶりだな。」
「だからっ……うるさいっ!! ……私だって……泣くのなんて……。」
「…………。」
そういえばネネも昔は泣く事も多かったと、アレンは思い出していた。幼い頃から、自分が騎士見習いとして剣技の自主練をする傍らに侍女見習いのネネが居て、今日は侍女隊長に怒られたとか、魔法が全然上手くならないとか、そんな事を延々と話ながら泣いて、自分に差し入れか何かを持ってきていた。それはまだ二人が、今のフィリアよりも幼い時の話。………ネネが涙を見せなくなったのは、いつからだっただろう。
「……変わったな、お前も。」
「変わったのは、アレンの方だよ………私の前でも、笑わなくなった。」
「……そうか。」
ネネも久しく見ていなかった。アレンの鉄面皮が笑顔を見せるなど、皆に言っても信じて貰えないかも知れない。それくらいの月日、アレンは笑わなかった。
「最後に笑ってくれたのは……、いつだっけ。」
「笑う余裕なんて、俺にはない。」
「……そう、あれは確か。」
アレンはネネから視線を逸らす。ネネの涙など見慣れたと思っていたが……やはり、自分は変わったのだろうか。そんなアレンの思考は、しかしネネによって停止させられる。
「……私達が国から逃げてから……ううん、フィーネ様が亡くなってから……かな。」
「っ……ネネッ!!」
「だってそうでしょう!? 私は知ってるもの、アレンがフィーネ様を守る為に騎士になった事……。」
アレンは咄嗟にネネに振り返り叫んだが、ネネの悲しそうな表情と声に、言葉に詰まる。何とか一言だけ返そうと、言葉を絞り出す。
「王妃様は……フィーネ様は……関係ない。」
「私は全部知ってるよ。アレンが16歳で騎士隊長になるくらい一生懸命だったのは、フィーネ様の御恩に報いる為、フィーネ様を守る近衛騎士になる為だって。」
「それはっ……。」
「違わないっ!! 私はフィーネ様に拾われて、フィリア様に仕える前からアレンだけを見てきたっ!! だから私は誰よりもアレンを知ってるっ!! 頑張ってたのも、苦しんでたのも、全部知ってるわよっ!!」
アレンの言い訳を許さないネネの発言は、まるで爆発するかの様な激しさでアレンを襲った。そこに質量などなくとも、それはアレンを一歩後退りさせる。だがその苛烈さも長くは続かず、ネネは疲れ果てた様に膝をついた。
「……生まれたばかりのナナと二人だけの私を見付けて、教会まで案内してくれたあの時から……私はアレンだけを見てきたんだもの………私には、分かるわ。」
「………そう、だったな。」
そういって俯いたネネにはもう先程のような激しさはなく、ただアレンに胸の内を伝える。アレンは明確な返事もしないままに、ただそれを受け止めるだけだった。
……アレンもまた、ネネの気持ちにはとっくの昔に気が付いていた。ただアレン達の置かれた状況がそれを許さず、それから眼を逸らしていただけ。
「フィーネ様は……俺達をお護り下さった。俺達を逃がす為に……自分は城に残ったんだ。」
「アレン……やっぱり、気にしてるんじゃない。」
「当たり前だ。本来騎士として護るべき立場の俺が……護られるべきフィーネ様に護られたんだ。こんな事は本来ならば騎士の名を名乗る事すら出来ない程の失態だ。俺は、よりにもよってフィーネ様にっ……!!」
そう言って声を荒げたアレンの表情は、ネネも見たことが無い程に後悔と苛立ちに満ちたものだった。司羽の言葉はそれ程までにアレンの心に突き刺さり、アレンを追い詰めていた。核心をついていたからこそ、アレンには何よりも響いた。そんなアレンが見ていられず、ネネは立ち上がりアレンに詰め寄ると、首を横に振って否定した。
「違うよっ、それはアレンのせいじゃない!!」
「どうしてそう言えるっ!! 俺一人残っても変わらなかったからとでも言うのか? だからフィーネ様を助けられなくても仕方がなかったとそう言うのか!?」
「そんな……そんなの……だってそうじゃない!! アレンも残って無駄死にして、一体何になったって言うのよ!?」
アレンにますます苛立ちが募った。自分のせいではないと、庇ってくれる声が痛い。アレンのそんな気持ちは、ネネには分からない。ただアレンが自分を一人で責めている事だけが分かっていた。だからこそネネはアレンにそんな風に思っていて欲しくなかった。その苛立ちや悲しみが、或いは憎しみだとしても、分かち合えるなら少しでも背負ってあげたかった。
「どんなに悔やんでも仕方ないじゃない!! あの時はフィリア様一人逃がす事さえ難しかったのよ。それに加えて幼かった侍女見習いの皆も一緒に居た。私達侍女隊だけじゃあまりに厳しい状況だったから、フィーネ様はアレンを信じて、貴方達やジナスさんを私達に付けてくれたんじゃないの!?」
「だからなんだと言うんだ、結果的に俺はフィーネ様に護られた。護られる騎士になんの意味がある? お前の言う通り俺はフィーネ様を護りたかった!! それがどうだ、フィーネ様は死に、俺は生きている!! 俺はせめてフィーネ様を護って死にたかった!!」
「っ………アレンッ!!」
パアンッ!!
闇の中に高い音が響き渡る。ネネの平手が打ち出したその音が消え去るまで、アレンは何も出来ず呆然と眼を見開いているだけだった。しかしその時のネネの表情と瞳は、アレンの脳裏にしっかりと刻まれている。
「ぐっ………ネネ……お前っ。」
「……アレン、貴方は今フィーネ様を侮辱したわ。フィーネ様だけじゃない、フィリア様や、私達もよ。今の言葉を訂正しなさい!!」
「侮辱などしていないっ!!」
「いいえ、貴方は侮辱したわ!! フィリア様や私達家臣を一人でも多く助けたいって思ったフィーネ様の気持ちを侮辱し、フィリア様を護る事は不満だと言ってフィリア様と私達を侮辱したっ!! せめてフィーネ様を護って死にたかったなんて、そんなの侮辱以外の何物でもないわよっ!!」
アレンにつかみ掛かる勢いで叫んだネネの瞳は怒っていた。アレンの言葉は、敬愛する主と、その母と、大事な家族と、何よりも大事な人の命をおとしめる言葉だったと。
「くっ……騎士として、主を護って死にたいと言って何が悪いっ!!」
「アレンが言ったのはそんな格好良い言葉じゃない。フィーネ様を護れなかった何年も前の事を引きずって、今の主も見ずにウジウジ自分を責めてるだけよ!! 今アレンが護らなきゃいけないのはフィーネ様じゃないでしょう!? アレンはさっきから何かと理由をつけて過去を嘆いてるだけじゃない。それの何処が騎士だって言うの? 貴方がフィーネ様の為の騎士だって言うのなら、最後にあの人が望んだ事くらい叶えて上げなさいよ!! フィーネ様が望んだ事、分からないアレンじゃないでしょう!?」
アレンに対してネネは言い淀む事もなく、ただ言葉を打ち付けた。そしてその言葉の全てが、アレンの中にあったはずの次の言葉を打ち消していく。そんな事はないと、何かを言わなければいけない筈なのに、アレンは何も言い返す事が出来ず、ネネの視線に耐えることしか出来なかった。……そしてネネは何も言わないアレンから、失望したかのような表情で離れた。
「いままでアレンが必死になって訓練を積むのは、全部フィリア様や私達を護る為、フィーネ様の願いを叶えてあげる為だって思ってた。だから今日アレンの訓練を止めに来たのも、私の我儘だから止められなくても仕方ないって、そう思ってたのに。……でも、違ったのね。アレンの中に、私達は最初から居なかった。」
「…………。」
「私はもう何も言わない、勝手にすればいいわ。貴方になんて頼らなくても、私達がフィリア様を護ってみせる。……それじゃあね。」
ネネはそう言うと、踵を返して屋敷のある元来た道を帰っていく。アレンに振り返ることなく、真っ直ぐに。………そして静かになった森の中、アレンはただ一人その場に立ち尽くしていた。ネネに言われた言葉、そして自分が今までやって来た事を思いながら。
「……侮辱、だと? 俺がフィーネ様達を……。」
そんなつもりなどなかった。敬愛するフィーネも、その娘であるフィリアも、共に護るべきものとして心に決めた人だったはずだ。それを、自分が侮辱したと言うのか。
「……そんな事はしていない。フィーネ様を、侮辱など……!!」
自分を拾い、未来をくれた主の為に命を賭けて、努力をして何がいけない。それが結果的にフィーネの願いを叶えることに、フィリアを護る事に繋がるのではないのか。そして主の為に死ぬことが出来なかった事を悔やむことが、それ程罪な事なのか。
「俺が間違ってる………のか?」
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「ガラにもなく悩んでるな、アレン。」
「……ジナス先輩、どうしたんですか。」
「ああ、散歩がてらにちょっとな。まったくあのトワって嬢ちゃんは手加減がないからな、未だに背中が痛くて堪らん。司羽のあれもあれで痛いんだが、あいつはもうプロの鞭捌きだからな、尾を引かない分まだマシだ。」
暫く考え込むように動かなかったアレンに向かって声をかけたのは、自分と同室のジナスだった。なんだか腰の辺りを摩るようにしているが、恐らく訓練でトワに打たれた鞭の痛みが残っているのだろう。咄嗟の事にアレンも少し動揺したが、そんな姿を見ていたら緊張も自然に溶けてしまった。
……そんな事よりも、アレンは気になった事を聞いてみる事にした。
「俺は、間違っているのでしょうか。」
「……エラく直球だな、どうした。」
「誤魔化さなくていいです、見ていたんでしょう? 先輩以外にこの場所は伝えていない。なら教えたのは先輩をおいて他にいない。先輩がこの夜の森を、ネネ一人でこさせるとも思えません。帰るだけなら分かるでしょうが、この森で俺を見つけるまでに迷わないとも限りませんから。」
「なんだ、バレていたのか。時間を置いて出てきて損をした。分かっているなら先に言え。」
悪びれもせずにそう言ったジナスに、アレンは特に責める様子もない。ネネをここまで安全に連れてきてくれた事には感謝しないでもないし、聞かれてしまったものは仕方ないとアレンは思っている。
「ネネの言う通りです。俺はフィーネ様の為に騎士になりました。」
「そうらしいな。」
「フィーネ様の為に死ねなかった事を悔やむことは罪なのでしょうか。」
「………さぁ、どうだろうなぁ。」
木に寄りかかったジナスは、アレンからの視線を受けながら考える様に目を閉じた。答える気がないのかとアレンが思ったその時、ジナスが口元に笑みを浮かべているのに気付いた。
「何を笑っているんです?」
「いや、俺以外にも同じ様なやつがいるんだと思ってな。まさかアレンがそうだとは思わなかったが。」
「先輩が?」
「そう驚く事もないだろう、俺は王族の近衛騎士で、親衛隊の一員だ。立場的にはお前よりも王妃様の近くに居たんだぞ? 王妃の護衛をしたことも幾度となくある。あの頃は憧れもしたし、主として尊敬もしていた。無論俺はただの騎士だ、特に何かあった訳じゃなかったが、それでもあの人の優しさは知っていた。お前たち三人がフィーネ様が拾ってきた元孤児だって事もまぁ、知ってる。なんせその場に居たからな。」
「…………。」
アレンはその事は初耳だったが、恐らく、ネネやナナも知らないことだろう。この話自体他の家臣の前でも大っぴらに話す事はない話題だ。だがアレンはそれよりも、ジナスが自分と同じだと言った事の方が気になっていた。ジナスもそれは分かっていた様で、直ぐに話題を元の軌道に修正する。
「俺だって未だに思う事もあるんだぞ。俺の力じゃ何も変えられなかった、ってのは分かっている。だがもしかしたら王妃様お一人くらい助け出す事が出来たかもしれない。代わりに俺が死ぬことになったとしても、フィリア様を護れって王妃様の御命令に逆らう事になったとしても、もしかしたらってな。結果王妃様を護れず死ぬことになっても、きっと後悔はなかったさ。」
「ええ、結果として俺は何もしなかった。フィリア様の為といえば聞こえはいいが……。」
「……お前は真面目過ぎるな、ネネの嬢ちゃんもだが。」
拳を握り締め、悔しさを隠そうともしないアレンと、先程まで此処に居たネネに対し、ジナスはそう評して苦笑した。
「さっきアレンがした質問の答えだが、俺が思うにどっちもどっちだろ。俺からしてみればお前の気持ちは良く分かる。騎士としてのプライドも、主を見捨てた葛藤も、きっとネネの嬢ちゃんには分からない事だろうな。お前が王妃様に対して個人的に恩義を感じていたなら尚の事だろう。……それに嬢ちゃんがお前の自主訓練に対してやり過ぎだって否定するのは、相手がお前だからだ。さっき言っていた、今訓練が必要だって意見は間違ってない。俺も同意見だ、賛成する。」
「……………。」
「だが一方で嬢ちゃんの言いたいことも分かるんだよ。俺達には、俺達を家族と言って慕ってくれるフィリア様って主がいる。それを護る事を一番に考えるのが騎士としての努めであり、他でもない王妃様の願いでもある。それにこんな事は言いたくないし、俺に言う権利もないだろうが、死んでしまった人の事を悔やんでも何も変わらないからな。それに訓練が必要だっていってもやり方ってもんがある、ガムシャラにやっていても身には付かないぞ。」
「……ええ、頭で分かってはいるんですが。」
アレンはジナスの言葉を受け止めながらも、自分の答えが出せなかった。どうする事が正しいのか、もしくは正しかったのか。ネネとジナスの言葉を聞いて尚、自分の中で決着が付かない。そんなアレンの思考に気付いたのか、ジナスはまた笑みを浮かべていた。皆を不安にさせない為、最も頼られるべき人間は余裕を持っていなくてはならない。そんな、何度も自分に言い聞かせた言葉を、アレンは思い出していた。
「一つ、アドバイスをしてやろう。」
「なんですか?」
「自分を好いてくれてる女くらい、泣かせないでやれ。そんな男は最低だ、地獄に落ちろ、寧ろ早く死んでしまえ。………昔、王妃様に言われた言葉だ。クソ真面目な顔で、見下すような眼で言われた……俺のトラウマの一つだ。」
「……………。」
アレンは思った。フィーネとは特に何もなかったとジナスは言っていたが、ただの近衛騎士を、たった一人だけ娘と一緒に逃がすだろうか。確か昔教会に住んでいた自分達を引取りに来たフィーネは、お忍びだと言っていなかったか。ならばただの近衛騎士を、お忍びの護衛になど付けるだろうか。
「もう一ついいですか?」
「なんだ?」
「既に泣かれたのですが、どうすればいいですか?」
「……俺が分かると思うか?」
「………他を当たります。」
アレンが少し迷ってからそう言うと、ジナスは呆れた様に溜息をついてアレンに背を向けた。そして何も言わずに立ち去っていくジナスの後ろ姿に、アレンもまた無言で、一つ礼をしたのだった。




